第7話 蓮は夏に散り、鏡は輪郭を捉える。
まだ僕は余韻に浸っていた。あの試合後の
大切な人。その言葉を思い出す度に、心が躍り景色が華やいで見える。彼の事を考えていると、時間が一瞬で過ぎ去っていく。
ああ、僕は……。
そうか、これが……やっと分かった。
胸の奥で凝り固まっていた何かが、ふっと溶けた。今まで輪郭が定まらなかった気持ちにピッタリの名前に気付いたからだ。
何故、すぐには思わなかったのだろう……いや、むしろ「思わないようにした」のかもしれない。それは、きっと実るはずの無いものだから。
この気持ちは心に秘めておこう。今の関係が終わるかも知れないなら、このまま曖昧なまま出来る限り一緒に居たい。
それくらい、彼に依存してしまっている。
ただ、今は一つの色を覚えたような感覚だけが残っていた。星の数ほどある色の中でピッタリの一色を選べたような、そんな嬉しさが残っている。
◇
結局、次の試合の日になるまで余韻は抜けなかった。
そして、何となく今までの試合を見て来て分かった事がある、蓮沼は試合の後半にならないと出て来ない。
試合が始まったばかりのタイミングは少し安らかな気持ちで試合を眺められた。
白球を追いかける選手たち。ファインプレーが飛び出すとスタンドは歓声に包まれる。
……たまにブルペンの蓮沼が映る瞬間には自然と声が漏れてしまった。未だに余韻が抜けていないかも知れない。
回が進み、八イニング目に先発投手が二者連続でランナーを出した所で監督がベンチを出る。蓮沼がマウンドへ走って来た。
テレビに近付いて食い入るように見つめる。
『さあ今日も出て来ました、“唸る豪速球”蓮沼くん!』
『彼の速球は強度がありますから、注目の選手の一人ですよ』
……なんか変な異名が付いている。それだけ有名になっている証なのだろうか。
『マウンドから鋭い目つきで打者を睨んでいます! テンポ良く二球で追い込みました!』
『打者も真っ直ぐを狙ってるのに、それでも捉え切れてないですね』
『ここもストレートで行くのか、空振り三振! 全球ストレートで三球三振! 完璧な投球を見せました蓮沼くん!』
スタンドが蓮沼の投球に割れんばかりの歓声を浴びせている。なのに……蓮沼の様子が変だ。いつもなら思い切り叫ぶのに、突然マウンドにしゃがみ込み項垂れて動かない。
とてつもなく嫌な予感がする。背筋が凍るような、そんな予感が……。
◇
突然、バチンッという嫌な感触と共に、脇腹に冷たい衝撃が走った。まずい事になったと瞬時に理解する。
痛みに耐えられずマウンドにしゃがみ込むと、周りに内野手と捕手が、数秒遅れて監督が集まって来た。どうする。いや、まずは伝えないと。
「どうした、蓮沼」
「すみません監督。多分、脇腹やりました」
「……そうか、気にするなよ。お前のせいじゃない」
「違います! 俺の調整不足です!」
「いや、そんな事はない。運が悪かっただけだ。今はベンチに下がれ」
「すみません……本当に」
「何も言うな、お前は本当に良くやってくれた」
「……すみません、すみません」
じわりと視界が歪む。周りに迷惑かけた俺なんかが泣いていい訳がないのに。まだ試合は続いているんだ。泣くな! 泣いて傷が治るのか! 試合が有利に進むのか!
「蓮沼!」
「……はい」
「あとは任せろ!」
「……っ!」
「次の回十点取ってやるよ!」
「お前は何も気にする必要ない」
「いつも蓮沼には助けられてるからな、今回はこっちが助ける番ってだけだ」
グラウンドで戦っている仲間たちの言葉が胸に刺さる。余計に頬が熱く濡れていく。
◇
「処置は終わったか」
「はい、監督」
「もう気持ちは切り替えたな」
「切り替えました」
「よし、後は仲間の応援だ!」
「はい!」
精一杯ベンチから声援を送る。もう、大会中に復帰は厳しいかも知れない。でも俺達の夏は終わってない!
痛みに耐えながら、出来る限りの大きさでグラウンドに声援を送り続けた。
◇
あの時のベンチの日陰の涼しさが、やけに記憶に残っている。
俺が怪我をした試合は何とか逃げ切ったものの、次の試合はあっさりと負けてしまった。
試合後、監督もチームメイトも泣いていた。
俺も全身の水分が無くなって消えてしまえばいいと思いながらスタンドで泣いた。
正直、あの後の記憶はあまりない。気の抜けた炭酸のような状態で学校に帰って来た。沢山の人に迎えられたけど、俺はずっと下を向いていた。
誰も俺を責めて来ない。それが本当に辛くて、何も手に付かなかった。美術部だって行ってない。
今の俺は、抜け殻だった。
家のベッドで横になっていると、スマホに着信の通知が来た。何気なく確認すると鏡野からだった。
心臓がキュッと締め付けられたような感覚になり、背中が冷たくなる。きっと、心配してくれてるんだ。でも、俺は……鏡野から逃げて……。
いや、俺は向き合わないと……負けた事に。鏡野に伝えるんだ。約束、守れなかったって。
『もしもし』
『あ、蓮沼! 良かった、出てくれた』
『……悪いな、しばらく美術部行けなくて』
『そんな事どうでも良いよ! 今の蓮沼、きっと凄く辛いだろうし……来たくなってからで良いからね』
『……本当に優しいな。鏡野は』
『蓮沼にだけだよ』
『はは、そりゃ嬉しいな』
『……でも、たまには声を聞かせてくれたら嬉しいかな』
『ああ、暇な時に連絡くれよ』
『…………』
『どうした、鏡野?』
『僕は……蓮沼が好きだ!』
『? 俺も大好きだよ』
『……君が隣に居るなら、僕は野菜だって、魚だって、きっと美味しく食べられるよ!』
『それは良い事だな』
『君が一緒の日は子供の頃のクリスマスよりも、夏休みよりも心が躍るんだ!』
『ど、どうしたんだ急に』
『はあ……』
『なんだよ、溜め息なんか』
『……僕は、君と恋人になりたいんだ』
『へっ』
俺が気の抜けた反応をした瞬間、鏡野は電話を切ってしまった。
思ってもない方向からの、突然の、青天の霹靂という表現すら足りない、俺にはあまりにも突然の告白だった。脳がショートしてしまい、思考が働かない。俺は夢でも見ているのか? そんなお決まりみたいな事まで考えてしまう。
俺は何も喋らないスマホを耳に当てたまま、白い壁をじっと見つめた。
まるで俺の世界の時が止まっているかのように、視界が止まったままだった。
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