第五話 こころのざわめき
朝のブックカフェ「灯り文庫」は、静かな陽の光に包まれていた。
澪はカウンターの端で、昨日読みかけだった本を膝にのせていた。けれど、ページをめくる手は、何度も止まる。心のどこかが、ざわざわと落ち着かない。
(なんで今になって……)
思い返すのは、東京で働いていた会社のことだ。広告代理店の制作部。澪はアシスタントデザイナーとして、毎日がむしゃらだった。
締切に追われる中、上司の指示は早口で、冷たく、時に理不尽だった。
「だから、そういうの求めてないって言ってんじゃん」
差し出した案を一瞥しただけで突き返され、澪はとっさに笑ってごまかした。
「あ、ごめんなさい。もう一回やってみますね」
すると、その上司が顔をしかめて言った。
「……笑ってるだけで何も考えてないのが、一番困るんだよ」
頭の中で何かが止まった気がした。自分なりに考えて、夜遅くまで手を動かして、それでも足りなかった。でもそれ以上に、「考えてない」なんて言われたのが、ただただ苦しかった。
誰かに何かを伝えようとするたびに、その言葉がよみがえる。
澪は本を閉じ、深く息を吐いた。
「どうぞ」
声に振り向くと、黒川がいつの間にか隣に立っていた。いれたての浅煎りコーヒーを置き無言で一冊の本を差し出す。
『きつねのさがしもの』
どこか懐かしいような表紙。澪が声を出す前に、灯が椅子から飛び降りて彼女の足元にすり寄った。
「……ありがとうございます」
本を開いた瞬間、世界がふわりと揺れた。
――気がつくと、澪は森の中に立っていた。
しんと静まる木々の中で、彼女はふと立ち止まる。葉を踏む足音のリズムが、なぜか胸の鼓動と重なっていた。
「きみ、なにを探してるの?」
ふいに声がして、振り向くと、小さなきつねが立っていた。大きな目でじっと見つめてくる。
「……わからない。何かを失くした気がするのに、それが何かも思い出せないの」
自分の口から自然に出た言葉に、澪自身が驚いた。
きつねはこくりとうなずいて、言った。
「じゃあ、いっしょにさがそう」
その背中を追いながら歩いていくうちに、澪はいつの間にか、自分の中にある“声にならなかった思い”を、少しずつ見つけていった。
――本当は、ちゃんと見てほしかった。
――ただ「がんばってるね」って、言ってほしかった。
ふと、木漏れ日の中できつねが立ち止まった。振り返ると、にこりと笑った気がした。
そして、光が差し込む――
現実へと戻った澪は、静かに本を閉じた。
「……この本、すごくやさしかった」
黒川は小さくうなずくだけだった。
灯が再び澪の足元にすり寄り、喉をくぐもった声で鳴く。そのぬくもりが、胸の奥のざわめきをすこしだけ鎮めてくれた。
(あの頃の自分を、もう少しだけ、許してあげたい)
そう思えた朝だった。
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