今日の私と、秘密の足し算

五平

第1話 はじめての「ポチる」勇気

今日の私と、秘密の足し算


私は桜井葵。高校二年生。

図書室の片隅が、私の定位置。

開かれた本のページが、世界だ。

教室の喧騒は、遠いBGM。

目立たないのが私。影みたいに、

そっと息をしてる。

褒め言葉じゃない。知ってる。

でも、それが私だった。今までずっと。


だけど、今日だけは、違った。

私の小さな世界に、突然、

流れ星が落ちてきた日。

それは、大好きな作家、月見里

(つきみさと)先生のサイン会の告知。

スマホの画面に、きらりと光った文字。


先生の言葉は、いつも私の心を震わせる。

乾いた心に、じんわりと染み込む雨みたいに。

私の中に隠れてる、ちっぽけな本当の私を。

優しく、でも確かに、引っ張り出してくれる。


「今回は、今までで一番の勇気を出して、

先生に直接、感想を伝えよう」


声に出して、そう決めた。

心臓が、トクン、トクン、ってうるさい。

胸の奥で、小さな、でも確かな熱が広がる。

普段の私なら、絶対にしない。

絶対に、無理。

でも、決めたんだ。


まず形から。

誰かが言ってたっけ。

鏡の前の私。

いつもの、グレーの地味なワンピース。

もさっとした前髪。

これじゃ、先生、きっと私を覚えてくれない。

何かが、変わらなくちゃ。

でも、何を?


その時、ふとスマホの画面に表示された、

オンラインショップの広告が目に留まった。

『新しい私、見つけませんか?』


そこに写っていたのは、淡いピンク色のフリル。

何重にも重なったレース。

とびきり可愛い、ランジェリー。

普段、私が選ぶような実用性重視の

シンプルなのとは大違いだ。

なのに。

なぜか、そのピンクが、きらきら光って見えた。

私を呼んでるみたいに。


これだ。

直感が、びりびりと震えた。

これならきっと、私を「新しい私」に変えてくれる。


スマホの画面を凝視する私の指先が、

購入ボタンの上で震え、汗ばんだ。

心臓はドクドクと警鐘を鳴らす。

「こんな派手なもの、私には似合わない」

「どうせ買っても変わらない」

「また、無駄になるだけだ」

自己否定の言葉が脳裏をよぎり、指が止まる。

しかし、月見里先生の言葉が、脳裏をよぎった。

「勇気を出せば、世界は少しだけ広がる」

「がんばれ、私!」

小さく震える指先で意を決して、

「ポチッ……」

購入ボタンを押した。

画面が切り替わる。

注文完了。

心臓が、大きく跳ねた。

顔が、耳まで熱い。

こんな可愛い下着。

いつ以来だろう。

いや、もしかしたら。

生まれて初めて、かもしれない。


届くまでの三日間。

私は、ソワソワしっぱなしだった。

授業中も、先生の声は上の空。

頭の中を、淡いピンクのフリルが、ひらひら舞う。

まるで、私じゃない誰かが、

私の中で笑ってるみたいに。


そして、ついに、その日が来た。

ピンポーン。

インターホンが鳴る。

玄関で、母が対応してる。

「葵、なんか届いたわよー」

母の声が、少し浮かれている。

平静を装う。

何でもない顔で、自分の部屋に駆け込んだ。

まるで泥棒みたいに。


小さな段ボール箱。

丁寧に、セロハンテープを剥がす。

蓋を開ける。

ふわり、と。

甘い香りがした。

それは、新品の布の匂い。

それから、包装のビニールの、

微かに甘い化学物質の匂い。

でも、私には。

私だけの、「新しい私」の匂いに感じられた。


中から取り出したのは、薄いピンク色のフリルが、

光に当たってきらめくランジェリー。

指でそっと触れる。

レースの、繊細さ。

指先に、ひんやりと、柔らかい感触。

こんなに, 華奢なものが。

私の中に眠る、ちっぽけな勇気を。

本当に、引き出してくれるんだろうか。


胸の奥が、熱い。

期待と、ほんの少しの不安。

混ざり合った、不思議な感情。


部屋の鍵をカチリ。

ガチャリ。

二重にロックする。

ゆっくりと、制服を脱ぐ。

いつもの、肌色のインナーを外し、

新しいランジェリーを手に取る。

ひんやりとしたレースが、肌に触れる。

ゆっくりと。

腕を通す。

身につけていく。


ああ。

なんてことだ。

鏡に映ったのは、いつもの私じゃない。

淡いピンクのフリルが、胸元をふんわりと飾っている。

普段は目立たない胸元も、これなら、

少しだけ自信が持てる気がする。

ショーツの裾には、繊細なレース。

歩くと、フリルがひらひらと揺れるのが、

鏡越しに見えた。


「私…これ、似合ってるかな…」


普段なら。

絶対に、口にしない言葉。

誰にも聞かれない、部屋の中なのに。

思わず、つぶやいてしまった。


猫背気味の背筋が、ピンと。

伸びる気がする。

心臓が、ドクドクと。

大きく、脈打っている。

まるで、私の中に。

ずっと、ずっと眠っていた何かが。

ゆっくりと。

ゆっくりと、目覚めていくみたいだ。


「よしっ!」


小さな声。

でも、確かに、気合いを入れた。

このランジェリーが。

私を、新しい世界へ。

連れて行ってくれる。

憧れの月見里先生に。

自分の言葉で、感謝を伝える。

そのために。

この「特別な私」になるんだ。


お気に入りのワンピースに着替える。

ランジェリーのフリルが、服の下でそっと隠れる。

誰にも見えない。

私だけの、秘密。

でも。

その秘密が、私に。

確かな勇気をくれた。


メイクは、いつもの薄め。

でも、今日は。

リップの色を、少しだけ明るいピンクにした。

うん。

大丈夫。

私は、行ける。


玄関に向かう。

カバンを手に取る。

いつもより、軽く感じる。

靴を履く。

よし。

完璧。

深呼吸を一つ。

大きく、息を吸い込む。

胸が、フリルの上で、少しだけ膨らむ。

そして、ゆっくりと。

ドアノブに、手をかけた――その瞬間。


ピンポーン!

けたたましい音が、鼓膜を揺らした。

「ひゃっ!」

情けない声が、喉から飛び出る。

え、今?

なんで?

なんで、こんな時に!?

玄関のドア越しに、誰かの話し声が聞こえる。

「す、すみませーん! 桜井でーす! お届け物でーす!」

宅配業者さんの、元気な声だ。


ひ、秘密のランジェリーを身につけて、

さあ出かけようとしたこのタイミングで、

まさかの宅配便!?

顔が、カッと熱くなる。

心臓が、痛いほど鳴り響く。

誰にも見えないはずの。

私だけの、「新しい私」が。

なんだか。

なんだか、バレてしまうような。

そんな錯覚に、襲われる。

慌てて。

玄関から見えない、リビングとの間の押し入れに。

身を隠した。

押し入れの、木の匂い。

普段は気にならない、古い布の匂いがする。


押し入れの隙間から、玄関の様子を覗く。

「はい、今開けますー」

母の声がした。

ああ、よかった。

母が対応してくれる。


母と宅配業者さんのやり取りが、

押し入れの中にまで、はっきりと聞こえてくる。

「いつもありがとうございますー」

「いえいえ、またのご利用お待ちしてまーす!」

ガチャリ、と。

ドアが閉まる音。

ホッとして、押し入れから這い出る。

もう、心臓がバクバクだ。

額に、じんわりと汗が滲む。


結局、誰にも見られることなく、何事もなかったかのように家を出た。

サイン会には、ギリギリ間に合った。

憧れの月見里先生を前にして、やっぱり声は震えたし、

伝えたい言葉も、半分くらいしか言えなかった。

それでも。

サインをもらう時、先生がふと、私の目を見てくれた。

そして、「ありがとう」と微笑んでくれた。

その優しい瞳に、胸の奥が、また、じんわりと温かくなった。


帰り道。

心の中は、少しだけ、いや。

確かに、温かかった。

今日の私は、いつもと違った。

誰にも見えない。

フリルのランジェリーが。

私に、小さな。

でも、確かな勇気を。

くれたから。

宅配便に邪魔されたけど。

それでも、私は。

確かに、一歩を踏み出したんだ。


明日は。

このランジェリーで。

もうちょっとだけ。

違う私になれるかな。


【SNS】

母(桜井静子)のつぶやき

今日の葵、なんか玄関でそわそわしてたわね。可愛い服でも着てたのかしら? でも、なんだか嬉しそうだったから、それでいいわ。


---


【次回予告】

悩み相談です。私、クラス委員長やってて、成績もトップの「完璧な私」を演じてきたんです。でも、実は小さな胸がコンプレックスで。学園祭のミスコンに出ることになったんですけど、このままじゃ自信が持てなくて……。理想のボディライン、どうしたら手に入るんでしょうか? 完璧な私なのに、こんなことで悩むなんて、誰にも言えないんです。


次回 第2話 完璧な私と、秘密の覚悟

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