4
男のせいで残業になった俺が帰宅すると香織がリビングに立ち尽くしていた。靴を脱ぐ俺に振り向いて手招きする。香織が見ていたのはリビングの隣の和室だった。そこに一歳半の深が座っている。周りには大量の紙きれが散らばっていて、何やら懐かしい色合いをしていた。深はそれにクレヨンでさらに色彩を足している最中だった。
「全部破いちゃったの……桃太郎も猿蟹合戦も……」
「あ、あれ絵本か」
よくよく見れば確かに八つ裂きにされた蟹や猿、鬼の断片が見えた。
「他にもかちかち山とか浦島太郎とか……」
俺は思わず笑いだしてしまった。素敵な所業だと思った。深の年齢ならではの。今も深はクレヨンで大真面目に着色してる。絵本の断片を。そしてクレヨンが畳に伸びたところで香織が悲鳴を上げて深を抱え上げた。俺は腹を抱えて笑ってる。
「もう笑い事じゃない。これからどうすればいいの?」
「また買えばいいよ。今度は別の絵本を。それでまた破くならいいじゃないか」
八の字眉になっていた香織がふと真顔になった。深の後頭部に左手を沿える。
「あなた、今日どうしたの?」
「何も」
なにも。俺は畳の上に散らばるぐちゃぐちゃの絵本を眺めた。あそこに深と転がって、うんこでも漏らして眠れたら素敵なのにと思った。なんでかな。
ゴースト、ウィスパーズ。
指をさす。ピンクのカエル。
――君は分かっているはずだ。
俺はその日のうちに男の要望を上に報告していた。それから男について何も知らせはなかった。どう処理されるにせよ、それはもう俺の手を離れている。だから、俺は男がどうなったのか実際には知らない。
だが、数ヵ月経つ頃、奇妙な噂話が流れてくるようになった。それは職場の同僚や香織からも聞いたし、電車で乗り合わせたサラリーマンの会話からも聞こえて来た。内容はこうだった。
「夜に眠れない人たちがある日を境によく眠れるようになった」
「目を覚ました人は晴れやかな表情で決まってこう言う」
『ゴーストが歌っていた』
あの男だ、と思った。根拠などなく、ただの直観でそう思った。
あの男はゴーストになれたのだ。
ピンク色のカエルが日増しに大きくなりつつある。
捕まり歩きをする深を平たい目で見るカエルは一回り大きくなっていた。分かっている。俺が魅かれているからだ。向こう側の世界に。そういえばいつから逃げなくなったのだろう。昔は逃げていたし、淳也に退治してもらっていたのに。
考えてみれば決まり切っていた。淳也が死んでからだ。厳密には淳也と最後の会話をしてからだ。
俺は多分、男のようにカオスやことばにはあまり興味がない。だが、淳也にまた会えるかどうかは気になっていた。向こう側に行けば淳也に会えるのだろうか。そう考え始めると、その考えに取り憑かれた。そしてカエルと喋るようになった。
コロコロコロ……。
コロコロコロ……。
コロコロコロ……。
カエルは何にも答えないが、俺はほとんど抗いがたいものを感じる。
夜眠ろうとすると、布団の中から桃色に発光するカエルが見えた。俺はそのカエルにそっと手を伸ばす。カエルは平たい目で俺の手が触れようとするのをじっと見ている。
「塔也さん」
俺は手を引っ込めた。隣で寝ていた香織の寝言だった。俺は冷や汗をかいている。香織が寝言で淳也の名前は呼んでも、俺の名前を呼んだことは一度も無かった。これまで一度も。思わず荒く息をつくと、香織が寝返りを打って瞼を開けた。
「……どうしたの?」
俺は香織の肩に手を回して香織を抱き寄せた。
「なんでもない……なんでも……」
香織はそれ以上聞かず、俺の背中に手を回した。そして、そのまま二人で眠りについた。香織の肌から漂うミルクのようなにおいに包まれて、夢を見た。白い光の差す病室の夢だった。
翌朝、香織は休日出勤で、俺と深が留守番をしていた。深は相変わらず和室で遊んでいる。今日は積み木のようだった。千切った絵本は、香織が捨てられないまま和室の隅によけてある。俺はそれを横目に見ながら、リビングの中央に座るカエルを見つめた。カエルはもう二回り大きくなっていた。
果たして、あちら側に行ったとして、俺は俺なのだろうか。淳也に会おうとするこの俺は残るのだろうか。そしてその後は――?
俺は
間違ってるな……。
何もかも間違ってる。
――抗いようがないからだ。
俺はカエルに手を触れた。そして即座に闇に呑まれた。
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