第十話 手渡された記憶

 「灯り文庫」の閉架の部屋に差し込む明かりは、静かに本の背表紙を照らしていた。

 澪は、幼い自分が挟んだ紙を手に、まだ胸の高鳴りを抑えきれずにいた。


《この本をすきなひとへ。だれかの心に届きますように。》


 その拙い文字が、時間を越えて今、澪の手元に戻ってきたのだ。


 灯が足元で喉を鳴らした。

 その振動が、静かに澪の迷いを解いていく。


「……ありがとう、灯」


 澪がささやくと、奥の扉がそっと開き、黒川が現れた。


「見つかったか」


 黒川は部屋の奥を見つめたまま、小さく言った。


「俺もな、昔、灯に救われたんだ」


 その言葉に、澪は黒川を見上げた。

 表情はいつものように無口で穏やか。でも、どこか遠いところを見ていた。


「十年前、すべてが嫌になって、勤めてた図書館を辞めた。静かに暮らせる場所を探してこの町に来て……偶然、この猫と出会った」


「灯と……?」


 黒川はうなずいた。


「山道の本棚の前に、ぽつんと座ってた。誰かが捨てた古本が、濡れたまま積まれててな。猫はその本の上でじっとしていた。まるで“選べ”って言うみたいに」


 澪は息をのんだ。

 それはまさに、灯が澪に本を選ばせたときと同じだった。


「そのとき開いた本に、こう書いてあった。“あなたの声は、きっと届く”って」


 黒川は、初めて少しだけ口元をゆるめた。


「それを信じて、この店を始めた。本と猫が、人と人をつなぐ場所に、なればいいと思って」


 灯が、くるりと澪の足元を回った。そして、小さく鼻先で澪の本をつついた。


 ――それは、灯の「つぎへ進め」という合図のようだった。


「……私、思い出しました。昔、図書室で“読んでくれてありがとう”って言ってくれた男の子がいたんです。その子が、返却棚の本に、そっとしおりを挟んでた」


「へえ、そういう子がいたのか」


 黒川の声は、どこか優しかった。

 その瞬間、澪ははっと気づく。あのとき、赤いしおりを見つけたのは――黒川自身だったのかもしれない。


 でも、黒川は何も言わなかった。ただ一言。


「灯が選ぶ本には、不思議と“届くべき誰か”の気持ちがこもってる。そういうのって、きっとあるんだよ」


 澪は、ふっと笑った。


「……はい、そう思います」


 猫が一度、ぴょんと跳ねて、黒川の肩に乗った。

 その光景は、まるで“長い間ありがとう”と伝えているように見えた。

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