8 体育祭(2)

 天人と佰乃が教室から去った後、ハルは張りつめていた糸がぷつりと切れたように、その場へ崩れ落ちた。息を吸おうとしても呼吸は浅く、思うように空気が入ってこない。ハルは自分の肩の上に堂々と陣取るジュリエットをにらみつける。


「……あのさァ、人の肩に容赦なく乗らないでくれる? 君、めちゃくちゃ重いんだけど……」

「なっ! レディーに向かって重いとは何事! この猿め!」

「ぎゃふん!」


 容赦なく蹴られ、ハルはロッカーに背中をしたたかぶつけた。「痛っ……」と言いながらさする姿を見つつ、ジュリエットは内心で焦りを募らせていた。


 ここ数日、彼を堕とすためにどれほど囁き続けてきただろう。しかし、彼は微動だにしない。むしろ、自分のほうが彼に引きずられるようになってしまっている。通常であれば、相手のほうからこちらを求めてくるものなのに――。


 このまま負けるわけにはいかない。

 負けたら、私の目的は果たせない。


 何が、この子をここまで支えているのか。どうして揺らがないのか。攻略の糸口が見えない未来に、ジュリエットは深いため息を落とした。精神攻撃も効かず、物理的攻撃をしようとしてもこのざまだ。


 ――そういえば。


 ジュリエットはふと思い出すようにハルに声をかけた。


「さっき来た子たち、ハル君の仲間? あの、メガネケースを取りに来た子」

「そう。藤崎天人って言って、とんでもないペテン師」

「ペテン師? どういう意味?」


 ハルは床に手をつきながらロッカーに背を預けた。

 その顔はどこか嬉しそうで――同時に、どこか儚げで、今にも消えてしまいそうだった。


「あいつ、すっごく嘘つくんだ。人にも、自分にさえ嘘をつく。ハル、嘘つきって大嫌いだから、最初は“こんなやつ一人で勝手に死ねばいい”って本気で思ってた。でも、去年の冬に天人の友達絡みの事件があってさ……そのとき初めて知ったんだ。あいつは普通の人間で、それは何も間違いじゃないって」

「おかしなことじゃない、ねえ……」


 ジュリエットは顎に手を当てながら、彼の言葉から何か弱みを探ろうとする。


「それから知っちゃったことがいっぱいあってさ。何より佰乃は“天人を死なせちゃいけない”って言うんだ。だからハルも、自ずとそう思うようになった。守らなくちゃって」


 ――ああ、そういうこと。


 ジュリエットの胸がざわついた。

 ここ数日、彼に触れてもなかなか芽吹かなかった感情が、一気に蓋を外したように溢れ出していく。


 君の強さは、そんなにも身近なところにあったんだね。

 だったら――そんなもの、私が壊してあげる。


「ねえ、ハル君」

「なに?」

「君が守ろうとしている人たちは……本当に、守るべき相手なの? 本当に、彼らを信じていいの?」

「どういう意味……?」


 ジュリエットはゆっくりと、這うような気配でハルに近づく。

 彼の、簡単に壊れてしまいそうな心の奥へと、静かに手を伸ばすように。


「あの子――佰乃ちゃんは、本当に君が守るべき相手なの?」

「そうだよ。だって、佰乃にはハルしかいないんだから」

「でも、それは“これまで”の話でしょう? 彼女は天人君や、もう一人の女の子と出会って変わったんじゃない? あなたたちは、もう二人だけで支え合う必要はないんじゃない?」

「……たしかに、佰乃は全然笑わない子だったよ。でも――」

「でしょう? でも彼女は変わった。殻を破りはじめて、自分の足で歩こうとしてる。笑顔だって、取り戻してきてる」


 ハルの脳裏に、一年分の記憶が流れ込む。

 最悪の出会い、最悪の力。それでも佰乃が進んだのは、闇ではなく光の方だった。ハルの伸ばす手が追いつけないほど、佰乃はまっすぐ未来へ歩いていく。いつの間にか、佰乃は天人たちの手を取り、笑うたびに――ハルの存在はすこしずつ薄れていく。


 嬉しいはずなのに。

 なのに、何かを否定されていくようで、怖い。


 ジュリエットの手が、そっとハルの肩に触れた。


「彼女にとって……君は、まだ“必要”なの?」


「ま、まって。何? 何を云いたい……――」

「ふふふ、とても単純なこと。君も気がついているんじゃない?」


 ――この言葉を受け入れたくないって。


 不思議とジュリエットの双眼から目が離せない。今すぐ離れろ、そう体が言っているのに金縛りにあったかのように動かない。

 ハルは咄嗟に耳をふさぐ。


 聞きたくない。

 怖い。

 きっと、その言葉を受け入れたら、自分が壊れてしまう。


 争おうとするハルと前に、ジュリエットの左口角が不気味に釣り上がった。


「――君の存在価値は、どこにあるの?」

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