第8話 日常の亀裂、古の囁き

体が水に浮かぶようにフワフワと浮遊する心地よい夢から、意識がゆっくりと浮上した。


瞼の裏に、無数の星屑が弾けるような光景が残っていた。それは、夢の中で臣と対峙した時の記憶。そして、あの廊下で突然現れた「迷路」の異変。星宮ほしみやさららは、あれが夢ではなかったことを、ぼんやりとした頭の奥で確信していた。


ただ、その後、何があったのかははっきりしない。気づけば保健室のベッドに横たわっていて、家族に迎えに来られただけだ。手に入れたヒントは、曖昧な言葉の断片ばかりで、今はまだ、それをどういうことなのか全く分からなかった。


翌日、さららはさすがに学校を休んだ。

まだ頭の奥に微かな痺れが残っていたし、何よりも、自分の身に起きた得体のしれない出来事を消化しきれていなかったのだ。

しかし、二日後には、普段通りの制服に袖を通し、学校へと向かった。


教室のドアを開けると、そこにはいつもの賑やかな朝の光景が広がっていた。親友の雪音や、いつも一緒に馬鹿話をしている友人たちが、笑顔でさららを迎え入れた。


「さららちゃん、おはよう!」

「遅刻かと思ったー!」

「ってか、聞いてよ〜」


普段と変わらない、他愛のない会話。

休んでいる間にも、チャットアプリにはいくつかの「大丈夫?」という心配のメッセージが届いていた。だが、今、目の前で繰り広げられる友人たちのいつも通りの振る舞いが、さららにはありがたかった。

誰も、自分が倒れたことに深く触れてこない。

あの「迷路」の異変についてもそうだ。

隣のクラスの生徒たちが、廊下が突然迷路になったと口々に話している。だが、周囲の生徒や教師たちは、それを「なんか、あの子たち、変なこと言ってるよね」という程度の、一笑に付す怪談話として扱っていた。

生徒達が気がついた時にはさららが目の前で倒れたという事実が、あまりにもショッキングすぎたためか、その怪奇現象の話題性すら、ほとんどかき消されていた。さららは、それが、ある意味で自分にとって都合が良いことだと、本能的に理解していた。誰にも理解されない秘密を抱え込む孤独と、それを隠し通せる安堵が、胸の内で複雑に絡み合う。


朝のホームルームが始まり、担任教師の声が教室に響く。さららはふと、とある席に目を向けた。そこには、りつの姿はいつものようにある。だが、その隣にあるはずの、奏雨そうの姿はなかった。一昨日、自分が保健室に運ばれてから、一度も彼の顔を見ていない。


一限目の授業が始まるまでの短い休み時間。

さららは、ノートを広げている律にそっと話しかけた。


「ねぇ、律くん。奏雨くん、どうしたの? 今日、学校来てないみたいだけど……」


律はさららの声に、表情をわずかに曇らせた。


「ああ、奏雨のこと?星宮が倒れた日から、ずっと学校来てない。」


律の言葉に、さららの胸に小さなしこりが生まれた。自分が倒れた日を境に、奏雨が学校に来ていない。まるで、彼の行動が自分の異変と繋がっているかのように思えて、不安が募る。


「何回かチャット送ってるんだけど、返信もない。」

律は心配そうな顔で続けた。律ですら連絡が取れない。さららの不安はさらに大きくなった。

「お前には返信来てたりしねーのかよ?」


律の問いかけに、さららは首を横に振る。


「私からもいくつか送ってみたんだけど……既読にもなってないみたい。ずっと未読のまま。」


律の表情が、さらに深く沈む。

さららの胸には、昨日保健室で養護教諭から聞いた言葉が蘇った。

「奏雨さんがそばにいたのね」「ひどく落ち込んだ様子だった」。

突然倒れた姿を見せてしまったことで、彼を困惑させているのは間違いない。

だが、なぜ連絡を返さないのだろう。

なぜ、私を避けるのだろう。

さららの心には、拭えないもやもやとした感情が広がっていった。


そんな思考の渦中、ガラガラと教室の扉が開く音がした。歴史学の教師が、厚い本を抱えて入ってきた。時計の針が、授業開始を告げる。さららは慌てて思考を打ち切り、自席に戻り、教科書を開いた。


「よし、じゃあ今日は、人類の歴史について講義を始めようか。」


教師の声は、いつもと同じく抑揚がなく、まるで物語でも読み聞かせるかのようだった。


「人類の成り立ち、そしてそこから派生した現代にある複数の宗教の成り立ちについて、今回は見ていこう。」


黒板に、年表のようなものが書き出される。さららはペンを握り、ノートに板書を写しながら、どこか遠い世界の物語を聞いているような感覚だった。


「この世界の遥か昔、数千年前までの書物には、現代の常識では考えられないような、ファンタジー要素で溢れた記述が残されている。空を舞う者、大地を揺るがす者、癒しの光を放つ者……そういった存在が、ごく当たり前のように描かれているんだ。」


教師は一呼吸置き、さらに続けた。


「だが、ある時期を境に、その記述は途絶える。そして、より現代の人類に近い、何も特別な能力を持たない人間が突如として現れたとされている。とある宗教の聖書には、この能力を持たない人物が、自らを『この世界に転生してきたものだ』と名乗ったため、彼らを『転生者』と呼んでいる。」


さららのペンが、ぴたりと止まった。


「この転生者なる人物は、何一つ特別な能力を持たない身でありながら、当時の波乱に満ちた時代において、その知恵と行動力、そしてカリスマ性によって民衆を導き、最終的にこの世界に平和を訪れさせたとされている。人々は彼を救世主として崇め、彼の言葉がやがて宗教の教義となっていった。そして、平和が訪れた後、人々はもはや争いのための特別な能力を必要としなくなった。その結果、能力が徐々に退化していき、転生者の血縁が増えていったことで、現代の『能力を持たない人間』、つまり我々が作り出されてきたのだと、その聖書には記されている。」


教師は一度言葉を区切り、教卓に置かれた本に視線を落とした。


「さて、ここまで話してきたが、現代の研究では、昔の人はファンタジー的な物語を創作し、それを読むことを娯楽としていたという解釈が一般的だ。そのため、そういった書物が多数残ってしまっている。だから、この『転生者』だとか、『能力の退化』だとかいう話は、深く気にする必要はない。単に、昔そういった物語が作られていたのだと認識しておいてくれれば十分だ。ここまでで質問あるか?無ければ続けるぞ」


教師の言葉は、淡々としたものだったが、さららの心には奇妙な残響を残した。

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