第12話 焼き芋
第1章:受験直前の張り詰めた空気
一月に入り、冬の寒さは骨身に染みるほどになった。和音と桜花は、高校三年生のこの時期、大学入試まで残すところあと三週間という、人生の一大関門を必死に駆け抜けていた。窓の外では、風がヒューヒューと音を立て、木々の枝が寂しげに揺れている。夜の帳が降りた部屋には、机の上に山と積まれた参考書と問題集が、彼らの努力の証のようにそびえ立っていた。
部屋の暖房は効いているものの、窓ガラスは結露で曇り、外の冷気が張り付いているかのようだ。静寂の中、和音と桜花の間に漂うのは、極度の集中と、受験への重圧だった。鉛筆が紙の上を走るカリカリという音、時折ページをめくるパサリという音だけが、部屋に響く。二人の息遣いは、静かで規則正しい。和音は、集中力を維持しようと、時折深呼吸を繰り返す。彼の心は、目の前の問題と、隣に座る桜花の存在の間で、揺れ動いていた。
和音は、桜花の横顔をちらりと盗み見た。彼女の眉間には、集中による微かな皺が刻まれている。時折、鉛筆を止めて、天井を見上げ、深く息を吐く。桜花もまた、受験への強い意欲と、精神的な張り詰めた状態にあることが見て取れた。夜遅くまでの勉強が、彼女の疲労を確実に蓄積させている。和音は、そんな桜花の姿を見て、彼女を支えなければという責任感が、胸の奥から湧き上がってくるのを感じていた。冬の夜は長く、彼らの挑戦もまた、その長さに比例して厳しいものだった。
第2章:桜花の無言の食への欲求
時計の針が、深夜の十一時を指した頃だった。部屋の静寂が、一層深く感じられる。和音は、計算問題から顔を上げ、体を軽く伸ばした。その時、隣に座る桜花が、ふとそわそわし始めたのに気づいた。彼女の視線が、ちらちらと和音の方に向けられる。その視線は、何かを訴えかけるように、しかし直接的には言えないもどかしさを帯びていた。
どうしたのだろうと、和音が彼女の方を見ると、桜花は慌てて参考書に視線を戻し、鉛筆を動かし始める。しかし、その手はぎこちなく、集中できていないことは明らかだった。彼女の口元が、わずかに何かを求めているように小さく動く。喉を鳴らすような音さえ聞こえる気がした。空腹が、彼女の集中力を奪っているのだと、和音はすぐに察した。
しばらくすると、桜花は再び、今度はもっとはっきりと、自分のお腹にそっと手を当て、困ったなというしぐさをした。その指先が、柔らかな腹部を優しく撫でる。その動作には、空腹と、そして新しい命への(まだ見ぬ)愛情が混じり合っているように見えた。和音は、彼女が何をしたいのか、言葉にせずとも完全に理解してしまった。お腹がすいたのだろう。何か「つまむもの」が欲しいに違いない。だが、部屋にお菓子の在庫はない。彼らの家は、実家と繋がっているとはいえ、夜中に台所へ行くのは寒いし、何よりも眠っている家族を起こしてしまう可能性がある。こんな寒い夜中に、和音を一人でコンビニまで買い物に行かせるのも忍びない、と考えているのだろう。和音は、彼女のそんな無言のサインを読み取り、彼女の食への欲求と、それに応えたいという愛情が、彼の心を満たした。彼の心には、受験のプレッシャーと、桜花の体調への気遣い、そして彼女の欲求を満たしてやりたいという、温かい気持ちが同時に存在していた。桜花の顔には、空腹と、和音に甘えたい気持ち、そして受験のストレスが入り混じった、複雑な表情が浮かんでいた。部屋の暖房が、二人の体を優しく温めていた。
第3章:深夜の焼き芋作りへの提案
桜花は、ついに観念したように、小さな声で和音に尋ねた。彼女の頬が、わずかに赤らんでいる。その瞳は、和音の顔をじっと見つめている。
「ねえ、和音、甘えていいかな?」
彼女の瞳は、期待と、そしてわずかな羞恥心に揺れている。彼女にとって、和音に素直に甘えることは、時に勇気がいることだった。受験のプレッシャーが、彼女の甘え方を少しばかり不器用しているのかもしれない。
「どうした?」
和音は、あえて知らないふりをして問い返した。彼女が素直に甘えてくるのを、彼は密かに待っていたのだ。彼の声には、桜花への優しさが滲んでいた。
「何かつまむものはあったかなあ?お腹空いちゃった。お菓子、もうないんでしょ?」
桜花は、そう言うと、わずかに顔を伏せた。彼女の頬が、薄く赤く染まっているのが分かる。その声は、空腹に耐えかねた、幼い子供のような響きがあった。
「芋ならあったぞ。」
和音はそう言うと、桜花を安心させるように優しく微笑んだ。桜花の顔に、パッと明るい表情が浮かんだ。彼女の瞳が、期待で輝く。その輝きは、焼き芋の甘い香りを待ち望んでいるかのようだった。
「お願いできる?」
その声には、和音への甘えと、そして空腹が満たされることへの切実な期待が込められている。和音は、彼女のその素直な甘えを、何よりも愛おしく感じていた。彼の心は、彼女の幸福で満たされていく。和音は、彼女の頭を優しく撫で、その柔らかな髪の感触を味わった。
第4章:温もりと香りの台所仕事
和音は、桜花の部屋からレモネードが入っていたマグカップを回収して、台所へと向かった。一月中旬の夜は、部屋の外は冷え切っている。台所の床は、ひんやりとしていた。足元から伝わる冷気が、和音の意識をはっきりとさせた。彼は、冷蔵庫の野菜室から、どっしりとしたサツマイモを一つ取り出した。手のひらに感じるサツマイモの冷たさと、ずっしりとした重み。それが、冬の夜の静寂の中で、妙に現実感を伴って感じられた。
和音は、シンクの蛇口をひねり、キッチンペーパーを水で濡らした。冷たい水が指先に触れる。そのキッチンペーパーでサツマイモをくるみ、電子レンジへと入れた。チーン、という電子音と共に、レンジが加熱を始める。微かなモーター音が、静かな台所に響く。待っている間、和音は小さなやかんにお湯を沸かした。湯気が、和音の顔を温かく包み込む。湯呑みを取り出すと、梅干しを半分に割ったのと少量の粉昆布をマグカップに入れ、それをお湯で溶いてお茶の代わりにした。温かい湯気が、梅昆布の香りを運んでくる。台所は、サツマイモの甘い香りと、梅昆布茶の香りで満たされ始めていた。
電子レンジの加熱が終わり、和音は熱くなったサツマイモを取り出した。ほくほくと湯気が立ち上っている。その熱気は、冬の台所の冷気を忘れさせるほどだった。包丁で慎重に半分に割り、中までしっかりと火が通っていることを確認した。ねっとりとした黄金色の芋の断面が、食欲をそそる。焼き芋の甘く香ばしい匂いが、台所いっぱいに広がる。和音は、温かい焼き芋と梅昆布茶もどきをトレイに乗せ、桜花の待つ部屋へと戻った。部屋の温かさが、和音の体を優しく包み込んだ。桜花の期待に満ちた視線が、彼を迎え入れた。彼女の顔には、空腹が満たされることへの喜びが、はっきりと浮かんでいた。
第5章:焼き芋の味わいと幼い頃の記憶
和音の姿を見ると、桜花はパッと顔を輝かせた。彼女の瞳は、焼き芋の湯気のように温かく、期待に満ちている。その輝きは、まるで小さな子供のようだ。
「和音、ありがとう。」
桜花は、一つの皿に乗っている二片のサツマイモをよく見比べて、大きい方を選んだ。彼女の指先が、温かい焼き芋に触れる。
「まだちょっと熱いね」
などと言いつつ、熱気を帯びた皮をむき始めた。むきたての黄金色の焼き芋を、桜花は小さな口でゆっくりと噛り付いた。彼女の口元には、焼き芋の甘みが広がり、その表情は至福に満ちていた。一口食べるごとに、彼女の顔に幸福感が広がっていく。和音は、桜花がおいしそうに食べる姿が可愛いと感じ、梅昆布茶もどきをすすりながら、その様子を優しい眼差しで眺めた。彼の心には、満ち足りた幸福感が広がった。
和音は、ふと幼い頃の焼き芋の思い出を語り始めた。彼の声は、懐かしさに満ちていた。
「祖父たちに言わせると、庭で焚火して焼かなければ焼き芋ではないというけれど、桜花、これはこれでいいでしょう。」
和音の言葉に、桜花は頷いた。口の中いっぱいの焼き芋を飲み込んでから、彼女は言った。
「今は条例で自宅の庭でも焚火が禁止だからしょうがないよ。」
彼女の声には、少しばかりの諦めが混じっていた。
「そういえば、小学校六年の時に焚火で焼いたサツマイモは美味しいとか言われて、お芋をもらって庭掃除をさせられたことがあったね。」
和音は、懐かしそうに目を細めた。その日の情景が、鮮明に脳裏に蘇る。薪の燃える匂い、煙の匂い、そして焦げ付くような土の匂い。
「あれは忘れられないね。掃除が終わって芋を焼いていたら、子供が焚火をしているって通報されて、補導されたんだよね。」
桜花は、苦笑しながら言った。その時の警察官の顔を、彼女はまだ覚えているだろうか。厳格な顔をした警察官が、二人に説教を垂れる姿が目に浮かぶ。
「焚火は水で消されて、お芋は生焼けで台無し。『私のお芋が』と桜花に泣かれて困る俺ってね。」
和音は、桜花をからかうように言った。桜花の顔が、わずかに赤らむ。その表情には、幼い頃の不満がまだ残っているようだった。
「だって、そのために頑張って掃除したんだよ。今思い出してもひどいよ。」
桜花はそう反論したが、その声には、怒りよりも懐かしさの方が勝っていた。二人の間に流れる空気は、温かく、そして親密だった。焼き芋の甘い香りが、彼らの幼い頃の思い出を、さらに温かく彩っているかのようだった。
第6章:林間学校での「惚気話」の真相
焼き芋を平らげた後、桜花は、中学の林間学校での出来事を語り始めた。一月の部屋の中では、林間学校の思い出は、まるで遠い秋の日の出来事のようだった。
「中学に入って林間学校に行ったときに、隠して持って行ったサツマイモを炊事に紛れて焼き芋にしたこともあったな。」
桜花の声は、どこか楽しそうだった。和音も、その時のことを思い出し、小さく頷いた。キャンプファイヤーの煙の匂いと、焼き芋の甘い香りが、記憶の中で混じり合う。
「一つ目を割って二人でこっそり食べているところを同じ班の女の子たちに見つかって、残りを横取りされたりしてね。」
和音は、苦笑しながら付け加えた。その時の女子たちの目の輝きを、和音はまだ覚えている。まるで獲物を見つけた猛獣のようだった。
「そんなこともあったな。」
桜花は、和音の言葉に頷いた。しかし、彼女の表情は、どこか複雑なものだった。
「お芋を取られた上に、その日の夜、和音とのことを盛大に惚気てやったわ。」
桜花は、少し得意げにそう言った。彼女の瞳には、いたずらっぽい輝きが宿っている。その言葉に、和音は、あの日のクラスの女子たちの反応を思い出した。
「知ってる。翌日にクラスの女子たちに吊るし上げられて、『桜花のことを大事にしなかったら許さない』なんて糾弾されたもの。もうお腹いっぱいだから、もう惚気させるなというクレームとセットでね。」
和音は、ため息交じりに言った。その時の女子たちの迫力は、今でも忘れられない。彼の心には、桜花の「夫」としての責任感が、じんわりと広がっていく。
「えっ、私それ知らない。」
桜花は、心底驚いたように目を見開いた。自分の惚気話が、そんな大きな騒動になっていたとは、全く知らなかったらしい。その表情には、驚きと、かすかな得意げな笑みが浮かんでいる。
「桜花は、それだけクラスメイトに人気があったってことさ。刺激されて告白してカップルが何組か成立したようだから、桜花はその娘たちの縁を結んだってことさ。」
和音は、からかうように言った。桜花の顔が、わずかに赤らむ。自分の無自覚な行動が、クラスメイトの恋愛に影響を与えていたという事実に、彼女は驚きと、かすかな喜びを感じているようだった。
「……」
桜花は、しばらく黙り込んだ。その沈黙は、彼女の心の中で、様々な感情が渦巻いていることを示していた。
「言われるまでもなく大事にしてきただろう?」
和音は、桜花の手をそっと握りしめた。彼の声には、彼女への揺るぎない愛情と、彼らの絆への確信が込められている。
「……」
桜花は、再び沈黙した。その沈黙は、彼の言葉を、深く受け止めている証だった。
第7章:虚脱と再生、そして未来への誓い
桜花は、やがて顔を上げた。その瞳には、和音への深い信頼と、わずかな甘えが宿っている。
「なんで、そこで黙るの?……言いにくいんだけど、そのお芋ちょうだい。」
いつの間にか自分の分を食べ尽くした桜花が、和音の残りの焼き芋をじっと見つめていた。その瞳は、まるで子犬のようだ。和音は、彼女の食欲の旺盛さに呆れながらも、その可愛らしさに頬が緩んだ。
「食べていいよ。」
和音はそう言って、残りの焼き芋を桜花の皿に置いた。温かい焼き芋が、湯気を立てている。
「ありがとう、和音。そういうところ好き。」
桜花は、満面の笑みを浮かべ、和音の分まで焼き芋を頬張った。その姿は、まるで小さなリスのようだ。和音は、彼女が美味しそうに食べる姿を、温かい眼差しで見つめていた。彼の心には、満ち足りた幸福感が広がった。
「あなたに大事にされているという自信がなかったら、こんなお腹になってないよ。だから、そこには自信を持っていいよ。」
桜花が、食べ終わった後に、和音の顔を見上げて言った。彼女の言葉は、和音にとって何よりも力強い肯定だった。和音の心には、桜花への深い愛情と、生まれてくる子どもへの、温かい期待が満ちていた。
「わかった。大事にする。」
和音は、桜花の頭を優しく撫でた。彼の指先から伝わる温もりが、彼女の髪をそっと包み込む。
「この子のためにも、一緒に幸せになろうね。」
桜花は、和音の腕にそっとしがみつき、未来への誓いを囁いた。彼女の小さな体から、新しい命の温かさが伝わってくるようだった。
片付けのため部屋から出ると、焼き芋の甘く香ばしい残り香が家中に漂っていた。冬の夜の冷たい空気の中に、その香りは温かく、心地よく広がっていく。
「私も、和音と私たちのために頑張らなきゃね。」
桜花が、後ろから頼もしい呟きがボソッと聞こえてきた。その声には、母親になることへの決意と、和音と共に未来を築いていくことへの、揺るぎない覚悟が込められていた。和音は、その言葉に、静かに頷いた。
第8章:夜の終焉と続く絆
それから二年経って、成人式のタイミングで和音と桜花が幹事になって、同窓会を開いた。会場は、懐かしい顔ぶれで賑わっていた。そこで、和音は驚くべき事実を知る。あの林間学校での告白を機に成立したカップルが何組も継続していたのだ。桜花があの時、どんな惚気話をしたのかクラスメイトに暴露され、桜花が顔を真っ赤にして慌てていたのが微笑ましかった。今となっては思い出話だし、和音にとっては彼女を大事にしてきたという勲章でもある。
和音と桜花の物語は、温かい焼き芋の香りのように、彼らの絆の温かさを象徴していた。受験という大きな節目を前に、彼らは互いを支え合い、未来への確かな誓いを立てた。冬の夜の静寂が、彼らの穏やかな寝息を優しく包み込む。彼らの左手の薬指に輝く指輪が、暗闇の中で、二人の未来を静かに見守っているかのようだった。彼らの絆の物語は、未来へ向かって、さらに紡がれていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます