あくるひ
小宮雪末
プロローグ
。
夜勤帯の看護師に休まる時間はない。
特に認知症患者を受け入れるのに中途半端な設備しかない個人病院では、看護師らは普段以上に気を張りつめさせて、異常が起きていないか見て回る。
足元で光る非常口の案内板の明かりを頼りに、若い女性看護師が廊下を進んでいけば、先程センサーマットが反応した病室にたどり着き、一呼吸置いてから彼女はドアを軽くノックした。
相部屋だが居るのはひとり。
「加藤さん、起きてますか?」
分かりきった事を言いながら開けたスライドドアの向こうに、その患者は居た。
百歳を迎えたとは思えないほどしっかりとした足腰で、ベッド脇のマットの上に立ち尽くした老女は、明かりもつけずに虚ろな目で看護師を見つめ返している。
「どうされましたか? 御手洗ですか?」
じい、と黙りこくった老女を急かすことなく、看護師は傍らまで歩み寄り、ベッドに腰掛けるようそっと促すと、大人しく彼女は座った。そして
「ハサミちょうだい」
唐突にそんなことを言い出す患者に、すっと意識の端が冷えたのを看護師は感じた。つとめて優しく声をかけてやる。
「何に使われるんですか?」
「いいんよ、ハサミちょうだい」
「加藤さん、何を切りたいんですか?」
「……」
再び黙った患者に危機感を持った看護師は、今更ながらナース用のハサミをポケットに入れて来たことを後悔した。老女が俯きながら、濁りが入った目でしっかりとその方向を見ているのが分かったからだ。
「髪を、切るんよ」
皺で萎んだ口をぶるぶると震わせて、老女が呟く。
「髪? でも」
先日この患者は、出張の美容師に来てもらって、この白髪を頭の輪郭が分かるほどばっさりと切ってもらったばかりだ。
言い淀む隙をついて、老女は縋るように看護師の腕を掴んだ。
「お願い、ハサミちょうだいよ」
「でも加藤さん、髪の毛はほら、この前綺麗にして貰ったじゃないですか。どこか嫌でしたか?」
「髪を切らなきゃならんのよ、切らなきゃならんのよ」
咄嗟にハサミを庇うようにポケットを覆ったのと、老女の手が伸びたのは同時だった。
「ちょうだいよ、ハサミちょうだい!」
「加藤さん、待ってください。危ないですから」
言いながらナースコールを押す。腰にまとわりつかれながら、看護師はポケットの中身を死守した。あくまでも声は荒らげず、言い聞かせるようにするが、それでも患者は止まらない。半狂乱になりながら「ハサミをちょうだい」と繰り返す老女にいよいよ恐怖を覚えながら、看護師は再びナースコールを押した。
「誰か来て!」
「ちょうだい! ちょうだい!」
隣の病室からの物音に焦り、廊下からの誰かが駆けてくる音に安堵しながらも、看護師の手はじっとりと汗ばんでいた。
午前二時のことだった。
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