2話 安静にしていなさい(後編)
冷たい風が包み、衝撃音が辺りに響き渡る。
8階の部屋から飛び降りたのだ。周囲の人々からは、何事か、と視線が集中するのを感じる。
「無理は、しないのでは??」
厳しい口調でそう溢しながらも、軽々と抱き抱えて地面に降り立つ市川。あっさり抱えられているアオは不貞腐れた表情。
「もう、体は治ってるし」
「治っていないから安静にしろと言われているのでしょうが……これだからガキは」
深くため息をつき、思わず呟く。
「え、なんか言った?」
「いえ、何も。
それより、早く中基地に戻りましょうか」
何もなかったように澄ました表情で答え、その言葉にショックを受けたのかアオは愕然とする。
「え、せっかく外に出たのに!?」
市川はアオを地面にそっと降ろす。見下ろす身長差を保ったまま、淡々と話した。
「はい。これ以上危険なことをされる前に連れ帰……体調を崩されたら困りますし、戻られたほうがよろしいかと」
「そんな……」
彼女は俯き、前髪が瞳に影を落とす。
「……鬼谷も、坂も。私のこと知らないくせに大人しくしろって言ってくる。でも私は、何もできない子供じゃないって証明したいんだよ」
アオは真剣な表情でそう訴えると、顔をあげて市川の目を射抜くように見つめる。
──それと、この世界で私が生きていけるのか。
「そうですか」
市川の表情が少し和らいだ。
わかりづらいがアオにはそんな気がしたのだ。
「……では、傷が癒えた際には何か、魔法や戦闘の練習の、お手伝いでもしてさしあげますから」
「ほんと!?」
「俺は嘘はつきませんよ」
今度は市川が先導し、大股で歩きはじめる。アオはその後ろから早歩きでついていった。
「これは……坂隊長に怒られる……」
特有の錆びた匂いが鼻につく。路地裏に入った頃、市川は小さくぼやき、すぐに口を閉じた。その表情はどこか険しい。張り詰めた静寂が訪れる。
「………妙ですね」
「何が?」
「いえ、何でもありません。ただ少し、気配を感じた気がしまして」
アオは市川の警戒を軽く流しながら腕を組んだ。
「気配ぃ?? わからないけど」
早く帰るんじゃないの、と彼女が急かすと、市川は未だ警戒を解かず静かに歩みを進めた。
路地裏の屋根の上には複数人の柄の悪い男たちが、アオと市川を発見し声をひそめる。
「あれが、ターゲットの“銀髪の魔族”か?」
「お前も見ただろう、あの身軽さ。少し髪色が違うようだが、護衛がついている。まず間違いない」
「始めろ」
低く固い声が耳に届き、市川とアオは同時に上を向く。そして、瞬時に理解した。
敵襲。
男が地面に飛び降りたその瞬間。
市川が男を押さえ込む直前、アオの体は反射的に動いていた。
目で追えない速さの風が走り、男の首元に敵から奪ったナイフを添えられる。即座に反応した市川が彼女の手を掴んだ。
「俺がやります。ガキは退がってくださいますか」
「わっ!?」
市川はアオを離れた場所まで突き飛ばす。
「ガキって……」
彼は襲いかかってきた男の頭を掴み、そのまま地面に落とした。軽やか。それでいて大胆な足運びで大きく距離を取る。
市川は流れるようにまた違う男のこめかみを蹴る。他の敵を一瞥すると、体を沈めて一気に加速し、そして正確に顎に掌底を撃ち込む。
男は胃液を吐き出しながら、鈍い音とともに後ろに吹き飛ばされる。
「次」
振り向きざまに回転蹴りを繰り出し敵の体同士をぶつけ、気絶させる。息をつく間も与えない。一気に3人ほど地面に伸びる襲撃者。
「くそが!!」と叫び、剣を振り回しながら突進してくるのを一歩下がって躱し、足払いをかける。
「剣を持つなら慎重に間合いを測れ」
転びかける男の手首を引いて、後ろに飛ばす。何度も視線を潜り抜けてきたのが素人目でもよく分かる。
「────強い!!」
アオはその戦闘技術に自然と心が湧き立つのを感じながら、彼を観察。その後も彼は敵を次々に蹂躙していく。動きには無駄がなく、とても洗練されていた。
「暑ちぃな」
呟いた市川は、ゆら、と片手でネクタイを緩めた。彼の純黒の長髪が揺れる。最後の1人が彼を見て、小さな悲鳴をあげた。
「お前……その、タトゥーは……!?」
視線が市川の首元に集中する。シャツで隠されていた部分が露わになり、黒い薔薇が絡み合うように彫られたタトゥー。彼の白い肌に強く存在を主張するその漆黒は────、
「なんで、なんでなんでこんな場所にいるんだ!? 聞いてねえよ!!!」
「横浜マフィアの、“黒薔薇”がいるなんて!!」
裏社会の恐怖の象徴、横浜マフィア。市川の瞳が不機嫌に細まる。
「俺が、俺の縄張りにいて、何が悪いので?」
「黒薔薇……?」
反射的に呟くアオ。
「さて、お前はどうすべきか……。まさか俺のことを知っている者がいるとは……」
低く、男を見降ろした。
市川の瞳は闇そのもののように更に黒く濁り染まっていく。違和感などない。まるで、元々こちらが本来の姿だと言わんばかりに自然。
「では殺しますか」
その一言で、その場が凍りついた。
男は必死で手を払いのけ逃げようとするが、足がもつれて座り込む。被食者となったことに恐怖を覚え、手足の震えが止まらず焦点が合わない。
「い、嫌だ!! こんなやつ、俺たちなんかじゃ話にならねえ!! まだ死にたくない!!!」
泣き叫びながら何かないかと周囲を見回す。
そしてアオが目に止まると、縋るような声を上げ手を伸ばした。
「お、おい、嬢ちゃん、さっきは悪かったよ! 俺が悪かった、何でも償う!! 何でもする!」
「だからどうか、こ、こいつを止めてくれ!! おい、頼むよ!!!!!」
絶叫に近い声で路地裏の湿気を切り裂く。
壁によりかかり座り込んでいたアオは無表情で男を見ていたが、しばらくして立ち上がり、口を開き首を傾げた。
「──なんで?」
今にも割れて壊れてしまいそうな、硝子の張り詰めたような沈黙が流れる。市川までもその圧倒的な緊迫感の渦に呑まれている。
「私に正しいことはわからないけど、でも、これが普通な気がするんだよ」
アオの瞳が海のように深い碧へ沈んでいく。一才を映さないその瞳が男を襲った。
「君が、弱いのが悪い」
その一言に市川が一瞬動きを躊躇った。
戸惑い、確認するようにアオに訊く。
「いいのですか?」
「うん」
アオが頷いた直後、鮮血とともに男の首が宙を舞った。市川は無造作に手を払うと、周囲を見回しながら言う。
「次は……いらっしゃいますか?」
彼の声に返答はなく、冷たく風が吹き抜ける。アオは市川の隣で軽く頭を下げた。
「助けてくれたのには礼を言うよ。
それで………マフィアって?」
彼女が問いかけると、彼は静かに肩をすくめ困ったような笑みで微笑んだ。
「ええ、驚かせてしまいましたか。俺は国防軍の隊員ですが、それと同時に、横浜マフィアの構成員でもあります」
「……嘘でしょ?」
目を伏せ、諦めるように市川が続ける。
「怖がってもらって構いません……しかし、しばらく。基地までは我慢してもらえますか?」
「いやいやいや、助けてもらってるんだし。
私のこと気遣ってくれたのには驚いた。
思ったより、優しいんだね……市川は」
「それは……」
彼は一瞬驚いた表情を見せるが、すぐに冷静さを取り戻す。
「光栄です。しかしまずは……このゴミ共を何とかしなければなりませんね」
「確かに。ここに放置するのはちょっと」
周囲には無惨な姿の男たちが倒れていた。
鉄臭い血溜まりができ、腕があらぬ方向に曲がっている者や、生首まで転がっている。これを一般人が見たらどう思うか嫌でも想像がつく。卒倒するだろう。
──いや、私も一般人だけど。
「そろそろ坂隊長の仕事が終わっていると思うので、電話してみます。スピーカーモードにしますが、とりあえずは黙っていてください」
「はいはーい」
市川はアオが軽く返事をしたのを横目に、スーツのポケットからスマホを取り出し、電話をかけた。
「隊長、今よろしいでしょうか?」
『ああ。珍しいね、市川から電話をくれるなんて。もしかして、何かあったのか?』
「とても言いづらいのですが……その、アオさんに連れられ外に出されてしまいまして」
『それで?』
坂の声には冷静さの中に怒気が混じっていた。
危機感を感じた市川は早口で説明する。
「基地に戻ろうとしている途中で、人攫いか、暗殺者らしき集団に襲撃されました。返り討ちにしたものの少々やりすぎてしまいまして………回収班をお願いします。
命令を遂行できず申し訳ありませんでした」
『少々、ね……。わかった、回収班を出そう』
「では失礼します」
『ちょっと待て』
彼が通話を切ろうとしたのをわかっていたようなタイミングで、制止がかかる。
『君の説教は後回しにしておくとして……、そこにアオはいる?? いるなら、代わってくれないかい?』
疑問系だが有無を言わせない声音に、市川は躊躇しつつもアオにスマホを渡した。
「えっ、と、もしもし。通りすがりの郵便配達員ですが、どちら様で?」
『ふざけないで?』
咎められ、アオは慌てて俯いた。
「勝手に外に出て、ごめん。坂………隊長」
『無理はするなって言わなかった?』
「言われた。元気だし、動けると思ったから」
『……担当の医師からも、傷はほとんど治っていると報告を受けている。だから、今回の事は見逃そう。市川といる時に襲撃を受けるとは……』
一度言葉を切り、迷ったように言った。
『えーと……、災難だったね』
「私が?? それとも襲撃してきた人が?」
『いや、無事なら安心した』
それを聞いて、「ねぇ」とアオが言う。
「そこまで私を心配しなくても大丈夫だし、1人で、何とかできる」
『………それは』
アオの呟きに、市川が屈み込んで、そっと彼女の頭に手を置いた。その動作に、アオは驚いて顔を上げる。
「アオさんに何があったのかは知りませんし、詮索するつもりはありませんが。
大人は子供に頼ってほしいのですよ」
「……えっ?」
市川からそんな言葉を聞くとは思わなかったアオは、目を丸める。困惑が顔に広がるのが見えた。
「アオさんが1人で解決できる力があるのは、俺が理解しました。しかしどうか、一度でも子供らしく笑ってみてください。俺も協力しますので」
くすぐったいような感覚に胸の奥を襲われ、アオはそっぽを向いた。反対にザワ、と湧き立つ感情。
「……考えとく」
そのやりとりを聞いていた坂がスマホ越しに明るい笑い声を上げた。
『今日の市川はなんか、全然違うね。いっつも無愛想で、僕が話しかけようとしたら氷点下より冷たい目で見てくるのに』
「総隊長に押し付けられた仕事を、そのまま部下に押し付けてくる上司にはそのくらいが丁度良いのかと」
『それはごめんね? 回収班が向かっているから基地に帰ってて。アオに話したい事があるから僕もすぐに戻るよ』
「承知いたしました。アオさん」
市川が視線を向けるとアオは軽く頷く。
「うん、帰ろうか」
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