ローズヒップティーの行方
この街に住んで三年が過ぎた。
職場にも慣れ、駅前の道にも、近所のスーパーの品揃えにも、不自由はない。
けれど夜、ふと気がつくと「私はここにいるのに、どこにもいない」と感じることがある。
小さいころから転勤族の父について各地を転々として育った。
新しい学校、新しい方言、新しい景色――どこに行っても「よそ者」で、気を抜くとすぐに“転校生”の立ち位置に戻ってしまう。
友だちはできても、「この人には何も背負わせたくない」と思えば、無意識に距離を取る癖がついた。
大人になってやっと一箇所に落ち着いたのに、私はまだ“よそ者”のままだ。
SNSで同級生が地元で結婚し、家を買い、古い友人と毎年集まるのを見ていると、
心のどこかが置き去りにされたままのようで、やるせない気持ちになる。
この夜も、帰り道にふと足が止まった。
路地の奥、やわらかな赤い光が滲む看板が目に入る。
月の絵の下に、「Bar 月灯」の文字。
見知らぬ店だが、なぜか懐かしい匂いがした。
扉を開けると、あたたかな木の香りと静かな空気が迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。お仕事帰りですか?」
「……はい。今日はなんだか、甘酸っぱいものが飲みたい気分です」
「では、ローズヒップとハイビスカスのブレンドティーを」
しばらくして差し出されたグラスには、鮮やかな赤い液体。
ひとくち飲むと、さわやかな酸味が舌の上でふわりと踊る。
「この味、懐かしいです。小さいころ、母がよく淹れてくれました。
引っ越しの荷ほどきを終えた夜、ダンボールだらけの部屋で、母と並んでカーテンのない窓から外を眺めながら飲んだことが何度もあって」
「居場所は、“土地”ではなく、“記憶”のなかにもあるのかもしれませんね」
「……そうかもしれません」
私はカウンターの木目をぼんやりとなぞる。
幼いころ、“またすぐに出発するかもしれない”とどこかで思いながら暮らしていた。
新しい家も、学校も、友だちも――全部“仮のもの”だと、心のどこかで線を引いていた。
「大人になったら、どこかに根を下ろして暮らせると思っていました。でも、いざそうなっても、
ここが自分の場所だと、まだ思えなくて……。
自分がどこに向かっているのか、時々わからなくなります」
マスターはグラスを磨きながら静かにうなずいた。
「根を張ることも、旅を続けることも、どちらも大切です。
でも、居場所というのは“これから育てていくもの”なのかもしれません。
今日のあなたがここにいることも、きっとその一部になりますよ」
「……そうだといいな」
もう一度、赤いティーを口に含む。
ハイビスカスのきりりとした香りが、胸の奥に染みわたる。
「たぶん、ずっと『よそ者』でいることを恐れていただけなんだと思います。
本当は、少しずつでも、自分の居場所を自分で作っていけばいいんですよね」
「ええ、慌てずに。居場所は誰かと過ごした時間や、思い出の中にもできますから」
私は小さく笑った。
帰り道、街灯の下で足を止めて空を見上げると、雲の切れ間から赤い月が静かにこちらを照らしていた。
「今ここにいる」――
その感覚が、今夜は少しだけ確かなものに思えた。
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