木漏れ日の下、あなたと:もふもふ
逃げる。逃げる。シノノメの森内をひた走る。
もふもふの怪物は俺たちを追いかけてきていた。木の枝を踏みしめる音。木々を走り抜ける足音。嗅ぎなれた草の匂い。腐臭。森林内の奇妙な光景。周りの情報を取り入れていく。
奴の速度はそこそこ。俺一人だけなら逃げられそうだが。
「よく見たら全然可愛くないですね、あれ。やっぱり飼うのはやめておきます」
このイカれ女を置いて逃げるのは論外だ。
むしろ『一人だけで逃げる』という選択肢が脳裏を過った自らを恥じる。
『私は、戻る』
かつてイリスを置いて逃げた臆病な自分。
許せない。
「もっと早くに気づけ! どう見ても可愛くねぇだろうが!」
俺はもう人を置いて逃げないと決めた。
愚かな自分とは決別する。
そのために。
ここまで修行してきたんだろう――!
「ほらこっちだ!」
「そう。その調子ですよ。私を守りなさい。私のために」
白髪の美少女の手を引いて走る。
背後を確認。まだ追いかけてきていた。
ひゅおお。空気を吸い込む音。間髪入れず黒い霧が奴の口から放出される。腐臭が強くなる。
黒い霧が地を這うように迫ってくる。瞬く間に草木が枯れ、地面に染みのような黒が広がった。やばい、あれ吸ったらまずい。
「息を止めろ!」
叫んで、セラフィナの頭を抱えるようにして伏せる。木の根元へ転がり込み、反対側へ抜けた。腐臭は鼻の奥に残ったが、直撃は避けられた。
――吐き出す息に瘴気を混ぜてくる。毒霧系か。
周囲の風向き。魔獣との距離。霧の広がる速度と範囲。全てを一瞬で頭に叩き込む。
地面には霧が留まりやすい。高所に逃げれば少しはマシか――
「セラフィナ! 木に登るぞ!」
「え、あ、はいはい、了解ですぅ!」
言いながらも彼女は全く焦っていない顔をしていた。楽しんでる、こいつ。
俺は先に木の幹へ跳ね上がり、枝をつかんで登る。続けてセラフィナの手を引き、彼女を片腕で引き上げた。
地上では黒いもふもふが、しばらくこちらを見上げるように動きを止めていた。次の行動を見極めている。俺の脳裏に、戦士としての直感が警鐘を鳴らす。
――何かくる。
次の瞬間、奴は信じられない行動を取った。
ふわりと浮いた。
「……えっ、飛んでる!?」
「おい、聞いてねえぞあんな能力!」
柔らかな毛並みに反して、奴はまるで風船のようにゆらゆらと宙を漂い始めた。内部にガスでも溜めているのか? いや、それとも。
考えてる暇はない。奴の黒い空洞がこちらに向いた。次は。
「伏せろッ!」
ばふん、と音がして、毛皮の隙間から小さな黒い塊が飛び出した。まるで鳥の卵のようなサイズのそれが、木の幹にぶつかると同時に破裂。中から毒々しい液体が飛び散る。
「腐食液か……!」
放たれた液体に触れた木の皮が、じゅう、と音を立てて溶けた。命中してたらひとたまりもなかった。セラフィナは「うわぁ」とか言いながらもケロっとしてる。反応が軽すぎる。
浮遊しながら毒霧、そして腐食液の射出。見た目に反して、間違いなく中級以上の魔獣。これ、真正面から戦ったら面倒くさいぞ。
「どうします? 倒してみます?」
「いや、こっちは場所が悪い。逃げるぞ」
こいつは毒をまき散らして周囲を汚染しながら追ってくるタイプ。ならむしろこちらから環境を利用するべきだ。
奴のような上級魔獣を倒すために色々と準備をしてきた。周辺の地形を調べるのもそう。罠だって用意した。万全の態勢を整えている。しかし決して油断はしない。
「こっちだ、セラフィナ! 足元気をつけろ!」
木から飛び降りる。腐臭の残る空気を突き裂いて、俺は地面へと着地した。セラフィナも軽やかにそれに続く。もふもふの怪物は、ゆらゆらと浮遊したまま俺たちを追いかけてくる。
風が吹いた。瘴気がわずかに逆流する。チャンスは一度きりだ。
俺は先頭を切って走りながら、周囲の木の並びと地形を確認する。シノノメの森のこの辺りは、傾斜の緩い谷状になっている。獣道を曲がり、土の地面が露出した窪地へと足を踏み入れる。
――この先だ。
「あと二十歩で罠域。絶対に、俺の後ろを踏むな」
「えぇ、ザクロの足跡だけ追えばいいんですね? 頼りにしてますよぉ、相棒さん」
軽口を叩くセラフィナの声を背に、俺は速度を少しだけ緩める。わざと追いつかせる距離に調整しながら、罠の中心――地面に仕込んだ目印の上を踏み越える。
それは一見ただの地面。だが、わずかに盛り上がった土の下には、俺がこの日のために用意しておいた"魔獣殺し"が眠っている。
続いて、もふもふの怪物がそこを通過する。
瞬間。
パァン――!
低く、湿った音が響くと同時に、地面が破裂した。仕込まれていた数個の毒玉が勢いよく宙へと跳ね上がり、浮遊する魔獣の腹部と脇腹に次々と直撃する。
どろっ。
音と共に、毒液が毛皮を濡らす。その毒は、シノノメの森で狩った鳥型魔獣の臓器を使ったもの。瘴気に反応して活性化し、生物の粘膜と皮膚に強烈な化学反応を起こす。
毛皮の下から、くぐもった音が漏れた。
ぴちっ、ぐじゅ、という鈍い破裂音。艶やかな毛並みの下で、なにかが溶け、崩れる。
「命中、確認……!」
怪物がもんどりうって浮遊を失い、地面へと落ちる。ずしん、と土を震わせて倒れ込んだが、すぐには動かない。全身の毛がじわじわと焦げ落ち、黒くなった皮膚がひび割れていく。
けれど、まだ終わっていない。甘い匂いがぶり返す。死んではいない。むしろ、次の段階に入ろうとしている。
「再生……する気か」
ぬるりと、倒れたままの体から毛が再び伸び始めている。毛が呼吸しているように膨張し、泡立つようにうごめく。腐臭と甘い匂いが混ざり合って、吐き気すら催す。
「毒は確実に効いてんな」
毛皮の内側で、皮膚が爛れ、黒く変色しているのが見えた。浮遊機構も破損したか、奴はもう空中をふわふわと漂えない。
だが、それでも動きを止めない。毒を撒きながら、再生し、こちらを殺そうとする意志だけが濁った空洞から伝わってくる。
決定打にはならなかった。なら、次で終わらせる。
「仕留めるぞ」
「ほう。行けるんですか?」
「ああ。効いてるのは間違いない。反応速度も落ちてる。動きも鈍くなった。今のうちに仕掛けて終わらせる」
俺は手元の装備を確認する。イリスの剣一本。狙うのは、再生に集中している今この瞬間。呼吸と腐食の機能を担っている中央器官、あの“空洞”――あそこに命中させれば、たとえ再生できても息はできなくなる。
「もう逃げ道はない。だから、勝つしかない。ぎりぎりだけど、まだいける」
セラフィナは、そんな俺を見つめて、にこりと笑った。
「……いいですね、ザクロ。おまえ、ほんとに、いい」
「何がだよ」
「ぎりぎりの戦い。死んでもおかしくない。自分でもどうなるか分からない。最高に生きてるって感じがして、おもしろい。心がふるえる」
まるで恋でも語るみたいに、うっとりとした目で言いやがった。
俺は無言でしばらく彼女を見た。
「……分かった。あんた、頭おかしいんだな」
「そうかもしれません。でも、そういうおかしい人間が世界を動かすんですよ」
まったくもう、なんなんだこの女は。命が懸かってんだぞ?
でも――。
ほんの少しだけ、わかる気がした。
死と隣り合わせの状況で、それでも前を向いて、笑ってるやつがいたから、俺もここまで来れた。臆病な自分を振り払って、誰かのために剣を振るうって、そういう生き方を選んだから。
だったら、今さら引けるかよ。
「……いいぜ。やってやる」
矢筒から導爆矢を抜き、弓を構える。震える手を押さえ、狙いを定める。
もふもふの怪物が、最後の毒霧を吐き出そうと、口を開いた。
狙いはその中心――黒の空洞。
勝つ。俺は、勝つ。
俺は――急に立ち止まった。
ぴたりと止まる俺を、後ろから追ってきていたセラフィナが小さくよろめきながらも足を止める。
前方、黒いもふもふの怪物もまた、歩を止めた。まるで困惑したかのように、くるりとその空洞のような顔をこちらへ向ける。
今まで逃げていた獲物が、突如向き直ったのだ。驚くのも無理はない。
「……おめー、俺を舐めてんな?」
言い捨てて、一歩踏み出す。
怪物の全身がぎしりと軋んだ。毛皮が逆立ち、空気がまたぞろ粘つきはじめる。ひゅおお、と喉の奥から濁った吸気音。
来る――!
だが、それが“息を吸う”一瞬。わずかに虚を突かれたその隙こそが、俺の狙い。
「はッ!!」
全力で踏み込み、黒い空洞――怪物の中心器官めがけて、鋭い突きを放つ。魔獣の毛皮を裂き、肉を貫く、確かな手応え。
怪物の動きが止まる。内部で何かが破裂したような、鈍い音が響いた。
……が、倒れない。
腐臭が再び強まる。空洞から、霧が漏れ出した。倒れたくせに、最後の毒を放とうとしてやがる。俺を巻き添えにする気か――!
瞬間。
セラフィナが一歩前に出た。
「はい、ここで。おしまいですよ」
彼女の指先が淡く光る。ふわりと舞うように、白銀の粒子が空気中に散った。光の帯がザクロの背中を包み込む。
――浄化の魔法。
神聖系統の魔法。対瘴気、対毒、対呪詛に絶大な効果を持つ希少魔法。
黒い霧がザクロに届く直前、粒子に触れて霧がぼろぼろと崩れていく。腐臭も霧も、すべてが無力になって霧散した。
「っ……!」
怪物が、短く、低い声を漏らした。
悲鳴ではなかった。怒りでもなかった。
まるで――無念の、ため息のような声。
ぐらり、と怪物の体が揺れ、そして崩れ落ちた。腐敗し、泡立つ毛皮が地に沈み込む。空洞の目はもう、こちらを見ていない。
勝った。
本当に――勝ったのだ。
数秒の沈黙。湿った風。森の匂いだけが戻ってくる。
セラフィナが、軽く髪を払ってこちらを見た。
「……どうです?」
白銀の光をまだまとうその姿で、楽しそうに、挑発するように笑っている。
俺は呆れ混じりに、鼻で笑った。
「どうもこうもねぇよ。すげぇよ、あんた」
「でしょ?」
こいつ、本当に、どうかしてる。
けれど、たぶん――こんな戦いの中じゃ、俺も大概どうかしてる側なんだろうな。
「……ま、ありがとよ」
「ふふ、いいえ。わたしが楽しんだだけですから」
シノノメの森に、静寂が戻る。
「……おめーの敗因は俺を、いや、俺たちを舐めたことだ」
俺は魔獣の死体を見下ろしながら一言、言い放った。
「舐めた方が負けるのさ。戦いってのは」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます