18話 千草界(前編)

「何、してるの」


 そう問いかけたアオを見た瞬間、江山の顔に花が咲いたような作られた笑みが浮かぶ。


「霧山さんじゃん、どうしたの〜??」


「え、知り合い?? 蜜世」


 アオの知らない女子生徒が、江山に聞く。江山は楽しそうに彼女を振り返って答えた。


「哀羅。この子、さっき話してた編入生だよ。

 そんでたぶんめっちゃくちゃ強いの」


「へぇ……蜜世がそこまで言うなんて」


 哀羅と呼ばれたその生徒は、物珍しそうにアオを観察する。対してアオは不愉快そうに眉を寄せて、口を開いた。



「もう一回聞く」



 アオの声色が変わった。

 彼女から異常な威圧感が溢れ出し、辺りの空気を凍てつかせる。暗く濁った青い瞳が、鋭く、目の前の3人を見据えた。



「何、してるの?」



 その一言で、彼らは体を強張らせた。

 さっきまでの軽い表情が一瞬で引き攣っている。もちろん格が違う。


 その中でただ1人、3人から水を掛けられたのか全身が濡れている千草だけがアオを睨み返す。



「お前には関係ないっつったろ……帰れ」


「何言って……」


「ほら、み、見ての通り、遊んでるんだよ!! 

霧山さんも一緒にみんなで遊ぼう??」



 先程のアオの様子に気圧された江山が、無理に提案する、焦りが滲む声。

 そんな唐突な提案に希望を賭けた残り2人も便乗するように笑顔を浮かべ始める。


「そうね、そうしましょう!!」


「はじめまして、私は吉川哀羅ヨシカワ アイラ!! よろしくね」


 黒滝と吉川にそう詰め寄られるアオ。子供らしい雑な誤魔化し方に、深くため息をつく。


「黒滝、江山、それと吉川。傷だらけの少年に水をかけることが遊び、とは到底思えないけど?」


 黙り込んだ3人に追い打ちをかけるように、アオは静かに言い放つ。


「いじめって、犯罪なんだよ?

大人しく千草を渡して。じゃないと……」


「い、嫌に決まってんでしょ!! 何よヒーローぶって。アンタだって、飛行訓練で千草を蹴り落とそうとしたくせに!」


 アオは開き直った江山に冷笑を浮かべると、


「ああ、あれは……気に入らなかったんだ。明らかにいじめに遭っていた。千草、君なら学生程度蹴散らせたはずだ。なのに、弱いふりしててさ」


 強者が弱者に虐げられているのを黙って見ている事はできない。そう告げる。

 アオは正義を掲げているのではない、と理解した江山が言う。


「気に入らない? それならアンタも私達も、やってること同じじゃん。私達も千草が気に入らないのよ。負け犬のくせに、偉そうな口聞くし」


「そうそう、だから──妹たちも守れなかったんだっけ?」


 その黒滝の一言で、千草の表情が凍りついた。

 彼は人をも殺す視線を突き刺す。


 閉じ込めていた記憶の扉は、こじ開けられた。




 一瞬で脳裏に蘇った、あの日の記憶。



 


 時は、千草が10歳の頃まで遡る。





 ☆☆☆☆☆




 静かな住宅街に、1つの目立たない家があった。そこには、2人の幼い少女と病気の母、

 そして、1人の少年が住んでいた。


 学校では成績トップで注目の的。

 交友関係は幅広く、誰とでも話せる優等生。





 それこそが、千草界だった。





 良い噂の裏にはいつでも、嫉妬が付き纏う。

 事が起きたのは、テスト返却の日の放課後。

 教室での出来事だった。



「すごいな。全テストで学年1位なんてさ」



 何度も留年しているという1人の貴族の少年が、胡散臭い笑顔で彼に声をかけた。



「家庭教師もいない貧乏人が一位なんて、不正でもしたのかと思ったよ」


「はぁ??」


「まあ、可哀想だから見逃してやるけどね?? 次は、1位なんか取っちゃダメだよ」


「いや何言って……」


「あー母君が病気なんだっけ?? そんな女のせいで苦労していると思うと同情するけどね」



 千草の胸の奥で、モヤモヤとしたものが騒めく。



「そうだ、僕に仕えてくれるなら、家に住まわせてやろう!! そうすれば汚らしい家も出られるし、厄介な女を気にする必要も……」



「俺の母さんを、侮辱するな!!!」



 気がつくと、千草の拳は少年の眼前に迫っていた。一瞬の躊躇。


 貴族の少年は、にやりと笑うと、自ら教室の壁まで吹っ飛んでいった。

 壁に衝突した振動が床に響く。



 腕を突き出した状態で固まった。

 拳に、衝撃はない。



(まだ、何もしていなかったのに)



 周囲で様子を見ていた生徒が息を呑む。



「な、何事だ!?」



 教室に入ってきた教師は、顔を青ざめさせ、千草に叫んだ。



「貴族様の子を殴るなんて、許されざる行為だぞ、千草!!!!」


「ち、違います、今のは……!」


「言い訳など聞きたくない!! お前はもっと賢い生徒だと思っていたのに……」



 その一言は、千草の心を深くえぐった。

 結局、千草は白警、いわゆる警察に突き出された。



「貴族様のご子息に手をあげるとは、万死に値するぞ!! 千草界!!」


「違う、あいつが勝手に!!! 俺は殴ってなんかいない……!!」


「黙れ!! 貴様のような下賤の者の言い訳など、聞くに値せん!!」



 “暴力沙汰“として処理された。



 白警の男の鞄には、札束がぎっしり詰め込まれていた。帰り際、彼が貴族に頭を下げる姿が、千草の目にはっきりと焼き付いた。




 翌朝。




 千草はコンビニの前で、バイト先の上司に叱責されていた。


「何度言ったらわかるんだよ、にぃちゃん。クビだよ、クビ。俺も話を聞いた時は驚いたって。暴力を振るうような子だとは思わなかったし」


「誤解っす!! あいつは勝手に吹っ飛んだんだ。俺は殴ってなんか……」


「にぃちゃん。もしそれが事実を言ってるんだとしても、俺は貴族や白警の言うことを信じるしかねぇんだ。お前のことは、」


 上司が次に言うであろう言葉は、不思議な事に簡単に予測できた。心が、空になる。



(そうか、俺はもう……)



「信用できないんだよ」




(誰からも信用されないんだ)



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