中篇|風が運ぶもの

取材予定の最終日、綾乃はチケットをキャンセルした。

理由は、言葉にすれば簡単だけれど、口に出すには勇気がいった。


「あと、三日だけ。もう少しだけここにいたいんです。」


編集部にはそう伝えた。

本当の理由は、きっと彼女自身がいちばんわかっていた。


──この町に、まだ聴いていない音がある。

──あの人の手から、まだ感じたい温度がある。


修一には、何も言わなかった。

でも彼は、どこか察していたような、そんな静けさで、いつも通りに作業を続けていた。


その三日間、特別なことは何もなかった。


彼は木を削り、綾乃はそれを見つめ、時々ノートを開いて何かを書き留める。

ときおり交わされる会話は、必要最小限。


けれど、その沈黙すら心地よかった。

まるで、同じ風の中にいるだけで、何かが通じ合っているような。


綾乃は、ふとした瞬間に何度も彼の横顔を見ていた。

削る動き、手の力の抜き方、そして削り屑がふわりと舞うその刹那──

なにもかもが美しかった。


四日目の朝、彼女はついに作業場を後にする日を迎えた。


荷物は前夜のうちにまとめてあった。

カメラ、ノート、持ち帰る予定の資料。

どれも、記者としての自分には必要なものだった。


けれど、心に残っていたのは、あの青いプリンの味と、

「もう行っちゃうのか?」とつぶやいた彼の声だった。


彼に、ちゃんとお礼を言わなきゃ。


そう思って作業場へ向かうと、修一はすでに作業台の前に立っていた。

いつもと同じ表情、いつもと同じ動作。


だけど、綾乃が入り口に立ったその瞬間、手を止めてこちらを見た。


「……東京に戻るんですね。」


それは、確認というより、静かな了解だった。

綾乃はうなずき、笑った。


「記事、ちゃんと書きます。だから……」


一歩踏み出して、彼の前に立つ。


「だから、また来てもいいですか?」


彼は、一瞬だけ驚いたように目を見開き、

すぐに、ふっと息を吐いて言った。


「……待ってます。」


たったそれだけ。

でも、綾乃の胸の奥は、それだけであたたかく満たされた。


東京に戻った後、彼女は本気で書いた。

飛騨のこと、職人のこと、そして修一のこと。


──彼の名前は出さなかった。

でも、彼の言葉も手のぬくもりも、記事の行間にすべて詰め込んだ。


記事は雑誌の特集として掲載され、大きな反響を呼んだ。


「静かで美しい話だった」

「職人の目線に心を打たれた」

「飛騨に行ってみたくなった」


綾乃のもとには、たくさんの読者からのメッセージが届いた。


けれど──


彼からは、何もなかった。


SNSの通知も、メールも、ポストも、沈黙のままだった。


数日後の夜。

玄関を開けると、小さな包みがそっと置かれていた。


差出人の名前は、なかった。


でも、彼女はそれを見た瞬間、確信した。


──これは、彼からだ。


丁寧に削られた小さな木箱。

手のひらにすっと馴染むサイズ。

蓋を開けると、中には空のガラス瓶──


あの、青いプリンの瓶だった。


それだけで、十分だった。


彼は、言葉の代わりに、手で返してくれた。


『君の書いたもの、ちゃんと届いた。

木と同じように、人も、時間がかかるものなんだと思う。


飛騨高山 修一』


涙が止まらなかった。


彼は、ちゃんと読んでいた。

言葉ではなく、木の香りと形で、返事をくれた。


──なら、もう迷わない。


綾乃は静かに頷いた。


次に風が吹くとき、自分はもう一度あの町へ戻る。

今度は記者としてではなく、「誰かの隣に立つ人」として。


風はまた、木々を揺らしていた。


(つづく)

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