殺し屋ハニー

森野きの子

第1話

 ――あ、死んだ。

 男が呻き声をあげた瞬間、梨花は思った。その刹那、汗ばんだ裸体が倒れ込んできて彼女はそれを受けとめる。短く荒い呼吸を繰り返し、上下する濡れた肩を手のひらで撫でながら、真夏の夕方の通り雨を思い出す。男が体内から抜け落ちたのを感じる。

 薄い膜の中に彼の個人情報の極みであろう遺伝子達が溜まっているのを思うと、迂闊だなぁと胸の裡がじんわりと温くなる。

 オルガスムスは小さな死だと何処かで聞いた。たった今彼は死に、自分はまた生き残った。結婚はしていないので、未亡人とは呼べないだろう。

「何笑ってるの」

 吐息の合間に不思議そうな男の声。

「あたしって不死身だわと思って」

「どういうこと?」

「教えない。それより、ちゃんとあたしで気持ちよくなったんだね」

「うん。りりさんは?」

「すごく気持ち良かった」

 男は顔を上げ、梨花を覗き込むと、ふにゃりと微笑んだ。通常時から困り顔で笑っているような、微笑みながら泣いているような頼りない表情をしている。笑うと陽だまりの中にいるような気にさせる。

「あ。窓開けっぱなしだった。あたしの声大丈夫かな」

「りりさんくらいの声だったら大丈夫だよ」

 迂闊だなぁ。梨花は少し呆れた。目の前の女に、比べる相手を匂わせたことにも気づいていない。

「なら、いいか」

 梨花は男の柔らかな髪を撫でた。ふさふさというより、ふわふわしている。一本一本はしっかりしているけれど、彼の持つ雰囲気と相まって、ふわふわという方がしっくりくる。

 甘えん坊の仔犬のように彼は梨花の胸に頬を押し当てる。


 あの時、雨に降られた白いシャツが火照った肌にはりついて熱を奪っていった。

 梨花の手は血まみれで、何度も突き刺した包丁のせいで傷だらけだった。男を殺したのは、それが初めてだった。


 

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殺し屋ハニー 森野きの子 @115ma

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