第35話 墨の鏡(後編)
病室の空気は、静かだった。
だが、静寂とは裏腹に、そこには確かに“何か”が存在していた。
眠る真帆の額にはうっすらと汗がにじみ、脈は正常だが夢の中で何かと格闘しているような苦悶の表情を浮かべていた。
百合は黒く塗りつぶされた手鏡――“願い鏡”を手に取り、深く呼吸を整えた。
「……いくわよ、ふくまる。結界内に潜って、“思念の源”をたぐる」
「にゃ。“精神界干渉術式”起動準備よしにゃ」
神波が結界の外で目を閉じ、結印を刻む。
「魂と願いの境を開く。我、見届け人としてここに在り。彼の者の内奥に触れし者に、現世への帰還の道あらんことを」
ふくまるが結界石を押さえ、百合の身体に光の揺らぎが宿る。
「――術式開始」
視界が白く染まり、百合の意識は、ふわりと“鏡の中”へと沈んでいった。
そこは、黒と白だけで塗られた、どこまでも続く回廊だった。
壁という壁に“鏡”が埋め込まれ、それぞれが異なる人物の“願いの瞬間”を映し出していた。
誰かが美しくなりたいと願う。
誰かが愛されたいと願う。
誰かが消えたいと願う。
それらは“呟かれ”、そして“墨で封じられていた”。
百合は、歩きながらひとつの鏡に手を触れる。
「もっと痩せたい……誰からも“いいね”って言われるくらいに」
声は真帆のものだった。
その瞬間、足元が崩れ、百合の身体は“次の層”へと引き込まれた。
そこは、“白い部屋”だった。
中央に一体の“人の形をした黒い影”が座っていた。
顔はなく、ただ“墨で塗られた輪郭”だけが存在し、声は存在しないのに、思考が直接頭に届いた。
『おまえは誰だ』
「高塚百合。陰陽師よ」
『なぜ来た』
「あなたに、“願いの仕組み”を返してもらうため」
『願いは欲望。望むから与える。対価を取るのは当然』
「あなたは“叶える存在”じゃない。“奪う存在”よ。人の願いを受け取って“叶えている”ように見せて、“代わりに人間らしさを削り取っている”」
影がゆらりと立ち上がる。
その身体は、墨を垂らしたように揺れ、口も目もないはずなのに、確かに“怒って”いた。
『人は願う。私は叶える。それのどこが悪い』
「“祈り”は、誰かと生きるためのもの。“呪い”は、誰かを捨てて進むもの。あなたは人々の“未来”を、短く、速く、“破壊的に”叶えているだけ。それは、“生きる”とは言えない」
影が近づいてくる。回廊の壁が歪み、無数の願いが叫び声に変わって割れていく。
『ならば試せ。私を否定するなら、“祈り”の力で、ここから彼女を連れ戻してみせよ』
百合は、ふっと息を吸った。
「祈りに必要なのは、力じゃない。“名を呼ぶ心”よ」
そして彼女は、強く、はっきりと叫んだ。
「――真帆さん!!あなたは“ここ”じゃなくて、“誰かの隣”に戻るのよ!」
音が走る。回廊が砕け、影が裂けた。
「あなたの願いは、誰かに見てもらいたかっただけ。“変わった私”じゃなくて、“変わろうとする私”を」
回廊が崩壊する。
墨の海が流れ、影が叫び声を上げて溶けていく。
『名を呼ばれた者は還る。祈りは、呪いに負けない』
そして、真帆の身体は、現世へと引き戻された。
加納真帆の快復は順調で、“願い”に囚われていた面影は、今ではすっかり消えていた。
街中の噂も沈静化し、学校や店に置かれていた“鏡”も徐々に姿を消していった。
だが、百合には拭い切れない疑問が残っていた。
「……誰が、あの願い鏡を“配置”していたのか」
除霊された鏡がどれも“同一の構造”で、封術の専門家による高精度のものだったこと。
そして、全ての鏡が“使い手の手に届くような形”で、誰かによって置かれていたこと――
あの術は、単なる拡散ではなく、“信仰を育てるために配置された供物”だった。
ならば、誰かがそれを意図して行ったのだ。
この件は、“術者が名乗らず姿を見せなかった”ことも異様だった。
だから百合は動いた。
神波が周辺地域の女性たちへ“聞き込み”したところ、噂が流れ始めた初期の頃に鏡を使用した者たちに辿り着いた。
その全員が、ほぼ同じ言葉を口にした。
「鏡を見つけたのは、小さな祠の横だった」
「草の生えた道に、小箱が置かれていて、中に鏡と小さな札が入ってたの」
「“どうか、あなたの願いが叶いますように”って文字が書いてあって……それが、あまりにも自然すぎて」
百合が、ふっと息を吐く。
「やっぱり……“供物”として、明確に仕組まれてたのね」
札の文面は統一されており、同じ筆跡。
結界分析では、“術者の霊気”がごくわずかに札に染み込んでいた。
「この祠……場所はどこ?」
「山のふもと。地元の人が“願い地蔵”って呼んでて、よく絵馬が結ばれてたけど、今はもう参拝する人はいないって」
神波が地図を開いた。
「……“十津川神社跡”。十年前の土砂で社殿が崩れて、そのまま廃祀されてる。けど、祠だけが残って、今も細々と花が供えられてるらしい」
ふくまるが尾をゆらす。
「にゃ……“信仰の残り火”がある場所に、“願い鏡”を配って、信仰を増やそうとしてた可能性があるにゃ」
百合の目が細く光った。
「なら、次はその祠に行くわよ。“供物を置いていた手”の痕跡を探す」
その祠は、森の中の獣道を三十分ほど歩いた先にあった。
土の香り、杉の陰、そして誰かの“残した手の温もり”。
石造りの小祠は、確かに“祈られていた”痕跡があった。
花は新しかった。線香の香りもかすかに残っていた。
「……誰かが、今でもここに来てる」
百合は祠の前にしゃがみ、石畳をそっとなでた。
「霊気の痕跡が新しい。しかも、これは……女の子?」
神波も膝をついて結界を探る。
「いや、霊気は“少女の願い”に似てるけど、混ざってる。“術者の気配”が、上からかぶせられてるような……」
その時。
祠の裏手に、物音がした。
「……誰?」
低い声。
そこに立っていたのは、黒い法衣をまとった女性陰陽師だった。
顔の半分を布で覆い、目元だけが見える。
「貴女たち……あの鏡を、封じた者ね」
百合がすっと立ち上がる。
「あなたが、“願い鏡を置いた人”?」
「私は、“神主の娘”。ここを護るために、ずっと“願いを叶える神”を育てていた」
神波が声を張る。
「それは“神”じゃない。“願いの呪詛”だ」
「違う。私は“願いの声”に応えた。人々の想いを、形にするだけの巫女だった」
百合が一歩前に出る。
「あなたの神は、もう“叶える”ことに執着しすぎていた。願いを聞きすぎて、“人間の欲望の器”になっていた」
女性の瞳が揺れる。
「……それでも、皆“喜んでいた”。“変われた”と、“報われた”と――だから、次々と皆、鏡を持っていった」
百合は静かに言った。
「あなたは、“名もない神”を育てた。“誰にも見つけてもらえなかったあなた自身”を、神にしたかった」
女性の目が開かれる。
そして、ぽろりと涙をこぼした。
「……私は、誰にも気づいてもらえなかった。崩れた神社を一人で守って、願いを集めて……だから、“自分の祈り”が、誰かの形になってほしかった」
百合は、そっとその手を取った。
「じゃあ、“今ここで祈りをやめて”――“あなた”が“名を呼ばれる人”になって。誰かを叶える“器”じゃなく、“誰かに救われる”側になって」
女性は、しばらく沈黙してから、ゆっくりと祠に手を合わせた。
「……信仰は……ちゃんと名前のある神様に、返します」
ふくまるがほっとしたように言った。
「にゃ、それでようやく、全部“祈り”に戻ったにゃ……」
目を覚ましたとき、真帆は涙を流しながら兄の手を握っていた。
「……お兄ちゃん……ごめん、私……」
「いいんだ、真帆……戻ってきてくれて、よかった……!」
百合は、結界の外でそっとその様子を見守りながら、呟いた。
「……願いは、“叶うこと”じゃなく、“叶おうとする過程”にこそ意味がある。誰かに見守られるなら、なおさらね」
神波が微笑みながら頷いた。
「あなたがそう言うなら、きっとそれが“祈りの真価”です」
百合は、墨の取れた鏡に自分の顔を映しながら、そっと言った。
「……これはもう、呪いじゃない。誰かの“顔を映す道具”に戻ったってことね」
“願い鏡”は完全に町から姿を消した。
手にしていた者も、次第に鏡の存在を忘れていき、誰一人として“黒く塗られた鏡”を持ち歩く者はいなくなった。
そして、その数日後。
高塚家の門の前に、スーツ姿の加納遼一が立っていた。
緊張した面持ちで、ふくまるの頭を撫でながら、百合の姿を待っていた。
「高塚さん、あの……少しだけ、お時間いただけますか?」
「ええ、どうぞ」
応接間に通された遼一は、まっすぐに百合の目を見て、こう言った。
「俺……あの時、あなたを見て、一目で“この人は本物だ”と思ったんです」
百合の表情がやや引きつる。
「は、はあ?」
「いえ、つまり……その、こんなこと急に言って失礼なのは分かってますが、
あなたに――ひと目惚れしました!」
神波が茶を噴いた。
ふくまるがにやりと笑う。
「にゃにゃ、今いいとこだったのにゃ」
「ちょ、ちょっと待って!」
百合が両手を振るが、遼一は真剣そのもの。
「妹を助けてくれた恩とか、そういうことじゃなくて。“誰かの願いにまっすぐな姿”に、本当に惹かれたんです!」
その瞬間。
「すみません。失礼します」
神波がすっと現れ、遼一の背中に手を当ててにっこり笑った。
「はいはい、告白終了。では、お帰りの時間です」
「えっ、ちょ、ちょっとだけ――!」
「ご相談内容はもうありませんね?では、また必要になったらどうぞ。予約制です」
ぐいぐいと押し出される遼一。
ふくまるは爆笑しながら跳ね回っている。
百合は額を押さえた。
「……私、そんなに“モテ期”来てたっけ……?」
神波は戻ってきて、いつもの柔らかな笑みで言った。
「……百合さんが誰かに“名前を呼ばれた”ら、俺はちゃんと“呼び止めます”よ。それだけは、忘れないでください」
その一言に、百合は少しだけ赤面して、小さく頷いた。
外では、蝉の声が力強く鳴いていた。
真夏の光が、すべてを照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます