潮風とマーマレード

或 るい

第1話 深海の、ひとかけらの光

 海の色を映したような瞳、と誰かが言った。

 けれど、この瞳が本当に映しているのは、きっと、光の粒さえも迷い込むのを躊躇うような、静まり返った深海の色だ。私は、海野 凪うみの なぎ。この港町に吹く潮風に、当たり障りなく紛れているだけの、高校二年生。


 …そう、当たり障りなく、いられたなら。


「凪、パパのネクタイ、どっちがいいと思う?この空色のやつか、それともこっちの、栞が選んだ縞々のか」

「どっちでもいいでしょ、湊さん。どうせ昼には、そのネクタイは緩みきってだらしなくなってるんだから」


 朝の食卓は、いつも同じ音と香りで満ちている。カリ、と小気味よく焼けるトーストの音。豆を挽く時の、香ばしくも眠たいような匂い。そして、私の「パパ」ことみなとと、「ママ」ことしおりの、穏やかな会話。

 湊は、短く刈り込んだ髪に銀色が数本、星のようにきらめいている。洗いざらしたリネンのシャツから伸びる腕は、建築デザイナーらしく、しなやかで力強い。彼女が手にしている二本のネクタイは、まるで人生の選択肢みたいに、彼女の指先で揺れていた。

 そんな湊に、呆れを含んだ愛情を注いでいるのが栞だ。ふんわりと束ねた髪から、いつもローズマリーか何かの、心を落ち着かせる香りがする。彼女が淹れるコーヒーは、どんな荒れた嵐の日でも、港を凪いだ朝に戻してしまう魔法がかかっている。


 二人とも、血の繋がった、私の母親だ。

 これが、私の家の「普通」。食卓に並ぶ食器の数、椅子に座る家族の数、そのすべてが偶数で、そこに男の人はいない。私と、姉のうしおと、二人の母。それだけが、この家の構成員だった。


「だって栞さん、この縞々のやつ、昨日『素敵ね』って言ってくれたじゃないか」

「あら、そうだったかしら。うふふ、酔っていたのかもしれないわね」


 戯れ合う二人を視界の端に捉えながら、私はこんがり焼けたトーストに、マーマレードを厚く、塗り広げた。透明なオレンジ色のジャムの中に浮かぶ、苦い皮。その苦さが、なぜか好きだった。甘いだけじゃない、その存在が。

 この家は、好きだ。

 湊の、ぶっきらぼうなようでいて、私の心の揺れを誰より早く察知する鋭さも。

 栞の、どんな歪な感情も「そういうこともあるわね」と、柔らかなスポンジのように吸い取ってしまう、海の深さも。

 自由奔放という言葉を擬人化したような姉の、嵐のような明るさも。

 ここは、私にとって世界で一番安全なアジール


 けれど、一歩外へ出れば、その港の形は、少しだけ、奇妙なのだと教えられる。


 学校の錆びついた門をくぐる瞬間、私はいつも、ひとつ、深く息を吸う。そして、ゆっくりと吐き出す。その息と共に、海野家の凪は消え、無口で、誰とも関わらない、クールな「海野さん」が起動する。風景の一部になること。それが、私がこの数年で身につけた、自分を守るための、脆い鎧だった。


「――おはよ、海野さん」


 教室の引き戸に手をかけた、その時。鼓膜を揺らしたのは、鈴が鳴るような、澄んだ声だった。

 振り向くと、そこに彼女はいた。月島陽詩つきしま ひなた

 太陽の光をぜんぶ吸い込んで、そのまま溶かしてしまったみたいな、明るい栗色の髪。大きな瞳は少しだけ垂れていて、見る者を無条件に安心させてしまう、子犬のような愛嬌を湛えている。

 彼女は、私の対極にいる生き物だ。いつもクラスの輪の中心で、春の陽だまりみたいに、暖かく笑っている。


「…おはよ」


 声が、思ったより低く出た。私は短く応え、逃げるように自分の席へ向かう。彼女との会話は、これで終わり。それでいい。彼女の眩しさは、私の静かな海の底まで届いて、泥と一緒に沈めておきたい感情を、かき乱してしまいそうで怖いのだ。


 なのに。

 彼女は、こともなげに私の隣の席に、自分の鞄を置いた。そうだ、昨日のホームルームの最後、担任が席替えを告げていた。私の意識はもう、窓の外の空にあったから、すっかり聞き流していた。

 最悪だ。心の奥で、錆びついた警鐘が、軋むような音を立てて鳴り響く。


「すごい偶然だね、隣の席なんて。これからよろしくね、海野さん」

「…うん」


 私がどれだけ素っ気なく返事をしても、彼女の陽だまりは少しも翳らない。それどころか、まるで面白いものを見つけたみたいに、その瞳がきらりと光った気がした。

 彼女が教科書を取り出す、その些細な動きすら、なぜか私の神経を逆撫でする。

 その横顔を、盗み見てしまった。陽の光に透ける産毛、滑らかな頬のライン、少しだけ開かれた唇。

 綺麗だ、と、思った。

 そう自覚した瞬間、心臓が、トクン、と大きく、不自然に波打った。


 見ちゃダメだ。


 私は、火傷でもしたかのように、慌てて視線を窓の外へ移す。ガラスに映る自分の顔は、いつも通りの無表情。大丈夫だ、まだ鎧は剥がれていない。クールバージョンは正常に機能している。

 けれど。

 私の灰色の表情を映す、そのガラスのすぐ隣に、彼女の柔らかい笑顔が、ふわりと重なって映り込んでいた。

 まるで、モノクロームの世界に、一滴だけ、誰かが鮮やかな絵の具を落としてしまったみたいに。

 息が、少しだけ、苦しい。

 早くチャイムが鳴ればいい。早く退屈な授業が始まって、この居心地の悪い静寂を壊してくれればいい。

 私は、自分の境界線の内側へ、じりじりと侵食してくるその光から逃げるように。

 ただじっと、窓の外の、どこまでも続く、青い空を見つめていた。


 数学の授業は、世界から音を奪う。規則正しく黒板を叩くチョークの音と、教師の抑揚のない声だけが、まるで遠い国の出来事のように鼓膜を撫でていく。それは私にとって、思考の海に深く沈むための、心地よい子守唄のような時間だった。

 けれど今日は、違った。

 隣の席の月島さんが、時折、小さくこくんと頷く気配。さらさらと、綺麗な文字をノートに走らせる音。彼女が動くたびに、シャンプーの残り香が、ふわりと私のテリトリーに流れ込んでくる。それは、私が知らない、甘くて清潔な香りだった。

 その香りが、私の静かな海に、小さな波紋をいくつも作り出す。集中できない。私は無意識にペンを強く握りしめていた。


 昼休み。喧騒が教室を満たす。女子たちが楽しげに声を立てて机を寄せ、色とりどりのお弁当を広げる光景は、私にとっては水槽の外から眺める、異世界の儀式だ。

 私はいつものように、購買で買ったクリームパンの袋を静かに開け、窓際の席で文庫本の世界に逃げ込む。それが私の定位置。私の城壁。誰も入ってこないし、私も誰も招かない、完璧な孤独。


「海野さん、それ、何ていう本?」


 その声は、城壁をやすやすと飛び越えて、私の頭上から降り注いだ。

 顔を上げると、月島さんが、少し屈んで私を覗き込んでいた。その大きな瞳が、好奇心にきらきらと輝いている。彼女の手には、桜色の風呂敷に包まれた、可愛らしい二段重ねのお弁当箱。友達の賑やかな輪から、わざわざ抜け出してきたのだ。


「…別に。普通の小説」

「へぇ、どんな話?」


 彼女の質問は、悪意のない、純粋な光そのものだった。だからこそ、厄介なのだ。その光は、私の鎧の隙間から差し込んで、内側の柔らかい部分をじりじりと焼いていく。


「…人がたくさん死ぬ話だよ」


 少しだけ、棘を混ぜてみた。これで気味悪がって、興味を失ってくれればいい。そう、心のどこかで願ったのに。


「そっか」


 月島さんは、一瞬だけ瞳を伏せた。そして、もう一度私を見ると、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「…悲しいお話が、好きなんだね」


 違う。

 そうじゃないんだ。

 そう言い返したかった言葉は、喉の奥で小さな石ころみたいに引っかかって、出てこなかった。私の心臓が、まるで誰かに鷲掴みにされたみたいに、きゅう、と痛んだ。彼女は、私の放った棘を、素手で受け止めてしまった。そして、棘の奥にある、私自身も気づいていなかった感傷を、正確に言い当ててしまったのだ。


 その日の放課後、空は、まるで誰かの悲しみが溢れ出したみたいに泣いていた。

 昇降口で立ち尽くす生徒たちを横目に、私は鞄から折り畳み傘を取り出す。誰かに傘に入れてもらうような、面倒で気まずい事態は絶対に避けたい。私の用意周到さは、こういう時にだけ発揮される。

 バス停の、アクリル板でできた粗末な屋根の下、数人の生徒が雨宿りをしていた。その中に、月島さんの姿を認めて、私は無意識にアスファルトに足を縫い付けられる。彼女も、傘を持っていないようだった。友達と帰る約束でもしていたのだろうか。彼女の周りには、いつも誰かがいるはずなのに。

 戻ろうか。いや、それはあまりにも不自然だ。

 私は覚悟を決めて、バス停の屋根の一番端に立った。彼女から、一番遠い場所。水しぶきが跳ねて、制服のスカートの裾がじっとりと濡れていく。雨粒が屋根を叩く、単調なドラムの音だけが、私たちの間の気まずい沈黙を埋めていた。


「…海野さん」


 先に静寂の膜を破ったのは、月島さんだった。


「ん?」

「あのさ…、さっきは、ごめんね。お昼休み、邪魔しちゃったみたいで」


 それは、あまりにも予想外の言葉だった。私は本に顔を埋めたまま、視線だけをそろりと彼女に向ける。


「別に、邪魔じゃなかった」

「ほんと?良かった…。なんだか、海野さん、怒らせちゃったかなって、ずっと思ってた」

「別に、怒ってない」


 自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。


「そっか。…海野さんって、あんまり喋らないけど、本当は優しいんだね」


 何を根拠に。

 そう問い返そうとした、まさにその時だった。

 突風が、唸りを上げて吹き抜けた。街路樹が大きくしなり、生暖かい雨が、まるで意志を持ったかのように、私たちのいるバス停の中に激しく吹き込んできた。


「わっ…!」


 月島さんが、小さな悲鳴を上げた。細い肩が、びくりと震える。彼女の白いブラウスの肩口が、あっという間に濃い灰色に染まっていくのが見えた。雨粒は、彼女の栗色の髪を濡らし、雫となって頬を伝っていく。

 その光景が、なぜかスローモーションのように見えた。

 頭で考えるより先に、私の体は勝手に動いていた。


 一歩、彼女の方へ踏み出す。

 自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。

 持っていた折り畳み傘の留め具を外し、バサッ、と音を立てて開く。

 そして、雨に打たれる彼女の華奢な肩を覆うように、そっと、傘を差し出した。


「え…?」


 月島さんが、大きな瞳をさらに大きくして、私を見上げる。その瞳の中に、驚きと、それから、ほんの少しの安堵が混じっているのが見えた。


 傘の内側にできた、二人だけの小さな空間。

 世界から切り離されたみたいに、雨音が少しだけ遠くなった。代わりに、すぐ隣にいる彼女の、乱れた呼吸が聞こえてきそうだった。近い。彼女の体温まで伝わってきそうな距離。


「…濡れるから」


 それだけ言うのが、精一杯だった。声が、震えなかっただろうか。

 彼女の顔が、すぐそこにある。雨に濡れたせいか、いつもより少しだけ幼く見えた。シャンプーの、甘くて清潔な香りが、雨の匂いに混じって私の胸を満たす。


 私の心臓は、もう警報なんていう生易しいものではない。嵐の中の船のように、激しく、不規則に揺れ続けている。


 月島さんは、しばらく黙って私を見つめていた。その沈黙が、永遠のように感じられる。やがて、その薄い唇が、ゆっくりと綻んだ。

 それは、いつものクラスの中心で、誰にでも平等に振りまく太陽のような笑顔とは、まるで違う。

 雨上がりの空に、ほんの一瞬だけかかる虹みたいに。

 儚くて、不確かで、それでいて、息を飲むほど綺麗な微笑みだった。


「…ありがとう、凪ちゃん」


 初めて呼ばれた、下の名前。

 その響きは、まるで温かいミルクティーみたいに、私の冷えた心の奥底へと、じんわりと染み渡っていった。

 私の名前は、こんなにも優しい音をしていたのかと、初めて知った。

 バスが、ヘッドライトの光の束を雨の中に投げかけながら、ゆっくりと停留所に近づいてくる。

 その時までの数分間が、永遠みたいに長く、そして、一瞬みたいに短く感じられたことだけを、私は呆然と、記憶していた。

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