第2話 兄と友、そして音の記憶
翌朝、
昨日の出来事が、まだ瞼の裏に焼き付いている。
さららの魔法が生み出した、あの鮮やかな音。
もしかしたら、その奇跡が、自分の世界に少しでも変化をもたらしたのではないか
――淡い期待が胸に膨らむ。
ベッドの上で静かに耳を澄ませる。
だが、聞こえてくるのは変わらず、深淵のような静寂だけだった。
窓の外から聞こえるはずの鳥のさえずりも、遠くの街の喧騒も、何も届かない。
「……そうだよな」
小さく、誰に聞かせるでもない独り言を呟く。
自身の声もぼんやりとしか認識できない。
がっかりする気持ちを小さく押し込め、奏雨は枕元に置いていた小さな聴覚補助の器具を耳につけた。
外界との細い糸のような繋がりを、そっと装着する。
腹の虫がくぅ、と鳴いた。
お腹をかきながら寝室を出て、キッチンへ向かう。
朝食の香ばしい匂いが、嗅覚を通して食欲を刺激した。
キッチンには、すでに兄の
朝日色の髪は柔らかく、穏やかな笑みを浮かべた顔は、奏雨とよく似ているけれど、彼にはない活動的な印象を与える。
年齢相応の引き締まった体つきは、日ごろから体を動かしていることを物語っていた。
「おはよ、奏雨」
旭は、手元でパンを焼きながら、奏雨に気づくとにこやかに手話で話しかけてくる。
「父さんと母さんもう行ったぞ。帰りも遅いってさ」
奏雨も手話で応じる。
「うん。分かった。」
旭は皿にパンと目玉焼きを乗せて、奏雨の前に差し出した。
その手つきは優しく、いつも奏雨を気遣っているのが分かる。
奏雨が席に着き、もそもそと食べ始めると、旭はふと、何かを察したように首を傾げた。
彼の視線が、奏雨の顔に注がれる。
兄は昔から、奏雨の些細な変化にもすぐに気づく、感の鋭い人だった。
「何かあったか?」
手話で問われ、奏雨は一瞬、昨日のさららの顔を思い出した。
――魔法の光
――魔法の音
――そして秘密の約束
それらを兄に話すことはできない。
「何もない」
奏雨はそう答えると、視線をパンに戻した。
旭は弟の言葉をすぐに信じたわけではなさそうだったが、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、奏雨の頭をぽん、と軽く叩いた。
奏雨が学園へ向かうため玄関を出た後、旭は
「……絶対何かあったな、あいつ」
そう独り言を呟いた。
学園に着くと、すでに教室には
彼は普段通り、机に伏せて眠っているようだった。近づいて荷物を置くと、人が来た気配で起きた。
「おはよ」
奏雨が身振りで挨拶すると、律はちらりと視線を向け、小さく顎を動かした。
それが彼なりの返事だ。
奏雨が席に着くと、律はいつも通り、何の脈絡もなく端末のキーボードを叩き始めた。
『今日の物理の授業、講義より問題を解くのがメインらしい。いつもどおり開始と終了のタイミング伝えるのでいいか?』
奏雨がコクリと頷くと、律は無表情のまま、「りょうかい」と呟いた。
彼とのこういうやり取りは、奏雨にとって日常の一部だった。
言葉の壁があるからこそ、律のぶっきらぼうな優しさが、より一層心に沁みる。
一限目の授業が終わり、移動教室のため廊下を歩いていると、少し先の広場で賑やかそうな集団が見えた。
女子生徒たちが数人集まって、楽しそうに笑い合っている。
その中心に、
彼女は、昨日出会っときの不安げな表情とは打って変わって、級友と楽しそうに談笑しているようだった。
弾けるような笑顔は、まるで太陽の光を浴びた花のように輝いて見えた。
昨日まで、さららは奏雨にとって、街を行き交う大勢の「他人」の一人に過ぎなかった。
姿かたちも、名前も、彼の中には存在しなかった。
だが、今は違う。彼女がそこにいるだけで、奏雨の目は自然と彼女を捉える。
『今まで認識してなかったのに、昨日関わっただけで他人じゃなくなって認識できるようになるなんてな……』
奏雨は、ふとそんなことを思った。
まるで、今まで霞んで見えていた世界に、突如として鮮やかな色が加わったかのような感覚だった。
周囲の生徒たちが楽しそうに雑談している様子は、彼にとって常に羨望の対象だった。
彼らが交わす言葉は聞こえない。
彼らが共有する「音」と「空気」は、奏雨には届かない、何かしらの温かい繋がりがあるように思えた。
そんな奏雨の隣で、
画面をちらりと覗くと、誰かからのメッセージが表示されているのが見えた。
律はメッセージを読み終えると、小さく息を吐き出し、眉間に微かに皺を寄せた。
その表情は「またか」とでも言いたげで、どこか呆れているようだった。律は端末をポケットにしまい、奏雨の方へ顔を向けた。
律は、奏雨が相変わらず女子生徒たちの集まりを眺めていることに気づくと、奏雨の顔の前で手をひらひらとした。
「おい、奏雨。」
奏雨が律の方を見た。
「おまえ今日の昼飯、どうする?」
律の声は、奏雨の耳にはぼんやりとしか届かない。
だが、彼の口の動きははっきりと読み取れる。
律の意図は、奏雨の視線を自分に引き戻し、さっきまでの羨ましげな感情から、彼を解放しようとしているのだと伝わってきた。
奏雨は律を見て、小さく微笑んだ。
端末を出して手早く文字を打ち込む。
『どうするって、いつも通りだろ』
律は無表情のまま、「それもそうか」と呟いた。そして、不意に奏雨の肩を小突いた。
『この前、商店街で新しいパン屋ができたらしいぞ。美味いって評判らしい』
律が奏雨の端末に打ち込む。
奏雨は目を瞬かせた。
律がこういう情報を口にするのは珍しい。
『へえ、本当?』
『ああ。スイーツパンが美味いらしい。……お前、甘いもの好きだろ。』
律はそう言って、わずかに口角を上げたように見えた。
それは、彼にしては珍しい、はっきりとした表情の変化だった。
奏雨の頬に、温かい血が上るのを感じた。
「行ってみようか」
奏雨が手話で答えると、律は無言で頷いた。
言葉は少なくとも、確かに通じ合っている。
奏雨の心に、ささやかな温かさが広がっていった。
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