第18話 狐火の真実と白大蛇の悲しみ
「本物の、狐の嫁……?」
そう呟いたのは、夫の崇詞だ。
血にまみれた夫の姿を見て、静津は胸が締め付けられるようで、思わず顔を歪めてしまう。
それを見て嗤ったのは、天秤の白蛇だ。
巨大な邪蛇は、この上なく愉しそうに静津と崇詞の様子を見ている。
「夫よりも妻の方が好く理解しているようだ」
「それはまあ、そうかもしれません」
夫は何も知らないのだ。
静津ですら、先ほどから狐達に
「私も大したことは知りません。けれども、貴方様と話をするだけの情報は持っているかと」
ぼんやりとした静津の言葉に、白蛇は大きく笑い、夫の崇詞は焦ったような顔でこちらを見ていた。
その光景を見て、静津は(あら?)と不思議に思う。
蛇神は心の臓を止めるほどの呪縛を掛けることができるはずだ。
しかし、夫は首から上を動かすことができるようだし、息もしているし、声も出している。どうやら、蛇は夫に対して、たいそう手加減をしているらしい。
それにしても、夫の方を見ると、どうにも刺さっている刃に目が行ってしまう。
痛そうなので、あまり見たくない光景だ。
「あの、話の途中で申し訳ないのですが。痛そうなので、先に夫の刃を取り除いてもよろしいでしょうか」
「ならぬ。刃を抜けば、お前の夫は再び我に歯向かってくるだろう」
「そのようなことにはならないと思いますが……私がお止めいたします故」
「止める? 何故、お前がそのようなことをするのだ」
「貴方が打ち倒されてしまいましたら、私は貴方と話をすることができないではありませんか」
目を見開く蛇神に、静津は構わず、頭を下げた。
静津はふわりと羽織を翻し、蛇神に対して三つ指を就く。
「私は此処に、
誰もその場から動くことができなかった。
皆一様に、狐の嫁を名乗る赤い女に目を奪われている。
乞われた蛇神も、同様に女だけを見つめていた。
しかし、ふと目を細めると、蛇神は女に向かって金属の刃を放った。
「――静津!」
崇詞の悲鳴が上がったが、静津はその場から動かなかった。
無惨にも女を刺し殺してしまうと思われたその刃は、薔薇色の炎に纏わりつかれ、そのまま床にカランと落ちていく。
そして、女の周りには、多数の狐がひしめいていた。
静津がゆっくりと頭を上げると、白蛇は侮蔑の色を乗せた目で静津を見ながら、吐き捨てるように嗤う。
「何が話し合いか。狐に守られ、そのように高みから見下げるように話をするのが、狐の嫁のやり方だと言うのか」
「私がお借りしている炎は、守りの炎です。貴方様は誰よりもそれをご存じのはず」
「であれば、なんだというのだ。一人安全な場所に居るお前のような小娘一人に、何ができる!」
「私が貴方様をお守り申し上げます」
は、と言葉を失った白蛇を、静津は逃がさない。
「貴方様を、私がお守りいたします。私が借りる守りの炎がある限り、貴方様が宝石箱に再び封印されることはございません」
静津は頭を上げ、正座をしたまま、大聖堂の隅に立つ三人の術師を見る。
彼女の視線の意を知った
「そ、そんなことが、許されてなるものか!」
「白蛇が解放されるということは、代償の呪いが世に散るということだ!」
「そんなことになったら――」
「そのようなことになれば、真っ先に代償を受けるは
静津の言葉に、三人の術師はもはや白といってもいいほど血の気の引いた顔をしていた。
赤い髪を翻し、再び静津が蛇神を見ると、天秤の白蛇は静かに静津を見つめている。
「祭を、止めるというか」
「はい」
「お前の決断は、多くの苦しみを生むだろう。それでも好いのか」
「はい」
「お前の母も、我が力で息を保っているが、どうするつもりだ」
「代償を支払います」
それを聞いた白蛇は、ははははと笑い出した。
笑われるような愉快なことを言っただろうか。
一方で、焦り出したのは崇詞だ。
「静津、それはだめだ。蛇神の代償を軽んじてはならない!」
「崇詞様」
「そ、そなたの母は危篤状態だ! その代償を差し出すならば、命をかけねばならぬ。そんなことは――」
「崇詞様、それ以上はだめですよ」
静津が思わず崇詞の口に右手の人差し指を当てると、崇詞の周りに薔薇色の炎が舞い、彼の体に刺さっていた二本の刃がカランと音を立てて床に落ちてしまった。
癒しの呪いに歪んだ傷口は、薔薇色の炎に
「あ、違うんです。これはちょっと、間違いというか」
「静津、でかした! 部屋の外に出ろ、俺が祭を続ければ全てがうまく――」
「だから崇詞様、だめですってば!」
背に庇う妻にぽかりと頭を叩かれ、崇詞は驚いたように後ろを振り返る。
その隙に、蛇神が崇詞の影に刃を刺してその体の動きを縛ったので、崇詞は仰天し、静津は蛇神に礼を言った。
「すみません、蛇神様。夫を鎮めてくださり、どうもありがとうございます」
「静津! 何を言うのだお前は!」
「くははははは! 小僧、お前の妻は面白い女ではないか!」
「それは褒められているのでしょうか?」
「褒めてはいないな。いや、褒めているような気もしなくもない」
「要するに褒めてはいないのですか……まあ、別に好いのですけれど」
「静津、ふざけている場合ではないぞ!」
はあと肩を落としながら、静津は夫に向き合う。
「崇詞様。癒しを得て代償を支払わぬは、天秤の理に触れます。それは、義に沿わぬ振る舞いです。義と愛を司る情熱の大狐の加護を失ってしまいます」
静津の赤い瞳に映る、小さな狐達。
彼らは本来、この蛇神に勝るとも劣らない、巨大な大狐なのだ。
それがこうまで小さくなってしまったのは何故なのか、理由は明白である。
怒っている様子の妻なる不思議な女に、崇詞は目を白黒させていた。
静津はまったくもうと呆れを隠さないまま、蛇神を振り返ると、蛇神は静津に問いかけてきた。
「祭を止める、代償を受けると、言うは易い。しかし、そなたは本当に、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「分かっているつもりです。分かっていないかもしれませんが」
「それは分かっていないということではないか」
「それで好いのです。このようなことは、一人で背負うものではありません。嬉しいことは皆で分かち合う。大変なことも、皆で分かち合う。それが道理ではありませぬか。溜まっている代償など、苦しいことを貴方一人に押し付けた者達皆に、全部投げつけて分かちあってもらえば好いのです」
静津の言葉に、蛇はその黒い瞳を大きく見開く。
呪いと憎しみで黒くゆがんだその瞳に、かすかに金色の光が揺らめく。
「私は情熱の大狐に見初められた、三代目の狐の嫁にございます。その義と愛を持って、貴方様の苦しみを取り除いてみせましょう。――必ずお守りします故、どうか私と、お友達になってくれませんか」
手を差し出した静津に、蛇は問うた。
何故、と。
静津は思わず、笑みを
その答えを、静津は持っているから。
「貴方様はこのような事態になっても、
その瞬間、巨大な白蛇から、白い光が放たれた。
目を刺すことのないその優しい光に導かれるように、静津の周りから薔薇色の炎が湧き出てくる。
光と炎が絡み合い、白蛇の姿が見えなくなったところで、蛇の体に封じられていあ黒い塊が弾け、大聖堂の外に向かい、
そして最後に、驚く静津の腕の中に、ズシリと重みが生じた。
「……蛇神、様?」
静津の腕の中に居るのは、そこそこの大きさの白蛇だ。
瞳の色が金色の、可愛らしい顔をした美しい蛇である。
静津がおそるおそるそう呼びかけると、蛇は胸を張りながら、自慢げに宣言した。
「我はそなたの言に乗ってやる。一生付きまとってやるから、覚悟すると好いぞ!」
照れているのか、視線を合わせてこない白蛇に、静津は思わず破顔した。
どうやらこの愛らしい蛇は、静津の誘いに乗って、お友達になってくれるらしい。
「白蛇さんは、とても可愛らしい方なのですね」
それだけ言うと、白蛇はしくしくと泣きだしてしまった。
それが嬉し泣きだと分かるまで、静津も崇詞も、あとから走り寄ってきた聡詞も狐達も、ひたすらに慌ててしまったのである。
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