キャメロンハイランドの残光
めろいす(Meroisu)
プロローグ:最後の散歩
1967年3月26日、イースター・サンデー。
マレーシア、キャメロンハイランド。英国植民地時代の面影を色濃く残すこの高原リゾートは、熱帯の灼熱から逃れた人々のための聖域だった。空気はひんやりと澄み渡り、茶畑の緑が波のようにうねり、バンガローの庭先ではヨーロッパ原産の薔薇が、まるで故郷を忘れていないとでも言うように誇り高く咲き誇っていた。
シンガポールから来た友人、リング夫妻が所有する「ムーンライト・バンガロー」の昼下がりは、穏やかな眠気に満ちていた。上質な磁器のカップに残る紅茶の香り。昼食後の満ち足りた静寂。友人たちは、それぞれの寝室で午睡を楽しんでいた。
ジェームズ・ハリソン・ウィルソン・トンプソン――仲間からはジムと呼ばれる61歳の男は、一人、ポーチの椅子から静かに立ち上がった。
彼の目は、バンガローのすぐ脇から始まる、ジャングルへと続く小道に向けられていた。それは、誘うように、そして試すように、暗い緑の奥深くへと続いていた。霧が、まるで生き物のように木々の間を漂い、世界の輪郭を曖昧にしていた。
彼は何も言わなかった。財布も、パスポートも、愛用のタバコさえもテーブルの上に置いたまま。まるで、ほんの数分、近所を散策してくるだけのような軽装だった。だが、その背中には、友人たちには窺い知ることのできない、ある種の決意が滲んでいた。それは、呼び覚まされた獣が、己の縄張りを確かめに行くときの、静かな、しかし確固たる足取りだった。
ポーチの隅で丸くなっていたシャム猫が、ふと顔を上げた。猫のサファイアブルーの瞳が、ジャングルの入り口で一瞬立ち止まったジムの姿を捉える。
ジムは、振り返らなかった。
ただ一歩、霧の中へ足を踏み入れる。緑のカーテンが彼の姿を飲み込み、そして、二度と世界は、彼の姿を見ることはなかった。
その一歩が、彼の輝かしい人生の終着点であり、同時に、永遠に解かれることのない伝説の始まりとなることを、まだ誰も知らなかった。
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