第4話 交錯する視線と、予期せぬ再会

翌朝、奏雨そうはいつも通りの時間に目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの澱んだ空気とは異なり、どこか清々しく感じられる。

温室での出来事が、彼の心に微かな高揚感をもたらしていた。

彼の「無音」の世界に響いた、さららの「零れ星の音」。そして、その音を道しるべに、二人が協力して肖像画の異変を解決したこと。

それは、奏雨にとって人生で初めての、誰かの役に立てたという確かな手応えだった。



身支度を整え、リビングへ向かうと、奏雨はエプロンを手に取った。今日の朝食は自分の担当だ。手際よく炊飯器からごはんをよそい、味噌汁を温め、フライパンで卵焼きを焼き始める。ジュウ、と油の弾ける感覚が微かに伝わってくる。


その時、寝室の扉が開き、兄のあさひ欠伸あくびをしながら現れた。


「おはよ、奏雨。朝ごはん何?」


旭の声が、奏雨の口の動きから伝わる。奏雨はフライパンから目を離し、手話で答えた。


「《ごはん、味噌汁、たまごやき》」


「《和ですね〜》」


「《和ですよ〜》」


旭はそう言って、椅子に座った。

奏雨は皿に卵焼きを盛り付けながら、兄を見る。その時、奏雨の耳に、ごく微かにだが、**旭から発せられるような、暖かく、包み込むような「音」**が聞こえた気がした。

それは、さららの「零れ星の音」とは全く異なる、暖かい陽射しのような、穏やかで広がるような響きだった。しかし、すぐにその音は消えてしまった。


(また、だ……。気のせいか?それとも、俺の耳が、また何か変な音を拾い始めたのか?)


奏雨は、兄の顔を見つめたが、旭はただテレビから流れるニュース番組をぼんやりと眺めているだけだった。

最近聞こえる「チリチリとした音」に加え、兄から感じたこの「音」。彼の世界は、静かなまま、少しずつ変化を始めているような気がした。



登校中、奏雨はりつの隣を歩いていた。律はいつも通り、どこか気だるげな雰囲気をまとっている。しかし、今朝の彼の視線は、いつもより頻繁に奏雨へと向けられているように感じられた。


教室に着き、席に着くと、律がいつものように端末を差し出してきた。しかし、そこに表示されたのは、授業の内容ではなく、彼からのメッセージだった。


『昨日、部活の帰り道、お前が女子と話してるところを見た。なんかあったか?』


奏雨は一瞬、心臓が跳ねた。

律が見ていた。

肖像画の前での立ち話だと思われる。

咄嗟に何か言い繕おうかと思ったが、律の鋭い視線に、それは無駄だと悟る。

魔法の事だけ言わなければいい。


『ああ、星宮さんと話してた』


奏雨はあっさりと打ち明けた。律は奏雨のメッセージを読み取ると、わずかに眉をひそめた。


『星宮?あの星宮か?』


律の視線が、教室の隅にいる女子グループへと向けられる。奏雨もつられて、さららの方へと視線を向けた。その先にいたのは、星宮さららだった。さららは、いつものように友人たちと楽しそうに談笑しており、奏雨の耳には、彼女が魔法を使っていないため、「零れ星の音」は聞こえない。


さららは、友人との会話中にふと律と奏雨の視線に気づいた。彼女は友人たちとの会話をそこそこに終えると、こちらに歩み寄ってきた。


「おはよう〜!」

さららは、にこやかにそう口の動きで挨拶をした。律は軽く頭を下げて応じたが、その表情は相変わらず無表情のままだ。奏雨は端末をさららに差し出した。


『おはよう、星宮さん。』


『律くん、奏雨くんといつも一緒にいるよね。』


律は腕組みをしたまま、ちらりとさららを見て、短く口の動きで答えた。


「俺がコイツのパソコンテイクしてるから」


さららは少し首を傾げた。


『パソコンテイク?』


奏雨は、さららの言葉を読み取ると、端末に素早く打ち込む。


『俺、耳が不自由だから、律が授業の内容をパソコンで入力してくれてるんだ。』


さららは「なるほど」と口の動きで頷いた。その表情には、納得と、少しの驚きが混じっているように見えた。


『そういえばさっき、二人から視線感じたんだけど、何かあった?』


さららが問いかけると、律は一瞬、わずかに視線を泳がせた。しかしすぐに無表情に戻り、短く口の動きで答えた。


「別に。気のせいだろ」


彼の返答は突き放すようで、会話を終わらせようとしているのが見て取れた。奏雨は、そんな律の態度に、少しだけ気まずさを覚える。


『そっか!』


さららはそれ以上深追いはせず、ふっと小さく笑って端末を奏雨に返した。


「あ、先生来たね。」


さららはそう言って、軽く手を振って自分の席へと戻っていった。彼女の背中を見送りながら、奏雨は律へと視線を向けた。律は、さららが去った後も、何も言わずに無表情でいる。


『律、星宮さんと仲悪かったりする?』


奏雨は端末に打ち込み、律に差し出した。律は奏雨のメッセージを読み取ると、少しだけ目を伏せた。


『別に仲が悪いわけじゃない。

悪い奴じゃないってことは知ってる。』


律の返信に、奏雨は首を傾げた。「悪い奴じゃない」という言葉は、さららを評価しているようにも聞こえるが、その後の言葉が続かない。


『じゃあ、なんで……?』


奏雨が尋ねると、律は小さく息を吐いた。


『申し訳ないけどなんとなく、好かねえんだよ。

あいつの周りは、いつもキラキラしてて、眩しいからな。』


律はそう言って、再び端末を授業のノートテイク画面に切り替えた。その横顔には、どこか複雑な感情が滲んでいるように見えた。

奏雨は、律の言葉の真意を測りかねながらも、彼の言う「キラキラ」という言葉が、さららの「零れ星の音」を指しているのかもしれないと、漠然と感じた。律は、さららの魔力、あるいはその影響を、彼なりの感覚で捉えているのだろうか。奏雨にそれは分からなかった。


その日の昼休み。

奏雨はいつも通りの賑やかな喧騒の中で、律と一緒に購買でパンを買っていた。パンを買い、校舎玄関の近くを通り、教室へ戻ろうとしたその時、奏雨の耳に、あの**「チリチリとした音」**が響いてきた。

それは、昨日までの肖像画の周りで聞いた音よりも、もっと広範囲から、そして不規則に聞こえてくる。まるで、校舎全体が微かに震えているかのような、不穏な響きだった。


あたりを見回しても、昨日の肖像画のように目に見える異変はない。生徒たちは皆、楽しそうに昼食をとっており、異変に気づいている様子はない。しかし、奏雨の五感だけが、その不穏な響きを拾っていた。




放課後、奏雨が下駄箱で靴を履き替えていると、さららが近寄ってきた。


「奏雨くん、一緒に帰らない?」


さららが口の動きで尋ねる。奏雨は頷き、二人で校舎を出た。その様子を、部活前の律が、校舎の窓から見下ろしていた。

彼の無表情な顔には、微かな探究心が浮かんでいるようだった。


帰り道、さららが少し深刻な面持ちで端末に打ち込んだ。


「ねえ、奏雨くん。昨日ね、吹奏楽部の友達が変なこと言ってたの。音楽室での練習が終わって玄関まで帰る時、いつも通りの道なのに、なかなか辿りつかなかったんだって。まるで迷路にいるみたいだったって」


さららの言葉に、奏雨ははっとした。


『俺も今日、昼休み、校舎の玄関あたりでチリチリする音を感じた。』


奏雨が打ち込むと、さららは驚いたように目を見開いた。


「やっぱり!私だけじゃなかったんだ。もしかしたら、また誰かの魔法なのかな……。」


彼女の表情には、不安と、事態の深刻さへの認識が入り混じっていた。


『明日の早朝、二人で行ってみようか。

噂のあった音楽室から玄関までの道を。』


奏雨が提案すると、さららは目を見開いた後、力強く頷いた。


「うん!奏雨くんがいてくれたら、心強いよ!」


その日の夜、奏雨はほとんど眠れなかった。「チリチリ」とした不穏な音と、明日起こるかもしれない異変への期待と緊張が、彼の胸の内を占めていた。


翌日、まだ夜が明けてわずかな時間しか経過していないひんやりとした空気を纏う学園に、奏雨とさららは足を踏み入れた。二人で校舎に入り、噂のあった音楽室へと向かう。廊下を進み、音楽室の扉を開ける。誰もいない室内は静まり返っていた。


「ここから玄関の間で現象が起きたってことだよね。行ってみようか。」


さららが口の動きでそう言うと、二人は音楽室を出て、玄関へと続く廊下を歩き始めた。一歩、また一歩と進むごとに、奏雨の耳に響く**「チリチリとした音」が、徐々に、しかし確実に大きくなっていく。** 音は単調なノイズではなく、まるで迷路の壁が動くかのような、不規則なざわめきを含んでいた。


しばらく歩くうちに、異変は始まった。


「あれ……?ここ、さっき通った場所じゃない?」


さららが不安げに口の動きで呟く。奏雨も同じことを感じていた。普段ならすぐに突き当たるはずの廊下が、どこまでも続いている。見慣れたはずの教室の扉が、左右で入れ替わっているようにも見える。奏雨の耳には、「チリチリ」という音が、まるで空間そのものが軋むかのように、全身を包み込むほど強くなっていた。


『迷路に、巻き込まれた……!』


奏雨が端末に打ち込むと、さららは大きく頷いた。


「どうしよう……。魔法で道を直せないかな?」


さららがそう言うと、彼女の周りに「零れ星の音」がきらめいた。彼女は道に魔法をかけようと手をかざすが、空間はねじれたままだ。奏雨には、その「零れ星の音」が、普段よりも不安定で、どこか焦りを帯びているように聞こえた。


「ダメだ……!効かない……」


さららの表情に、絶望が浮かぶ。彼女の「零れ星の音」は、焦燥と共にさらに乱れていく。奏雨も、焦燥感に駆られながら、それでも冷静に周囲の「音」に耳を澄ませた。廊下を進んでも進んでも、風景は同じようなものばかりで、出口が見えない。


どれほどの時間が経っただろうか。二人が諦めかけたその時、突然、視界が開けた。


「……玄関だ!」


さららが叫んだ。目の前には、見慣れた学園の玄関があった。二人は、いつの間にか迷路から抜け出していたのだ。外からは、すでに朝の授業のチャイムが鳴り響く音が聞こえてくる。


『遅刻だ!』


奏雨が打ち込むと、さららも慌てて頷いた。


「急いで行こう!」


二人は息を切らしながら教室へ向かった。教室の扉を開けると、すでに朝のホームルームが始まっていた。教師とクラスメイトたちの視線が一斉に二人へと注がれる。奏雨とさららは、ばつが悪そうにぺこりと頭を下げた。


「おい、遅刻だぞ」


教師の声が響く。


さららが「ごめんなさい!」と頭を下げた。

それにつられて奏雨も頭を下げる。

教師は呆れたようにため息をつくと、「早く席につけ」と促した。


二人はそそくさと自分の席に着いた。

するとすぐに律は端末で『どうした?何かあったか?』と打ってある画面を差し出してきた。

奏雨は端末に『寝坊した』とだけ入力する。

律は、奏雨のメッセージを読み取った後、何の言葉も打たずに、ただじっと奏雨を見つめてきた。その瞳の奥には、わずかな不機嫌さと、複雑な感情が入り混じっているのが見て取れた。


実は律は、奏雨の兄である旭の連絡先を知っている。朝のホームルームが始まるまでに来ない時点で休みかと思い連絡していたのだ。しかし、旭からの返信は「今朝は早くに出ていった」というものだった。その情報と、奏雨が今「寝坊した」と嘘をついていること。そして、星宮さららと全く同じタイミングで、息を切らして教室に入ってきたこと。


律の心の中では、様々な情報が瞬時に結びつき、ある疑惑が生まれていた。奏雨が嘘をついていることへの不信感、心配していたことへの安堵と苛立ち、そして何よりも、星宮さららと二人で何かに巻き込まれているのではないかという疑念。彼の表情には出ないが、その内心の波立ちが、奏雨には僅かに感じ取れた。しかし、律はそれ以上深くは聞かず、無言でノートテイクを始める。


律の鋭い視線が背中に刺さるのを感じながら、奏雨は迷路で感じた「チリチリとした音」と、さららの焦燥に揺れた「零れ星の音」を思い出していた。

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