ネコミミの俺とイヌミミの君
ひつじうお
一年 一学期
春と猫の耳
まだ少し肌寒いものの、雲ひとつない青空から差し込んだ光が辺り一面の桜色を照らす様はどこか爽やかさを感じさせた。
雪が解けたばかりの山肌を撫でて吹き込む風は、部屋に籠りきりでどんよりとした空気の溜まった肺を洗い流すかのようで、思わず立ち止まり大きく深呼吸をする。
緩やかな坂道の先、花束のような桜色に囲まれた白く立派な校舎を見て、俺は改めて長く辛い受験戦争を勝ち抜いたのだと実感する。
ぴちっとした新しい学生服に身を包んだ者たちはおっかなびっくりといった様子で校門をくぐっていく。入口に設置された入学式の立て看板の前ではどこか気恥しそうに顔を逸らす少年と、その様子を微笑ましげに見つめる母親であろう女性の姿が見えた。
花びらの乗った桜色の風に背を押されるように、俺は『
在校生と新入生とで登校の時間が異なるのか周りを歩く生徒たちは皆一様にどこか緊張した面持ちで、さび付いたブリキのおもちゃのような足取りで歩いている。
緊張しているのが俺だけではないことにほんの少しだけ安堵し、ホッと息を吐いた。
昇降口では既にクラス分けの表が張り出されているのか、たくさんの生徒が集まっていた。手を取り合って喜ぶ生徒たちの様子を見るに彼女たちは同じ中学校に通う友達なのだろうとということが伺えた。
俺も彼女たちのようにクラス分けで一喜一憂したいところだが、俺の通うことになる辻ヶ宮高校は俺の地元から遠く離れており、知り合いは一人もいなかった。
故に、これからの高校生活を決定するのは序盤でいかに人に話しかけられるかに委ねられていた。
生徒でごった返す昇降口が空くのを待つこと数分。大方の生徒たちは自身の教室へ向かったのか人の波が途切れたのを見計らい、自分の名前を探す。
「
ナ行の苗字はただでさえ見ないうえ、「ね」から始まるともなれば下から探した方が早いだろう。
そう思い、クラス表の下半分だけを見ていた俺はすぐに『
「ねえ、そこの君!今三組って言ったよね!!」
さあ、友達を作るぞ!と気合を入れたところで、背後から元気な少女の声が響いた。
驚いて肩を跳ねさせ、勢いよく振り返るとそこには鮮やかな小麦色の髪の少女が立っていた。辻ヶ宮の生徒であることを示す黒いセーラー服を着たその少女は、柔らかく長い髪を風に揺らしてまん丸なダークブラウンの目で俺を見つめている。
その顔立ちはまるで二次元から飛び出してきたかのように整っており、女子の中では長身の背丈とそれに見合う整ったスタイルはこれからの学校生活で生徒たちの視線を集め続けること間違いなしだ。
何より特徴的なのは、彼女の頭頂部から生えた二つの垂れた大きな耳と、腰の辺りで元気に揺れる尻尾だった。
「
「あ、やっぱり気になる?」
思わず呟いたその病名を少女は聞き逃すことなく、その場でくるりと回り、それに従って腰から生えた尻尾も揺れる。
獣化症候群。それは数十年前に現れた病気の名だ。症状は名前の通りで、発症から数秒の間に発症者の身体にランダムな動物の身体的特徴が現れるというもの。病気と銘打たれているものの、発症者の特徴には共通点がなく、感染性も全くない、原因の一切わからない現象であり、最初の発症者が現れてから今年で八十年ぐらいが経つが未だに原因はわからず日々発症者が増え続けているという未知の病気。
今では三十人に一人が発症する病気となっており、小中学校でもクラスに一人はいた。
「まあいいや!私は
「あ、俺、猫崎凪って言います。よ、よろしく…?」
「猫崎くんだね!よろしく!」
犬宮の差し出した手に一度どうするか迷ったものの結局握ることにすると、犬宮は掴んだ手をぶんぶんと振る。テンションの高さに連動するように髪と同じ小麦色の尻尾が勢いよく振られ、ちぎれてしまうのではないかと心配になってしまう。
そうして腕を振られること数秒、大きなチャイムの音が鳴り響くと犬宮は大きく驚いた。
「……あっ!?教室に行かなきゃ!!猫崎くん、急ごう!」
パッと手を離した犬宮は次の瞬間にはとんでもない速度で走り去ってしまった。
「台風みたいな人だな……」
獣化症候群を発症した者は身体能力が大きく向上することは知っていたが、さすがに速すぎる。
しばらく犬宮が走り去っていった方を眺めていたが、昇降口で立ち尽くす生徒の存在に気づいた先生の急かす声に慌てて教室へと向かった。
教室に着いた頃には既に生徒たちは着席をしており先生の到着を待っていたのか、俺がドアを開けると一斉に彼らの視線が集まり驚いてしまう。
しかし俺が先生ではないことに気づくと、すぐにその視線が逸らされた。
唯一犬宮だけは俺から視線を離さず、見えないように小さく手を振っていた。
……彼女は勘違い男子製造機になりそうだな。
座席表は既に掲載されており見ると、俺の席は窓際の席の一番前。奇しくも優等生席から始まってしまったようだ。ナ行の苗字の宿命か……。とりあえず後ろの席に座っていた男子生徒、座席表には羽山と表記された彼に軽い会釈をすると、彼も同様に返してくれた。
席に着いたところで、教室の扉が開き三十代くらいの男性が入ってきた。
彼は吉田と名乗り、これからの一年間、この一年三組を担任することになったと説明をする。
「さて、詳しい説明は入学式が終わった後にしましょう。これから体育館に向かうので出席番号順に並んでください」
その指示に着席していた生徒たちは一斉に立ち上がり、男女それぞれの出席番号順に並んで二つの列を作る。
列を作ったはいいが、まだ入場まで時間があるようで、生徒たちは声を潜めながら軽い会話を交わしているようだった。俺もそれに倣い、後ろに並ぶ男子生徒、羽山に話しかけることにした。
「やっぱり入学式って緊張するよな」
「あ、ああ…」
だがその前に羽山の方から話しかけられ出鼻を挫かれてしまう。しかしそれならそれで良い。自分から会話を作り出すことが苦手な俺にとっては渡りに船だ。
「俺、
「ああ、俺は猫崎凪。よろしくな。……羽山ってここら辺の出身?」
「いんや、地元からは電車で二時間くらい離れてるから今年から一人暮らしなんだ」
「……奇遇だな!俺もなんだよ!」
思わぬ共通点が見つかったことで嬉しくなってしまい声が大きくなる。しかしすぐに気が付いて声をまた潜めて話す。
「まじか!一日目で同じ境遇のヤツに会うとは思わなかったぜ。よろしくな、猫崎!」
「ああ、こちらこそよろしく、羽山!」
渡邊が差し出した手を強く握り返した俺は改めて羽山を見る。
俺より少し高い身長に、制服を着ていてもわかるほどのがっしりとした体型。爽やかさを感じさせる黒い短髪の彼は何らかの運動部に所属するのは間違いないだろう。
「おっ、列が動きだしたぞ。行こうぜ、猫崎」
「おう」
羽山の言葉に振り返ると、列が既に動きだし先頭の一組の生徒なんかは見えなくなってしまっている。置いていかれないよう軽く早足で歩き、列の最高峰へ追いついた俺は近づいてくる拍手の音に胸を高鳴らせた。
心臓の鼓動は拍手の音が大きくなるにつれて大きくなっていき、平静を装っていた俺が実際は緊張していたことに今更ながらに気づく。
列はどんどん進み、とうとう体育館の入り口へと到着し、そして入場。遠くからのくぐもった拍手の音は今では全身に風が吹きつけるかのようだ。後方で奏でられる吹奏楽部による歓迎のBGMと負けじと鳴らされる拍手の音に胸がいっぱいになる。
在校生たちの持つアーチの下をくぐり抜け、男女で左右に分かれてそれぞれの席へと着席する。ひんやりとしたパイプ椅子の感触では高揚した気持ちを静められそうになかった。
三組が入場し終えると、次に四組、五組と続き最後の六組の生徒が全員着席した所で吹奏楽部は演奏を終了した。新入生の入場が終わると、掲げられていたアーチは邪魔にならないように避けられ、眼前の舞台上に現れたのは五十代後半くらいのおじさんの先生。
年齢のせいか髪が少し薄くなっているが、彼の体は腹が出ているといった様子はなく、まるでアスリートのような筋骨隆々の身体で真っ直ぐに立つその姿は男の憧れそのものだった。俺もいつかああなりたいものだ。
そのまま舞台の上を進み、マイクの前に立ったその先生はなんと校長先生だった。見た目通り若くして就任したのか、それとも実年齢はもっと上なのか、いずれにしても優しそうな先生だ。
先生は穏やかな、それでいてよく通る声で話し始めた。
その時、俺の身体を異変が襲った。
(……なんだ……?……なんか、眠い……?)
穏やかな声、わずかに差し込む光。緊張から昨夜あまり眠れなかったといった理由はあれど、それだけでは説明しきれないほどの眠気が襲いかかる。眠気を覚まそうと頭を振るとまるで視界が歪むかのようにぐらぐらと揺れ、眠気がさらに強くなる。
瞼が少しずつ落ちていき、視界が少しずつ狭まっていくのを自覚しながら抗うことができず、座る体を支えていた全身の筋肉が少しずつ弛緩していくような感覚を覚える。
「――ぃ、だ――――か?」
羽山が何か心配そうに囁いているのが聞こえる。なんとか返事をしようとするが、それは叶わなかった。
声をかけるだけだった羽山は声がけだけではだめだったのかと次はさりげなく俺の肩を揺らしているようで、ぐらぐらと揺れる視界が逆に心地よく感じてしまい、少し申し訳なくなる。
とうとう自分で体を支えられなくなり、冷たい床の感触を頬で感じたところで俺は意識を失ってしまった。
□ □ □ □ □ □
「……ん、……んん……?」
柔らかな布団の感触に目を覚ます。
(ああ、そうだった、気を失ったんだったか……)
入学式の途中に耐えがたい睡魔に襲われて気を失ったことを思い出す。意識を失う直前に見た羽山の心配そうな顔を思い出して申し訳なくなる。
後で彼には謝罪の意を込めて何らかを奢ってやらないとと思ったところで、今の自分の状況について考える。
入学式中に倒れたのだから俺は保健室へ運ばれたのかと思いきや、周りを見渡すとそこにある器具たちは明らかに保健室のレベルを超えているように見える。
「……は?」
日差しの差し込む窓の方へ目を向けると、そこから見えるのは桜色に囲まれた真っ白な校舎。まぎれもなく辻ヶ宮高校の校舎であり、俺のいる場所が高校とは全くことなる場所であることがわかる。
まだ引っ越したばかりで辻ヶ宮市の地理に詳しくないため、ここがどこであるかを考えていると遠くからドタバタと騒がしい音が聞こえ、その音は少しずつ俺のいる場所へと近づいているのがわかる。
勢いよく扉が開け放たれると、そこに立っていたのは三十代後半くらいの女性。引っ越す直前に顔を合わせたばかりの母親の姿だった。
「母さん……。……んっ!?」
喉から響く自分のものとは似ても似つかない可愛らしい声に驚く。思わず自身の身体を見下ろすと、病衣の上からでもわかる小ぶりなふくらみが二つ。そして、視界の端で揺れるモフモフの二本の縄――否、尻尾がそこにあった。
恐る恐る頭へと手を伸ばすと、そこにはあるはずのない三角錐のような形をしたこりこりとした器官。触れる度に頭全体を揺らすような音を鳴らすその器官から手を離し、本来それがあった場所に手を伸ばせば――
――スルッ。
何かに引っ掛かることなく、顔の端から沿わせた手はそのまま後頭部で指先が触れ合った。
「な、ななな……」
「な、凪……」
「なんじゃこりゃぁあああ!!!」
唐突に訪れた非日常に思わず叫んでしまったのは仕方のないことだろう。
□ □ □ □ □ □
少しの間パニックに陥っていた俺だったが、すぐさま抱き着いて来て俺を宥め続けていた母さんのおかげで平静を取り戻した。
そして、またパニックに陥らないようにと複数人の看護師によって車いすに乗せられて医師の元へとやってきた。
清掃が行き届いた、埃一つなさそうな清潔な診察室の中、静かな声が響く。
暑すぎず、寒すぎず、丁度いい室温に保たれた診察室に最初は心地よさを感じる。
しかし、直後に鼻を貫いた薬品の臭いに思わず顔を
心配そうな母さんの顔に何とか表情を保ち、医師の言葉に耳を傾ける。
「これらの症状から、我々は猫崎さんが獣化症候群を発症したと認定しました。……ただ、これまでのものとは違い猫崎さんは性別まで変わってしまうというこれまでにない症状であり――」
医師の言葉に、壁の大きな鏡へと視線を向ける。
ガウン型の病衣に身を包んだ黒髪の少女は、腰の辺りから生えた二本の尻尾をゆらゆらと揺らしながら、満月のようなまっ黄色の瞳とそこに浮かぶ縦長の瞳孔で俺を見つめている。表情こそ無表情だが、頭部に生えた猫の耳は横にペタリと倒された俗に言うイカ耳の状態となっており、少女が不機嫌ないし警戒状態だというのが見て取れる。
医師はこの鏡に映る少女こそが俺、猫崎凪なのだという。
何をおかしなことを、と腕を上げれば、鏡に映る少女もまた腕を上げた。手を開閉してみると、少女もまた同じ形をとる。
ムキになって頭を左右に揺らせば、少女もまた頭を左右に。
ならば――!
「凪」
咎めるような母さんの声音に沸騰しかけていた頭が急速に熱を失っていく。振り返ると少し怒ったような母さんと、苦笑を浮かべる医師の姿があった。
「……ごめんなさい」
俺は、相変わらず慣れない可愛らしい声で謝った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます