第7話 夏菜子先輩

 柔らかい。

 何かとても柔らかいものの上に頭を載せている。

 こんな幸せな枕なら確かに悪夢なんて見ないだろう。以前聞いた”バクの枕”はこういう枕のことを言うのだろう。

 寝返りを打とうとして、「あっ」と嬌声の様な悲鳴が耳に届き、目を覚ました。


「あ、気がついた。よかった、大丈夫そうで」

「夏菜子先輩? ってあれ? ここ何処です?」

「部室だよ部室。雄一郎くんは気を失って倒れちゃったんだよ。まだ動いちゃダメだからじっとしていて」


 起き上がろうとする体を、そっと手で制される。

 彼女の右の手が俺の心臓の上に置かれてベッドに押し付けられて、彼女の左の手がぱたぱたとうちわで風を扇いでくれている。そして自分が部室の簡易ベッドの上に、夏菜子先輩の膝枕をされていることに気がついて、顔が真っ赤になってしまう。

 俺の人生にこんな素晴らしい瞬間があるとは。


「……びっくり、したよね。私もびっくりしちゃった」


 うちわで顔を送ってくれながら、夏菜子先輩がか細い声で言った。

 その声に少し頭が冷静になる。靴を脱がされ、ベルトも緩められて、結構無防備に恥ずかしい状態で居ることに気がついて、あの恐怖の人形を見た光景を思い出す。

 じとりと嫌な汗をかいている。


「今、幽子と日向がお水や氷を買いに行ってくれているから。もう少しこうしていよっか」

「いや本当に大丈夫なんで置きますよ」

「ダメだよ。もう少しこうしていて」


 俺の胸に当てられている夏菜子先輩の指先が、シャツ越しでも分かるくらいに冷たかった。

 大人しく力を抜いて、至福の感触に身を委ねることにする。


「ほんの数分だったし、倒れた時に頭を打った様子も無かったから大丈夫だと思うけれど。何か変な感じがしたらすぐに言ってね」

「えぇ、ありがとうございます」


 お礼を言ってしまって、そしてお互いに無言になってしまう。

 考えてみれば、夏菜子先輩とはあくまで部活動だけの付き合いで、こうして2人きりになったことはなかった。ドラゴンさえ絡まなければまともなこの人とシリアスな状況にいるせいで、お互いに何を話すべきかと戸惑っている。

 年頃の青少年が、一つ年上のお姉さんに膝枕されている。、この不可解な状況だけでも随分戸惑ってしまっている。


「誓って、ね。誓って、だよ。雄一郎くんを怖がらせようとして、誰かがあそこに人形を置いた、なんてことはないからね」

「分かってますよ。そういうイタズラはしない人たちってちゃんと分かってますから」

「うん……良かった。それとね、もう郷土文芸部の活動嫌になっちゃったかな?」

「え?」


 シリアスで真剣なトーンの会話に、悲壮な色が交じる。

 思わず夏菜子先輩を見上げて、その潤んでいる瞳と目があった。

 綺麗な顔。今にも泣き出してしまいそうな顔。

 こんな至近距離で見つめることも、こんなに真剣に見つめることも無かったから気が付かなかったのだけれども。夏菜子先輩は赤く髪を染め、ピアスを幾つも開けてパンクロックな印象を与える人だけれども、顔の造形は柔らかさや穏やかさを称えるような柔和な顔つきをしている。

 髪を黒く戻したなら、とても脆そうな美少女に見える。誰からものお願いを上手に断ることが出来ないような。そんな繊細さを潤んだ瞳の中に見つけた。


「サクライヒナコの怪異事件、私も信じていなかったけれど。幽子の言う通り、本当にあるんだって今は思っている。実はね、中学の時から幽子はこの怪異のことを知っていた様に思うんだ」


 昔を物語る夏菜子先輩の瞳に、悲壮だけではなくて。昔を懐かしんで目が細まっている。


「私は昔からこんなだからさ、イジメに遭いやすかったみたいなんだよね。でも幽子が友だちになってくれたから学校にも通えるようになったんだ。高校に入ってからも竜の制作だけしていればいいからって無理やり居場所をくれて、けど本人は昔あった事件を探っているみたいなんだ。それが桜井ヒナコとどう関係するかは分かんないんだけど、この怪異に幽子は特別な思い入れがあるみたいなんだよ」


 知らないことだった。3人の先輩たちはやけに仲が良いなと思っていたけれど、夏菜子先輩と幽子部長は特に仲が良いようだった。心を許しきっている、とでも言うべきか。その一端を垣間見たような思い。


「……私は幽子の為にも部を辞めるわけには行かないけれど、雄一郎くんはそうじゃないでしょ? だから、これからも一緒に活動してくれたらなーって」


 吸い込まれそうな瞳が、眼の前にある。

 空調が効いているのに、夏に向かっていく世界は少し俺達を熱に浮かせていて。健全な男子高校生である俺の視線は、どうしたって柔らかそうな唇や細い首筋、そして第二ボタンまで空いている胸元や、豊かな双丘にまで向かおうとしてしまう。


「もしかして、この膝枕してくれているのも、いわゆる色仕掛け的なアレだったりします」

「へへへ、当たり」

「うわ、マジかー。頼みますから、こういう純情を弄ぶ的なヤツはこれっきりにしてください。本当に本気にしますから」

「私も本気だったよ?」

「ほら、それですよ。そういうやつですよ。トラウマになったら責任取ってくれるんですか」

「うん、いいよ?」

「だからそういうのを辞めてくださいよ」


 慌てて起き上がろうとしている体を、胸元を押さえている夏菜子先輩の手が止めている。

 そんなに強い力では無い筈なのに。体に上手く力が入らない。


「雄一郎くんが「辞めない」って言ってくれるまで止めない」

「辞めませんって」

「本当に本当?」

「嘘じゃないですって」

「……良かった」


 「辞めない」と自分で言って。何故辞めないのかと、一瞬の逡巡がある。

 言われてみれば、辞める、という選択肢はいつだってあるのだ。

 恐らく、まだその時では無いと思っているからだろう。何だかんだこの状況を面白いとも思っている自分も居るのだ。


「先輩? もう十分なので手を退けては貰えないですかね?」

「それはダメだよ。気を喪っちゃったのは本当なんだから、しばらく安静にしてなくちゃいけないよ」


 いえ、失神はこの場合立ち眩みの強化版なので。横になるだけでなく頭を下に、足を高くあげるべきなのですが。

 頭でそう思っても、口にはしないことにした。

 ちょっとやりすぎとは思うけれど、眼の前の夏菜子先輩の、幽子部長への想いと俺の体調を心配してくれているのは本当の様だったから。

 ドラゴンさえ絡まなければ本当にいい人なんだけどなぁ。

 そうしてもうしばらく、俺はこの至福の感触に身を委ねるのだった。

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