第40話 呪詛の絵馬(後編)

──夜明け前の神社は、凛とした冷気に包まれていた。


朝露に濡れる石段を、百合は一歩一歩登っていく。

その背には式具を納めた箱と、特別な「祈詞(いのりことば)」を記した巻物。

ふくまるが静かにその脇を歩き、神波は重装の結界具を背負って黙々と後を追った。


「この儀式は、少し変則的になるわ。“祓う”のではなく、“言葉を再び祈りに変える”。つまり“呪いを否定するんじゃなくて、包み直す”作業よ」


神波が頷く。


「だからこそ、対象は“人”じゃない。“場”そのものの浄化。社を“祈る場所”に戻すために、ここに“神が在る”と、もう一度“名乗らせる”必要がある」


ふくまるが尾を揺らす。


「にゃ、でも“神さま”が不在なら、“誰が祈りを受け取るのか”にゃ?」


百合が静かに答える。


「それは、“言葉そのもの”よ。私たちは、これから“願い”と“呪い”が混じった絵馬をすべて預かり、そこに“名をつける”。言葉は、名を与えられることで、“方向”を得るの。“彷徨う声”に“座”を作ってあげれば、それはまた祈りに戻るわ」




境内の絵馬掛けに吊るされた百枚を超える絵馬は、すべて慎重に取り外された。


百合は、呪言の強いものから順に並べ、ふくまるが“霊的濁度”を判別。

神波は、結界内にそれらを再配置し、霊的毒素を可視化していく。


「にゃ……これが、“視えるようにした絵馬”にゃ」


絵馬にはそれぞれ、“色”が現れた。


怒りの赤、妬みの紫、絶望の黒。

だが、一部には淡い緑や薄桃色も混ざっていた。


「……“呪いの言葉”に混ざって、“救われたい”って声がある」


神波が、小さな文字を指差す。


「お願い、誰か私の声に気づいて」

「死にたい。でも、まだ誰かに見ていてほしい」

「許されたい。過去の自分から」


「……“誰かを呪うことで自分を保っていた”人たちの、祈りの本音」


百合が、その絵馬の前で結印を結ぶ。


「ならば、これを“祈り”に返す。名を与えて、方向を定める」




百合は、すべての呪詛絵馬から抽出された“思念のエッセンス”を、ひとつの詞に編み直していく。


これは陰陽師にとって、極めて繊細かつ高度な作業だった。


「呪いを否定する言葉ではなく、“そうであっても祈る”言葉で綴る」


筆を走らせる百合の顔は、いつになく厳しかった。


「生まれた怒りは、私の弱さの証。それでも私は、もう一度誰かを信じてみたい」


「誰かを許せなかった日もあった。それでも私は、今日を祈ることを選ぶ」


神波がその詞を巻物に清書し、最終結印を施す。


「これが、“願いの器”を再び満たすための、“祈詞”だ」




社殿前に、全ての絵馬が浄化符と共に並べられた。


神波が五行印を組み、四方に灯火を灯す。


ふくまるが石段を駆け上がり、御神木に霊力を通す。


百合は、最後の結界内で静かに立ち、巻物を開いた。


「これより、“空位の座”に“祈りの名”を呼び戻す」


「ここに集いし声を、“迷い”とはせず、“願い”として名乗らせる」

「我らの祈りを映し、我らの涙を受け取る存在よ――」

「此処に、還れ」


その瞬間、社殿の屋根をなぞるように風が吹いた。


石段に、ぴしりと小さな音が走り、絵馬に光がともった。


百合の声が震えずに続く。


「これよりこの社は、“名もなき祈りの座”とする。願いを持ちて訪れし者の声を、否定せず、奪わず、ただ受け止める場所。その“形なき神”を、“祈られる器”として、ここに置く」


そして。


小さな鈴の音が――風もないのに――鳴った。


「……還った」


百合が、目を細めて呟いた。




数日後。


再び神社を訪れた平井源蔵は、静かに石段を上がっていた。


手には箒。口元には、どこか安心したような微笑み。


「……空気が違う。昔のように、“目を閉じても怖くない”」


百合は、社殿の前で静かに彼を迎えた。


「もう、あの絵馬の呪詛はありません。今あるのは、すべて“願い”として見える形に戻しました。“見てはいけないもの”ではなく、“向き合える言葉”に」


源蔵は深く頭を下げた。


「ありがとう……ワシは、あの社を見放したくなかった。でも……それを“抱えてくれる人”がいたことが、なによりの救いじゃ」


ふくまるが、いつもの調子で言った。


「にゃ、神さまは“誰かが見ている”限り、ちゃんと“神でいられる”にゃ」


神波が頷く。


「だからこそ、陰陽師が“見ていること”に意味があるんです」


百合は空を見上げた。


社殿の屋根をなぞるように、光が差していた。


「……願いは、いつも危うい。でも、それを“言葉にできる場”さえあれば、人は壊れない」

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