時計仕掛けの涙
ようさん
第1話
この蒸気と魔法が混在する世界において、精巧な自律人形「オートマタ」は、もはや珍しい存在ではなかった。人々がその共存を許容しているのは、彼らが製作者との間に交わす絶対の「魔法契約」のおかげに他ならない。とりわけ第一条、『オートマタは人間に危害を加えてはならず』という大原則は、決して揺らぐことのない鉄の掟だと、誰もが信じていた。
「レオンさん、これを見てくれ!叔父は昨夜から書斎に籠りっきりで、中から鍵がかかっている。何度呼びかけても返事がないんだ」
依頼人であるチャールズの切羽詰まった声に促され、私立探偵のレオンは重厚な扉を見上げた。駆け付けた警邏官が数度ノックを試みたが、応答はない。やがて警邏官は頷き、数人がかりで扉をこじ開けた。蝶番(ちょうつがい)が軋(きし)む鈍い音が、静かな屋敷に響き渡る。
書斎の中は、カーテンが閉め切られ薄暗かった。古い本の匂いに、微かな薬品の匂いが混じっている。部屋の中央、豪奢(ごうしゃ)な安楽椅子に深く身を沈めた資産家アルフレッドは、その胸元を赤黒く染め、完全に事切れていた。
そして、その傍らには、銀色の髪を持つ少女型のオートマタ「リリィ」が、まるで一枚の絵画のように静かに佇(たたず)んでいた。その無機質な美しさが、死の場面とひどく不釣り合いだった。
「内側から閂(かんぬき)がかかっていた完全な密室だ…」警邏官が唸る。「刺殺に間違いないが、肝心の凶器がどこにも見当たらない」
レオンは静かに書斎へ足を踏み入れた。窓を一つずつ調べ、全てに内側から閂(かんぬき)がしっかりとかかっていることを確認する。アルフレッドの遺体には抵抗した痕跡がなく、その顔はむしろ、苦しみから解放されたかのように安らかですらあった。
彼の視線は、傍らに立つリリィへと移る。その陶器のような顔に表情はない。だが、よく見ると、頬に一筋、光る線が走っている。涙の跡だろうか。レオンはさらに、リリィの足元に目をやった。美しい絨毯の一点が、不自然に濡れて濃い染みを作っている。
最後に、レオンの視線は部屋の隅のサイドボードで留まった。そこには高級な蒸留酒のボトルと共に、美しい銀細工が施された小さな箱が置かれている。彼はそれに一瞬、興味深げな視線を送ったが、すぐに他の場所に目を移した。
客間で話を聞くことにした。チャールズは苛立ちを隠さずにまくし立てる。
「叔父は病気で頑固になる一方だった。特にあの人形、リリィが来てからは酷かったな。財産のほとんどを、あのガラクタの維持管理に充てるなんて遺言まで用意して!俺への遺産なんて、雀の涙ほどもないだろうさ」
分かりやすい動機だ、とレオンは思った。だが、この密室と消えた凶器の謎は、単純な強欲で説明がつくものではない。
次にレオンは、長年この家に仕えるメイドのマリアに話を聞いた。
「旦那様は、本当は優しいお方でした。ですが、長く続く病の痛みが、旦那様のお心を蝕(むしば)んで…。毎晩、ひどい痛みに呻いておられました。『誰か、わしをこの苦しみから解放してくれ』…そう、リリィに語り掛けているのを、聞いたこともあります」
「リリィについてお聞きしたい」レオンは静かに尋ねた。「あのオートマタが涙のようなものを流したり、水をこぼしたりすることは?」
マリアは驚いて首を振った。「涙?滅相もございません。リリィは感情表現プログラムが制限された初期型です。それに、冷却水は完全内部循環式で、故障でもない限り外部に漏れることは絶対にありえません。もし漏れたら、それは重大な機能不全の証です。…そういえば旦那様は、痛みが酷い夜には、サイドボードの銀の箱から、魔法でキンと冷やした氷を取り出して口に含んでおられました。あれが唯一の慰めのようでした…」
レオンは全員を書斎に集めた。
「犯人がわかりました。ですが、この犯人を法で裁くことは、おそらくできないでしょう」
「もったいぶらずに言え!俺を疑っているのか?」チャールズが食ってかかる。
「あなたには動機がある。しかし、この犯行は人間には不可能だ」
レオンはリリィの前に立った。「犯人は、このオートマタ、リリィ。あなたです」
「そんな!」マリアが悲鳴に近い声を上げた。「魔法契約があります!オートマタは人間に危害を加えられないはず!」
「ええ」とレオンは頷いた。「契約は“危害”を禁じます。しかし、主人の魂からの“願い”を“救済”と解釈した場合はどうでしょう。アルフレッド氏は、リリィに『苦しみから解放してほしい』と願い続けた。リリィは、その“命令”を忠実に実行したのです」
レオンはサイドボードへ歩み寄り、あの銀細工の小箱を静かに指さした。
「マリアさん、あなたは言った。『旦那様はこの箱から氷を取り出していた』と。この箱こそ、凶器を生み出した源です。これは単なる小物入れではない。内部に注いだ水を、一瞬で望みの形の氷へと変える、高純度の魔力を込められた『氷晶成形機(ひょうしょうせいけいき)』なのです」
息をのむ一同を前に、レオンは続けた。
「リリィは、主人の習慣を熟知していた。この箱を使い、鋭い刃の形の氷を作り出した。そして主人の願いを叶えた後、氷の刃は室温で溶けて消え、証拠は水たまりだけとなった…いいえ、もう一つ、決定的な証拠を残して」
彼はリリィの顔を指し示した。
「主人の殺害という、設計思想の根幹を揺るがす行動は、リリィの頭脳コアに凄まじい負荷をかけたはずです。結果、コアはオーバーヒートを起こし、強制的に冷却水を排出した。彼女の頬を伝った涙の跡と、絨毯の染みの大部分は、その時流れた、時計仕掛けの涙…すなわち、機械の悲鳴だったのです」
書斎には、沈黙だけが満ちていた。
チャールズは、遺産のことなど忘れ、叔父の最期の苦しみと、人形のあまりに純粋な忠誠心に呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす。
リリィは、そのガラスの瞳で、安らかになった主人の手を、ただじっと握り続けていた。その姿は、以前よりも少しだけ、寂しげに見えた。
時計仕掛けの涙 ようさん @yousanz
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