過去の味と未来の味
タベルは宿の部屋を抜け出し、静まり返った石畳の街を歩いていた。
深夜と呼ぶには早すぎるが、人の気配はどこにもない。
遠くで野良犬が一度だけ吠えた。それっきりだった。
目的地の食堂には、もう看板も出ていない。
だが、窓の奥。厨房の片隅にだけ、ぼんやりと灯りが残っていた。
扉を押す。
キィと小さな音を立てて開いた。
「邪魔するぜ」
「もう、閉店なんで──……あっ」
厨房の中。
黙々と仕込みをしていた青年、ラヴィオが驚いたように顔を上げた。
空気が、気まずい方に偏る。
タベルは、少し間を置いて言った。
「昼は──言い方、ちょっと強すぎた。悪かった」
ラヴィオは視線を落とし、そのまましばらく何も言わなかった。
やがて、手元のまな板を見つめたまま、ぼそりと。
「……でも、あれって本当のことですよね」
言葉に尖りはない。が、妙に実感はこもっている。
「うまいかまずいかで言えば、うまいんだろう。材料も手間も文句ない。でも、そこにお前自身がいなかった。だから俺の口には合わなかった。……つまり、俺にとっては『まずい』ってことだ」
ラヴィオは、まな板の上の包丁を拭きながら、かすかに笑った。
「……常連じゃないのに、よくそんなこと言えますね」
「常連じゃないから、余計に分かるのかもな。店の顔が、料理に出るってのは、意外とある」
沈黙。
その隙間を埋めるように、水道からぽたぽたと水滴が落ちる。
音がよく響く。それだけ、夜が静かだった。
ふと目をやると、カウンターに古びたノートが置かれている。
使い込まれた紙の端が、少しだけめくれていた。
「これ、見てもいいか?」
「ええ、どうぞ。この店のレシピが書いてあります」
そう言い、彼は目を伏せた。
タベルは手に取り、数ページをめくる。
字は読めなかったが、使い込まれた紙とインクの濃淡に、時間の流れがにじんでいる。時々あるイラストの内容から料理に関するメモであるようだった。
「これは、レシピかなんかか?」
「そう……です」
タタベルは静かにノートを戻し、ラヴィオに視線を向けた。
「……誰かの味を残したくて、レシピ通りに作る。気持ちはわかる」
少しだけ言いよどむような間を挟み、言葉を重ねる。
「……しかし、料理ってのは、真似じゃない」
ラヴィオをまっすぐ見たまま、言葉を続ける。
「真似たつもりでも、味は少しずつブレてく。気づかないうちに歪んで、それはもう“思い出”にすらならない。そのうち空っぽになって消えちまう」
ラヴィオは黙って拳を握りしめる。肩が、ほんのわずかに震えていた。
「でも、“お前にしか出せない味”なら、失敗しても前に進める。そうじゃないか?」
「僕にしか出せない味なんて……」
「そんなもん、作ってみなきゃ分かんねえさ」
──そのとき、店の入り口から声がした。
「なら、まずはその“一歩”をシッカリ形にするところから始めるがいいアル」
くいっと腰に手を当てて、アルネが入ってきた。
「……アルネ?」
「抜け駆けはずるいネ。タベル」
アルネは鼻を鳴らして、厨房に歩み寄る。
「“母の味”を守るのも立派ネ。でも、“自分の声”を皿に乗せるの、そっちのほうがずっとイイとワタシも思うネ」
言葉の合間に、彼女の目がやさしく細められる。
「母の味……それを、何処で!?」
「んー、昼の後、ちょっと客から話を聞いたネ。アンタのこと、店のこと、すごく大事に思ってたネ」
「僕や店のことを……!」
「過去も大事ネ。でも、みんなはオマエらしい味を期待してるネ」
「そんな……僕は……みんな、母の味を望んでいるんだとばかり思ってた」
愕然とするラヴィオに、タベルは短く息を吐き、肩をすくめる。
「でも、実際はそうじゃなかったようだな」
「レシピを変えるのは怖いネ。でも、大丈夫。天才料理人、アルネが手伝ってあげるネ」
ラヴィオは目を見開き、そしてゆっくりと頷く。
その頷きは、かすかに揺れながらも、確かに前を向いていた。
◇◇◇
静かな明け方。空がうっすら白みはじめ、街がまだ眠るなか──厨房の灯りだけが、時間を忘れたように灯っていた。
「もう一度、最初から組み直すアルね。食材も、構成も。だけどベースは星喰米にするネ」
「この食材の代わりに……この銀海草、いい香りがするな」
「甲殻獣はこっちのほうが火入れに向いてる。旨味が逃げない」
タベルが、アルネが、ラヴィオと並んでコンロに立つ。
粉をふるう手も、塩をひとつまみ入れる指先も、決して迷わない。 一つ一つの動作の合間に、小さく味見し、確かめ合い、再び鍋に向かう。
「“自分の味”って、できるんでしょうか?」
ぽつりとラヴィオがつぶやく。
「失敗して、考えて、直して、それを繰り返すネ」
「あと、信じてみることだな。お前の舌と、選んだ道をな」
三人で鍋の前に立つその姿は、まるで何かを祈るようだった。
◇◇◇
「……できました」
空が、白む。
夜の終わりが近づくころ──ラヴィオは、そっと皿を差し出した。
「銀海草と甲殻獣の星喰米グラタンです」
こんがりと焼けた表面から、柔らかな湯気が立ちのぼる。 焦げの香ばしさに混じって、銀海草の潮の香りがふわりと鼻をくすぐった。
甲殻獣の赤が、とろけたチーズの奥に点々と見える。 星喰米は熱を抱え、ほんのりと甘く輝いていた。
タベルは、無言で髪をひとまとめにし、スプーンを取る。
気負いはない。ただ、真っ直ぐに皿へと向き合う。
「いただくぜ」
──ひと口。
熱い。だが、ぎりぎり心地いい温度。 焼き目の下、銀海草の香りがチーズに包まれて、ゆっくりと広がる。 甲殻類特有のぷりっとした歯応え、口の中で弾けるようにほどけた。
そのあとから、星喰米の自然な甘みがやってくる。まろやかで、やわらかい。でも芯がある。
昼に食べた……あの味ではない。
バランス、塩加減、舌に覚えている“母の味のコピー”──あれとは明らかに違う。
そこには“何か”があった。
火の入り方が甘い。ソースの粘度も、少しばらついている。
素材の主張が強く出すぎてる場面もある。
けど──それがいい。
計算された完成ではなく、今の彼が必死に組み上げた“未完成”。
不格好だけど、息をしてる。
あの味をなぞっただけじゃ、こうはならない。 模倣では届かない、温度がある。 ちゃんと、自分の足で辿ってきた料理の匂いだ。
そこにほんのりと添えられたような、母の味。まっすぐで、拙くて、でも濁ってない。
「不器用だけど、自分らしい味が出ている」
ラヴィオが息を呑む音が聞こえた気がした。
「──お見事ネ」
アルネが、静かに割って入った。 彼女もまた、スプーンを皿に戻していた。 その表情は、いつもの調子とは違う。 どこか誇らしげで、どこか優しかった。
「完璧ではないネ。でも、完璧じゃないから、記憶に残るネ」
彼女の声が、ほんの少しだけ震えているように感じた。 でも、それはタベルの錯覚かもしれない。
いや──きっと、違う。
「過去に届こうとして、過去とは別の場所に辿り着いた。これは、“新しい味”ネ。アナタの味アルよ」
ラヴィオの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
それは、朝焼けよりも確かな一歩だった。
◇◇◇
常連たちが、ぽつぽつと戸をくぐった。 明け方の光が、まだ眠たげな空気を引き連れている。
ラヴィオは緊張の面持ちで、皿を差し出す。それは、おずおずと──けれど、自らの手で差し出す一皿だった。
「お、お口に合うかわかりませんが……」
ざわり、と静寂が店を包む。 最初のひと口が運ばれた、その瞬間。
「……これは……」
男の声が漏れる。まるで、言葉の在処を探しているような響きだった。
「同じじゃない。でも──うまい」
「……あの人の味とは違うけど、自分らしさが出てると思うよ」
誰かが言う。誰かが頷く。 拍手はない。歓声もない。でも、湯気のように静かに、温かく、店内に喜びが満ちていく。
ラヴィオは、まるで夢の中のようにその光景を見ていた。何かが報われたわけじゃない。ただ──ようやく、一歩を踏み出せたのだと。 自分の声を、誰かが受け取ってくれたのだと。
その様子を横目に見ながら、タベルとアルネは立ち上がった。
「ありがとう……ございました……!」
ラヴィオが小さく、けれど確かに礼を口にする。
タベルは、わずかに肩をすくめるだけだった。
「……また寄ってみたい味だったよ」
それだけ言って、店をあとにする。 背を向けたまま、振り返ることはない。
朝日が眩しい。空はもう、完全に白んでいた。 タベルたちは、そのままゆっくりと石畳を歩き出す。
──宿に戻って、眠るだけの道を。
そして。
その後ろ姿を、天の高みからじっと見つめていた者がいた。
ニリエル。
天界の光に包まれながら、静かにその目を細めていた。
「……ほんと、誰かを変えるくせに、自分は全然変わらないんだから」
呆れたように、皮肉っぽく、軽く呟く。
けれどその言葉の奥には、哀しみと、敬意がにじんでいた。
「もう少し、型通りの勇者らしくなってくれてもいいのに。まったく──」
そうぼやきながら、ふっと微笑み、踵を返す。
白い光の中に、彼女の姿が溶けていった。
──夜が明けた。
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