第12話 精霊は黒猫の姿で

 ——私とトリアージェがソレエスピアージャの離宮に来て一年が経った。


 二歳を迎えたばかりの身体は、まだまだ頼りないけれど。

 足取りはしっかりして、今では自室のテラスに出ることが日課になっている。


 そして、ある朝のこと。

 誰にも気付かれないように、今日も私は一人でテラスから抜け出して。

 庭園に続く石段を降りていくと、そこでちょこんと座る、一匹の黒猫と出会った。


 石段には、石の間を埋めるように白や黄色の小さな花々が咲いているのだけれど、それが黒い被毛と相性が良くて、その美しさを最大限に引き立てている。


 まるで一枚の絵のよう、良く聞く例えはここで使うべきなんだろう。

 そのくらい美しい光景だと思った。



「……あれ? こんなところにねこ? おはよう!!」



 おしゃべりも達者になった私は、元気に話しかけてみたけれど。

 その猫はまるで心の内でも観察するかのように、じっと私を見つめるだけだ。


 夜のように深い黒の皮毛と、金色の瞳。

 本当に、なんて美しい子なんだろう。



「……とってもきれいねぇ……。でもあなた、どこからきたの?」



そっと手を伸ばしてみても、黒猫は逃げもせず。

そのまま、私の肩に飛び乗った。

軽くて、温かくて、とっても心地の良い重みを感じる。



「にゃぁ〜」


「……ねこなのに、ぜっんぜん、けーかいしんないのね……」



 そう言いながら顎の辺りを撫でてやって、柔らかな皮毛の感触を楽しんだ時のことだった。突然に黒猫の体が光を帯びて、一瞬、空気が震えたような感覚になったのは。


 そうしてストンと私の肩から降りると、黒猫はこう言った。



「――にゃあ、じゃなくて、こんにちは」


「……え?」



 しゃがんでいた私は、驚いて立ち上がって。

 見下ろす頃には既に、猫の姿は溶けるようにして消えていくところだった。


 代わりに現れたのは、白い服をまとった青年。

 白いシャツに黒いズボンの青年が、私の目の前に立っていたのである。


 黒い髪、透き通るような金色の瞳は、姿を人間にしても変わらないけれど。

 その足は地に着いておらず、ふわりと宙に浮いている。



「はじめまして、アナスタシア。僕はアベル。風の精霊だよ。さっきまで猫だったの、僕だって分かるでしょ?」


「…………っ、え!? えぇぇぇぇーーーーっ!?」



 私の目はきっと、まん丸だったに違いない。

 あまりにも驚いて、自然と後ずさりしてしまったくらいだもの。


 そうしたら途端に足が石段とぶつかって、そのまま尻もちをついた。



「び、びっくりした……せーれい!? ねこ!? なんでねこだったの!?」


「だって、いきなり精霊として出ても怖がられると思ったからさ。猫ならほら『かわいい〜』って撫でてもらえるだろ? 案の定、大成功だったじゃないか。それにしても、そそっかしいな。大丈夫か?」


 そう言いながら差し伸べてくれた手は、意外と温かくて。

 精霊に体温があるなんて知らなかった私は、それにもまた驚いた。



「う、うぅ……ずるい……ずるいわよ!」



 アベルはくすくすと笑いながら、空中でくるりと回る。

 手足が長くて、まるでバレリーナのようだ。

 美しい猫——いや少年?か。



「それにさ、理由だってちゃんとあるんだ。君は異世界から転生してきた上に『未来から死に戻った』……けっこう特別な記憶を持っているだろう? それはまさに、特別な力と契約した証だ。だから、僕がこうして姿を見せられるってわけ」


「え、けーやく……? せーれいと?」


「うん、そう。君の願い『未来を変えたい』って気持ちが強くてね。それに応じるかたちで、僕が『主』を選んだんだ。それが、君だ」



 私はしばらくの間、無言で考え込んだけれど。

 やがて口をついたのは、いたってシンプルな疑問だった。



「……じゃあ、あなたが……わたしに『やりなおすチャンス』をくれたってこと?」


「そうだよ。君には、未来と過去を行き来する力がある……時間を渡る力だ。ただしその力を正しく使うには、僕と一緒に生きていく覚悟が必要でね。君は未来を変えるための『鍵』の役割を果たすことになる」



 アベルは真剣な眼差しで、二歳の私を見つめた。

 ウサギのぬいぐるみを抱えた私は、彼からどう見えていただろう。



「ねえ、アナスタシア。念のため聞かせてもらうよ。君は今でも本当に『あの未来』を変えたいと思っている?」



 その言葉に、私はほんの少し恐怖を思い出した。

 処刑台、夫の裏切り、自分の体から流れる血、群衆の怒号。

 そして――とどめに突きつけられた、夫である皇帝の冷たい目。


 それを思い出しただけで、ぎゅっと唇を噛みしめてしまう。

 思いのほか強く噛んだせいで唇が切れて、口の中に血の味が広がったくらい。


 そうして私は、小さいけれどはっきりとした声で答えた。



「……もちろん、かえたいわ。いきたい!!……たいせつなひとたち、ぜったいにまもるの」


「よろしい、いい返事だ。じゃあ、正式に始めよう」



 アベルが手をかざすと、足元からすーっと風が巻き起こる。

 花びらが空に舞って、私の小さな左手の甲にうっすらと刻印が浮かび上がった。

 それは精霊との契約の証。



「さぁて、これで契約は完了だよ、ご主人様! 今日から僕は君のそばを離れない。覚悟はいいかな?」



 私は自分の手の甲を、じっと見つめた。

 その隣には黒猫の姿に戻ったアベルがいて、くるんとしっぽを巻いてぴたりと私に寄り添う姿は、なんと愛らしいことか。



「……またねこになるのね?」


「うん。この姿、けっこう便利なんだよね」


「……へんなせーれいね。……でも、ありがとう!」



 私が小さな声でそう告げたとき、風がまた優しく吹いた。

 足元でくるりと、ふわりと回るように吹いた風——これもアベルの力かしら。



 そうしてひととき石段に腰を下ろして休むと、ガチャリと僅かな音が響いて。静かに、だが警戒を込めた表情で現れたのは、眼光鋭い一人の騎士だった。その手は、そっと剣に添えられている。

 


「殿下、朝の大切なお時間に失礼いたします。声がしたようですが……」



 私の護衛騎士、レイモンド・ハーフォースだ。

 今朝の出立ちは、柔らかいベージュのリネンシャツにダークブランのスラックス。艶のある黒髪にとても良く似合っていて、いつもどおり上品な仕上がりである。——そして今日も顔がいい。



「……アベル、レイモンドにもみえてるの?」


「今は見えてないよ。僕は君とだけ話せる存在だから。彼は君の護衛騎士だろう?……でも彼は、これから君の運命を共に変えていく男。けっこうな重要人物だよ」


 

 私は改めて、レイモンドを見つめた。

 たしか、小説には出てこなくて——私には分からないけれど。

 前世のアナスタシアの人生、彼はその世界でも彼女のそばにいたのだろうか。



「……レイ、おはよう。なんでもない、ひとりごとよ。……これからいっぱいたいへんかもしれないけど……ずっと、そばにいてくれる?」



 幼い声で不安げに呟く私に、レイモンドは少しだけ目を細めて。

 何かを察したかのように、迷いなく片膝をついた。

 そうして頭を垂れると、こう返してくれたのだった。



「騎士レイモンド・ハーフォース、命尽きる最期の時までアナスタシア殿下にお仕えすることを誓います」



 そうだった、彼はただの騎士じゃないんだ。

 人の内側を一瞬で見抜ける、類稀なる能力の持ち主だと教えられたではないか。

  


 ──まだ幼い姫と、その姫と契約を結んだ者たち。

 未来を変えるための物語が、こうして今日もまた動き出したのである。




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◯ アナスタシア・ミカ・ルヴェルディ

ルヴェルディ帝国の皇女

双子の妹トリアージェとともに離宮で暮らしている

転生者


◯ アベル

アナスタシアの守護精霊で『風』を司る

黒猫と人間の姿、気分と状況に応じて使い分け


○ レイモンド・ハーフォース

アナスタシアの護衛騎士

青みを帯びた黒髪と琥珀色の瞳を持つ美丈夫。

並はずれた戦闘力に加え、『記憶転写』『精霊通信』の使い手でもある


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