第二十四話 傲慢の叫び

 薄暗い洞窟の奥。

 湿った岩肌から滴る水音だけが、静寂を破っていた。


 ルクスは火を灯しながら、意識を失ったままの少年――シグを見下ろしていた。


 その顔には、以前のような誇り高き気配はなかった。

 《傲慢》の継承者だった彼は、今や“何者でもない”ただの少年に戻っていた。


「……起きたか。」


 シグの瞳がゆっくりと開く。

 だがそこには、焦点の合わない虚ろな光だけがあった。


「……何で、生きてるんだ、俺。」


 彼の声は酷くかすれ、震えていた。


「お前が完全に暴食に喰われる前に、殴った。……ただ、それだけだ。」


 ルクスはあくまで淡々と告げた。

 だがその言葉の裏には、“助けた理由”を自分でも整理しきれていない葛藤があった。


 シグはかすかに顔を歪め、拳を握った。


「……何も、残ってない。力も、誇りも……俺はもう、“傲慢”ですらいられない。」


「――だから何だ?」


 ルクスの声が、洞窟内に鋭く響いた。


「失ったからって、全部終わりなわけじゃない。継承者だったからどうとか、関係ないだろ。お前自身がどうするか、だ。」


 吐き捨てるようなその言葉に、シグは言葉を失った。


 かつてのルクスもまた、同じように“自分を見失った”男だった。


 だからこそ分かる。このままでは、シグは“心”まで喰われる。


「……お前に、分かるのかよ。力があったから、俺は……!」


「俺は、力があっても、守れなかった。」


 ルクスの言葉が、思わぬ重みで落ちた。


「力を得ても、怒りを燃やしても……全部を救えるわけじゃない。むしろ、手に入れた分だけ、背負うものも増えてくる。」


 シグは言葉を失ったまま、拳を膝に打ちつける。


 そして――涙が、一筋、頬を伝った。


「……悔しい。」


「その“悔しさ”を忘れなければ、お前は立ち直れる。」


 ルクスはそう告げると、静かに立ち上がった。


 そして、洞窟の奥から歩いてきた仮面の導師と目を合わせる。


「良い判断だったよ。あのまま《怒剣:ラグナレイジ》を抜けば、暴食に新たな媒体を与えてしまっていた。」


「……知ってたのか。」


「私は“観測者”だからね。必要以上の干渉はしない。ただ、君の選択を見ていたかった。」


 導師は仮面の奥で薄く笑う。


「だが、次は“お遊び”では済まない。次に現れる“罪”は、君たちの内側に問いを投げかけてくる。」


「罪……次は、どれだ?」


 その問いに、導師は答えなかった。


 ただ、洞窟の出口を見ながら、こう言った。


「“欲望”というのは、他人の中にあると思い込むほど、身を滅ぼすものだ。」


 そのまま導師は、闇の中に消えていった。


 残されたルクスは、レアの傍らで息を整えながら、ゆっくりと拳を握る。


 シグのように、傲慢を喪った者がいる。


 だが、今もどこかに、“罪”を宿した者が生きている。


 ……探さなきゃならない。

 今の俺にできることは、それしかない。





 夜が明けた。


 洞窟の出口から差し込む淡い朝陽が、瓦礫と苔に濡れた岩壁を赤く照らしていた。

 ルクスは外の光を見上げながら、胸の奥に渦巻く感情を整理しようとしていた。


 怒りではない。

 哀れみでもない。


 それは、たった一つの問いだった――『自分はこれから、何を選ぶのか』。


 背後から足音が響く。

 振り返ると、シグが壁を支えに立ち上がっていた。


「……もう大丈夫なのか?」


「身体は。中身は、空っぽだが、な。」


 自嘲混じりの笑みに、ルクスは小さく息を吐く。


「……お前の《傲慢》は、もう戻らない。でも、別に“力”だけが全てじゃないだろ」


「分かってる。……だが。あの時、暴食の核に手を伸ばしたのは、本当に“弱さ”だったんだろうな。」


 シグは静かに続ける。


「強くなりたかった、選ばれたかった! ……ただ、それだけだった。」


 その声は段々と弱々しく、悔しみを堪えていた。

 俯き、歯を食いしばり、手を握るシグに、ルクスが言葉をかける。


「――俺も、同じだった」


 ルクスは言った。


「怒りを力に変えて、誰よりも強くなってやるって思った。でもその怒りが、自分を滅ぼしかけた。あの剣を抜いてたら、きっともう“俺”じゃなかった。」


 そう、もう何度もギリギリの境界線に立っていた。


 力に呑まれるか、力を制御するか。

 その一線を越えるたびに、自分の“形”が問われる。


「お前は、どうするつもりだ?」


 問いかけに、シグはしばらく黙っていた。


 だがやがて、小さく答えた。


「旅に出る。……一人で、自分の足で、探してみるさ。俺が“選ばれた”ことに縋らずに、生きる道を。」


 その声には、微かな決意があった。


「そうか。……だったら。」


 ルクスは手を差し出す。


「その決意、信じる。次に会うときは、“継承者”じゃなく、“お前”としてな」


 シグは躊躇いながらも、その手を取った。


 その瞬間、二人の間に確かにあった“過去の因縁”が、静かに断ち切られた気がした。


 シグが去った後、ルクスとレアは小さな焚き火を囲んで、次の目的地を確認していた。


「……気になる?」


「何が?」


 レアの問いに、ルクスは首を傾げる。


 レアは目線を遠くに向けたまま、口を開いた。


「……暴食は一度姿を消したけれど、“本体”はまだ潜伏している。しかも、シグの喪失は別の何かを呼び込む可能性がある。」


「別の何か?」


「“罪”。……まだ出会っていない罪。例えば、《虚飾イリュージア》とか、《背信ペルフィディア》とか。」


「……それ、七つの大罪に入ってないだろ。」


「うん。でも……この世界では、“罪”は一つの象徴じゃない。時代によって、地域によって、意味が違うから。」


 ルクスは黙った。


 そしてふと、遠くの空を見上げた。


 澄み切った青。

 だがその下に広がる世界には、未だ解かれぬ“罪”が蠢いている。


 ……これで、終わるわけがない。


 拳を握る。

 その奥で、《憤怒ラース》が静かに燃えていた。


 だが、剣はまだ抜かない。

 怒りは、武器であって、答えではない。


 ――答えは、自分の歩みの先にある。

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