中編①
◆
「それにしても随分と広いですね」
エトが部屋を見回しながら感嘆の声を漏らす。
女性はエトに言われるまま自分が最初にいた部屋を案内していた。と言っても数分ほどその場にいただけだったせいで、立ち位置とその後の行動を伝えるくらいしかやることがなく、エトは早々に部屋の中を物色し始めた。
「この中の物、全部売ったらいくらになるんでしょうね」
「さぁ……」
「うわ! 見てください、これなんて今ではもう非売品になってるアナログ時計ですよ」
ガラスケースの中で整然と並べられた腕時計たちを指さしながら、エトが目を輝かせる。
ケースの前で身を寄せ合いながら、二人は対照的な表情を浮かべていた。
「すごくカッコイイですよね、この革の感じとか」
「はあ……」
女性は時計にあまり興味がないのか、気の抜けた声で返事をした。
エトは急に恥ずかしくなってガラスケースから顔を放し、わざとらしく咳払いした。
「そ、そういえば、この部屋に並べられている写真どれも古そうですね」
「え?……ああ、確かに」
エトに言われて女性はもう一度写真を眺めた。写真はモノクロだったりカラーだったり、色んな年代の物が飾ってあるようだった。
「最近じゃ現像する人も少ないのでお目にかかれませんよねぇ」
「そうですね、データ管理する人が多いですから」
そう呟きながら、女性はそれを一つ手に取った。
写真立てに入れられ、一枚一枚、大事に管理されていることがわかる。棚の中にもアルバムが大量に詰め込まれていることから、この家の住人は写真が好きだったのだと女性にも推察できた。
どれも初めて見るものばかりなのに、妙に懐かしさを感じる。どうしてなんだろう、と女性が考え込んでいると、エトが「ここにあるもので、見覚えのあるものはないんですか?」と聞いてきた。
女性は確かに“写真”というものに懐かしさは感じた。でも写真に写った人物にはどれも見覚えはなかった。
「いえ、特には……」
「そうですか。では他の場所も見てみましょう」
くるりと背を向け、部屋を出ようとするエトに女性は慌てて「あ、あの……」と声をかけた。
「本当に大丈夫なんですか? こんな、勝手に人の家を……」
「問題ありません、いきましょう」
ズンズンと進んでいくエトに流されるまま、二人は次に寝室と思しき部屋へ足を踏み入れた。
見たこともないサイズの天蓋付きベッドが当然のように鎮座している。サイドテーブルの上には飲みかけの水と薬がいくつか並べられていた。
「病気だったんですかね……」
女性は返事を待ったが、いつまでも沈黙が続いた。振り返ると、エトは棚の上の写真に見入っていた。
「ここにも写真が?」
「さっきの部屋より新しいものが多いみたいですね」
そう言われて女性が傍まで歩み寄ると、エトは「見てください」と写真を手渡した。
「これっ!」
その写真に写っていたのは、さっき鏡で見た女性の姿だった。
「な、何で……」
「単純に考えるなら、君はここの住人だったってことですかね」
「私が?」
「隣の男性に見覚えは?」
そう言われて女性はもう一度写真に目を移した。杖を持った四十代くらいの男性が一緒に写っている。二人とも笑顔で写っていることから、関係は良好そうに見えた。
記憶が何か戻ったわけじゃないけど、どことなく懐かしいような気がした。
「覚えは、ないです……。でも私、この人のこと、知っているような気がします」
「そうですか」
「この人、誰なんですか? エトさんはお知り合いとかじゃ……」
「ないですね、残念ながら」
バッサリと切り捨てられ、女性は分かりやすく肩を落とした。
謎が増えただけで状況は依然として最悪だ。他にも何かないかと女性は並べられた写真をくまなく見た。
けれど、自分が写っていた写真は一枚だけで、あとは見知らぬ女性や幼い子供ばかり。隣にいた男性もその中のいくつかに写っていた。
「この男性が屋敷の主だったんですかね……」
「間違いないと思いますよ」
「どうして断言できるんですか?」
「さっきの部屋の時計、裏にローマ字で“かずとし”という文字が刻まれてました。そしてこの写真立てにも」
エトは女性と男性が写っていた写真立てを裏返し、小さく書かれた文字を指さした。
そこには“
「アン……これが、私の名前?」
アン。
女性は名前を呟いた瞬間、胸の奥が不思議と温かくなった。
まるで、ようやく自分自身に戻れたような……そんな気がした。
「――――ン」
頭の奥で、誰かに呼ばれたような気がして、アンはゆっくりと目を閉じた。
砂嵐で途切れた映像がアンの頭の中に蘇る。淡いピンク色と、“和敏さん”という名前が浮かんだ。懐かしくて、胸が熱くなる。もっとちゃんと見たいのに、ジジジっとノイズ交じりに再生されるのがとてもじれったい。
思いださなきゃ――――ううん、思いだしたい。忘れたくない、とても大事なものだった。そんな気がする。
アンは目を凝らすように、意識を集中させた。
「アン」
今度は、はっきりと聞こえた。とても柔らかく温かな、男性の声だった。
――――和敏さん?
心の中でアンが名前を呼ぶと、桜の木を背景に目の前の男性がこちらへ振り向いた。ざあっと強い風が吹き、風に舞う桜も、麗らかな陽光も、すべてが鮮明に見えた。
「今年も、綺麗に咲いたね」
「はい、そうですね」
家の庭に咲いた、大きな桜の木の下。隣に並ぶ二人の頭上から、薄桃色の花びらが風に乗って雨のように降り注ぐ。隙間から溢れる日の光に目を細めながら、和敏が笑顔で言った。
「一緒に写真を撮らないか」
「私と、ですか?」
「当然だろう。ここには私とアン以外いないんだから……」
寂しそうな声がして、アンは慌てて何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。何を言っても、和敏の心を埋めることは、私にはできない。そう強く感じていたからだ。
カメラのレンズ越しに、顔を俯かせるアンに気づいた和敏は小さく笑った。
「アンは、桜が好きかい?」
「好き……かは、わかりません」
言語化できない思いに、アンは手探りで答えた。
「でも、和敏さんと一緒に見られるこの景色を……私は、とても美しいと感じます」
そう言って、掌に落ちた花びらをまるで宝物のように握り締めた。
アンはもうとっくに、この思いの正体に気づいていた。けれど、それを伝えるには、自分に足りないものが多すぎる。
――――だから、せめて和敏の傍で、共に一生を終えられたら。そう強く願っていた。
和敏は小さく頷くと、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「……そうか。私も好きだよ。この景色が、何よりも」
アンの思いと同じか、或いはそれよりも深く、和敏は“今”という時間を愛しく感じていた。
今までの不幸も幸せも、この時間の為にあったのかもしれない――――。そんな罰当たりな考えを持ってしまうほど、充実した日々だった。
和敏が脚立にカメラを設置し終え、アンの隣に並んだ。
「ありがとうな、アン」
「え……」
「君がいてくれて、本当によかった」
アンは「私のほうこそ」と返したかったが、溢れそうになる“何か”を押し留めることで精一杯だった。
カメラからピピピピピピっという音が響く。もうすぐシャッターが切れてしまう。
そうしたら、あなたにはもう――――。
再び、映像にノイズが走る。遠ざかっていく和敏の姿を見つめながら、アンは全てを悟った。そして心の中だけで「さようなら」と別れを告げた。
カシャっと最後に聞こえたシャッター音が虚しく耳に残る。
おもむろに目を開け、アンは隣を見上げた。全てを見透かしたように、エトが静かに見つめ返す。
「エトさん、私……」
自分が思いだした記憶をどう説明すればいいだろうか。
アンが言いよどんでいると、どこからかガラスの割れる音が響いた。
「なんですか、今の!」
動揺するアンに、エトは少しだけ険しい顔つきになった。
「何かが、起きたみたいですね」
エトは冷静なまま扉を振り返り、音のする方へ駆け出した。
何が起こっているのか状況がつかめないまま、アンも慌てて背中を追いかけた。
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