倉庫の賢者と妄想家

Suzubelle(すずべる)

第1話 ファイアーボールはなぜ飛ぶのか?

初夏の陽は、盛りを過ぎた夕暮れ時に西へ傾き、倉庫の天井近くの窓から細い帯となって差し込んでいた。埃の舞う空気が、その光の中で煌めく。冷房の効いた巨大な空間は、それでもなお、熱気を吸い込んだ肌にじんわりとまとわりつく。Tシャツの背中は湿り、首筋を伝う汗が不快な筋を描いていた。


段ボールの山に囲まれた一角で、高校二年生のハルトとユウマは、黙々と仕分け作業に勤しんでいた……はずだった。


「かーめーはーめー波ー!!」


唐突に、ハルトの野太い声が、巨大な倉庫の隅々にまで響き渡る。

右足を一歩引き、腰を落とし、両手を前に突き出して渾身の力を込めたかのようなポーズ。それは漫画の必殺技そのもので、彼の顔は真剣そのものだった。

周囲に誰もいないことを確認し、ユウマは大きなため息をつく。

その息には、うんざりとした疲労と、どこか諦めのようなものが含まれていた。


「ちょっ、いきなりどうした、ハルト。声出しすぎ、うるせーんだけど。マジで通報されるぞ、近所迷惑で」

ユウマの冷静なツッコミにもめげず、ハルトは微動だにしない。


彼の視線は、手の先に集めたとされる「氣」を凝視しているかのようだ。


「いや、コレさ、氣を放つ技なわけじゃん?」


ハルトは問いかけた。それは疑問ではなく、彼の中で既に確立された「真理」の確認だった。彼の思考回路は、常に現実と非現実の狭間を行き来している。


「うーん、まぁ、そう、かなぁ?」


ユウマは適当に相槌を打ちながら、次の段ボールを手に取った。中身は日用品だろうか、ずっしりとした重みが腕に食い込む。ハルトの奇妙な思考回路には慣れっこだ。もう、何年もこんな調子なのだから、今さら驚くこともない。しかし、その慣れが時として、彼の深みに誘われる原因となることを、ユウマはまだ完全には理解していなかった。


「でさ、『ファイアーボール!!!』これ、何?」


ハルトは今度は片手を前に突き出し、手のひらを丸めて仮想の火の玉を表現する。その指先には、まるで本物の炎が揺らめいているかのような錯覚を覚えるほど、彼の集中力は高まっていた。


「いや、お前、俺は何を見させられてるの?倉庫で突然の魔法大会かよ。早くこの段ボール運べよ、リストにあるんだから」


ユウマの声は、困惑と、そして現実的な業務への焦りが混じり合っていた。しかし、ハルトは構わない。彼の頭の中では、既知の法則と未知の現象が、密かに交錯し始めていたのだ。


「だーかーらー!かめはめ波は飛ぶじゃんか。で、ファイアーボールって飛ぶじゃんか」


ハルトの言葉は、まるで連鎖反応のように、次々と論理のピースを繋ぎ合わせていく。そこには、何の疑問も差し挟む余地のない、彼なりの一貫した真理が存在するかのようだった。彼の顔は汗でテカり、前髪が額に貼り付いている。


「だから?何が言いたいんだよ。早くそれ運べって。もうすぐ休憩時間だぞ」


ユウマが促しても、ハルトはまるで話を聞いていない。彼の頭の中は、今、とある疑問でいっぱいのようだった。

その疑問は、彼にとって目の前の段ボールよりも、はるかに重要な「未解決事件」なのだ。


「なんでファイアーボール飛ぶのかなって思ってさ」


その問いは、まるで子供が星の数を数えるかのような、無垢な、しかし根源的な問いだった。夏の暑さで頭が茹だってきているのか、ユウマもまた、その問いに引き込まれていく自分を感じていた。


「いや、ファイアーボールなんだから飛ぶやろがい!燃える球がその場に留まってどうすんだよ、熱くて迷惑だろ。お前が作った火の玉で火事になったらどうするんだよ」


「じゃあさ、じゃあさ、バスケットボール!!!」

ハルトは突如、大きく両腕を広げ、まるで伝説の元気玉を顕現させるかのように叫んだ。彼の周りの空気が、一瞬だけ、微かに揺らいだように感じられた。それは単なる錯覚だったかもしれないが、ユウマの背筋には、一瞬だけ奇妙な悪寒が走った。


「何言ってんの、マジで。頭冷やせよ。そんなことしてたら、マジで熱中症で倒れるぞ」


ユウマは呆れたように首を振る。だが、ハルトの目は、彼の言葉の奥にある「可能性」を探るかのように、輝きを増していた。


「これ、飛んでったらおかしくね?」


ハルトの問いかけに、ユウマはピタリと手を止めた。確かに、想像すると妙な光景だ。オレンジ色の球体が、何の推進力もなしに、ふわふわと宙を舞い、ターゲットに向かって飛んでいく……。それは、確かに違和感に満ちていた。


「そりゃ、バスケットボールは具現化系の魔法だからじゃね?魔力で物質を作り出すのが目的であって、飛ばすのは別の話だろ。そこに移動の概念は含まれてない。お前、そこまで理解しててなんでそんな発想になるんだよ」


ユウマは腕組みをして、いかにも国立大学を目指す秀才らしく理屈をこねる。

彼の脳内には、目に見えない魔法の体系図が、整然と描かれているのかもしれない。


「だったらファイアーボールだって飛ばないっしょ!『火』を具現化しただけならその場に燃える塊があるだけでしょ?熱いだけの置き物じゃん。それじゃ、ただのキャンプファイヤーじゃねえか」


ハルトは反論する。彼の理論は、ユウマの理屈の穴を的確に突いていた。具現化されただけの火の玉に、なぜ移動のベクトルが付与されるのか。その純粋な疑問は、ユウマの論理を揺るがしかねない力を持っていた。


「いやいや、ファイアーボールは放出系魔法だから飛ぶんじゃね?魔力を込めて『火の玉を打ち出す』ってところに意味があるんだから。放出するから飛ぶんだよ。そこをちゃんと理解しろよ」


ユウマは言葉を選ぶ。

彼の知識は、彼が生きる世界のあらゆる現象を、論理で説明しようと努める。それは、彼自身の存在意義を確かめる行為でもあった。


「じゃあその理屈で言ったらウォーターバレットはどう説明してくれるわけ?水だから具現化?でも飛ぶじゃん!あれだって、ただの水の塊だろ?」


ハルトは攻勢に出た。普段はユウマの理屈に丸め込まれることが多いが、一度食らいつくと離さないのがハルトだ。彼の執拗な探究心は、ユウマにとって時に面倒であり、しかし同時に、純粋な好奇心を刺激するものでもあった。


「…お前、輩かよ。落ち着けって。ウォーターバレットは『魔力の水弾を撃つ』という動作自体が【放出】なんだよ。魔力で周囲の水分を集めるか、魔力から水を生成(具現化)して、それを放出の力(魔力圧)で弾丸のように撃ち出すんだよ」


ユウマは両手を広げ、指先で水滴が弾けるような、繊細なジェスチャーをする。その手の動きは、まるで彼が実際に魔法の構造を解き明かしているかのようだった。その説明は、まるで魔法学の講義を聞いているかのようだ。


「つまり?」


ハルトは、結論を急かす。彼の探究心は、常に答えを求めていた。単純明快な真理を。


「弾作って発射するってとこまでがウォーターバレットの魔法ってこと。それ全体で『放出』の魔法なんだよ。だから飛ぶんだよ。わかったか?」


ユウマは、わかりやすくまとめ直してくれた。彼の額には、思考の汗がじんわりと浮かんでいる。


「だったらバスケットボールだって飛んだって良いじゃない、魔法なんだもの」

ハルトは不満そうに口を尖らせる。

彼の理屈は、常にシンプルで、本質的だった。現実の常識や物理法則など、彼の思考の前では些細なものだ。

彼の頭の中では、具現化されたバスケットボールが自在に空中を飛び回るイメージが広がっているのだろう。それはまるで、彼の内側に存在する、もう一つの世界の住人のようだ。


「相田みつをじゃないんだからさ。そもそも魔法だからってなんでもありじゃねーんだよ。魔法で『ボールを作った』だけってのは、つまり具現化系のみってことなわけ。作っただけでは『移動のベクトル』が付与されてないから飛ばないんじゃないかな、知らんけど。そこまで考えたことねーわ、普通は」


ユウマは顎に手を当て、真剣に考え込んでいる。その姿はまるで、難解な物理学の問いを解いているかのようだ。彼の知識の網の目が、ハルトの投げかける問いによって、少しずつ綻び始めているかのようだった。


「じゃあさ、クレイショットは?アレだって土弾なわけじゃんか。あれも飛ぶじゃん!あれはなんでなんだよ?」


ハルトの問いは、畳み掛ける。その粘り強さは、彼自身の未熟さと、そして底知れない可能性を秘めているようだった。彼の目は、まるで新しいパズルを見つけた子供のように輝いている。


「クレイショットは地面の土を操作系で掬い上げて圧縮して、それを放出系の力で飛ばすとかじゃないの?これなら『発射すること』が目的だから、操作+放出の扱いになるわけよ。お前、そこまで考えろよ、いい加減」


ユウマの脳内では、複雑な魔法のプロセスが、鮮明に描かれていた。彼の説明は淀みなく、まるで魔法の専門書を読み上げているかのようだ。


「で、バスケットボールの場合は?」


ハルトは、最後の、そして最も重要な問いを投げかけた。彼の顔には、この問いに対する答えこそが、魔法の真髄を解き明かす鍵だとでも言いたげな、切迫した表情が浮かんでいた。


「例えるなら『粘土でボールを作ってポイッと置いただけ』ってこと。だからそこに放出系の魔法を付与してやれば飛ぶんじゃないかな?」


ユウマの言葉は、まるで禁断の扉を開く呪文のようだった。ハルトの目が、期待に輝く。彼は大きく息を吸い込み、全身の、いや、魂の力を集中させるかのように、叫んだ。その姿は、本気で魔法が使えると信じ込んでいるかのようで、ユウマは思わず苦笑した。


「…バスケットボール!!!」


ハルトが叫んだ瞬間、倉庫の奥で積み上げられていた段ボールの山が、わずかに、本当にわずかに、揺れたような気がした。それは、老朽化した建物のきしみか、あるいは、ただの気のせいか。しかし、ユウマは一瞬だけ、いや、確かにそう感じたのだ。ハルトの放った言葉が、本当に世界に干渉したのではないかと。


「…いや、そもそも俺ら、魔法使えないじゃん」


ユウマは、その僅かな動揺を悟られぬよう、努めて冷静にそう告げた。彼の言葉は、現実という名の重石を、魔法の幻想の上にそっと置いた。空調の音が、再び倉庫に満ちる。


「くっそー、なんでだよー!」


ハルトの不貞腐れた声が、倉庫の静寂に吸い込まれていく。

膝をついた彼は、まるで願いが叶わなかった幼い子供のような顔をしていた。

ユウマは、その後ろ姿を見ながらそっと思った。


(……バカだなぁ、こいつ)


だけど。

ユウマは、黙って段ボールをひとつ抱え上げた。

「……でもまあ、そういうバカがいないと、世界って退屈だよな」


そうしてまた、作業に戻っていった。

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