第八話 呼びかけの記憶
その日、澪はひときわ静かな心で「灯り文庫」の扉をくぐった。
空気は少し冷たく、店内には焙煎された珈琲豆の香りがほんのり漂っていた。
カウンターには黒川がいて、いつものように軽くうなずいてくれる。
それだけで、心がほっとする。今日もここにいていいと、背中を支えてくれるような仕草だった。
澪は前回の帰り際に借りたままになっていた『ひかりのなまえ』を返し、ふと棚の前で足を止めた。
視線が定まらないまま、指先が自然とある一冊に触れる。
その瞬間、ふいに足元にぬくもりがよぎった。
「灯……」
気配に気づいて振り返ると、灰色の灯が澪を見上げていた。
何も言わず、ただじっと見つめている。そして、すっと踵を返し、奥の窓辺の席へと歩いていった。
――その背中を、澪は無意識に追っていた。
灯が立ち止まった席には、誰かがすでに座っていた。
男性だった。四十代半ばくらいだろうか。グレーのコートに、やや疲れた表情。でも、柔らかな目元が印象的だった。
男は澪に気づき、少し首をかしげた。
「あれ……もしかして」
澪は、不意に心臓が跳ねるのを感じた。
「……山岸先生?」
小学校の、図書室担当の先生だった。
いつも穏やかで、どんな本を読んでも「よく見つけたね」と声をかけてくれた。澪の本好きの原点。
男性――山岸は、驚いたように目を見開き、それから笑った。
「……! 覚えてたんだな。うれしいよ」
先生の声は、あの頃と変わらなかった。ゆっくりと、包み込むようなトーン。
「こんな偶然あるんですね」
そう澪が言うと、山岸は軽く首を振った。
「いや、偶然じゃない気がする。……実は最近、よくこの店に来ててね。どの席に座っても、読もうとしてた本がすっと目の前に現れる。不思議でさ」
澪はその言葉に、胸がちくりと動いた。
灯のしっぽが、山岸の椅子の下にふわりとかかっている。
「……この子が、本を“出して”るんです。私も、ずっとそうだったみたいで」
山岸は驚いた顔をしたが、やがて静かに頷いた。
「そうか……そういうことだったんだな。やっぱり、ここには何かがあるんだ」
澪はその言葉に、ほんの少し目を伏せた。
何かが、少しずつ、自分のなかでつながっていく音がした。
「……先生、あのとき、赤いしおりって覚えてますか? 図書室の本に、手作りのしおりが挟まってたこと」
山岸は目を細め、懐かしそうに言った。
「ああ、あれな。返却された本にしおりを見つけると、“この本が、誰かの心に灯ったんだな”って思ってた」
「灯った……」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
――灯。
名前を持つこの猫と、灯る心。
その一致は、もはや偶然ではない気がしていた。
そのとき、黒川が静かに近づいてきた。
「これを」
手にしていたのは一冊の薄い詩集。澪が初めて見るタイトルだった。
黒川は特に説明もせず、そっとテーブルの上に置いて立ち去った。
けれど、そこにあったのは――
あの赤いしおり。
澪が『ひかりのなまえ』で手にしたのと同じ、刺繍の入ったしおりだった。
「……これ……」
山岸がゆっくり手に取り、その刺繍を見て、目を見開いた。
「これ……たしか、君が落としたものだよ。まだ小さかった頃に。本の間に挟まってて、ずっと返せなかったんだ」
澪は息を呑んだ。
自分が灯り文庫で手にしたしおりは、ずっと前に自分が“誰かに読んでほしい”と願って挟んだものだったのだ。
そのしおりが、巡り巡って今、ここに戻ってきた。
灯は、すべてわかっていたかのように、二人の間で喉を鳴らしていた。
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