第10話 近付く距離


「お前は不思議な女子だ、静津」


 ある日、崇詞は縁側で、静津にそのように告げた。

 崇詞が廊下に座布団を強いて、雪が降りしきる美しい中庭を見ていたので、その隣にそっと座ってみたのだ。


 目を丸くした崇詞は、追い払うでもなく座布団を部屋の中から拾ってくると、静津に差し出したので、ありがたく頂戴してそこに腰を落ち着けたのである。


「美しい庭園ですね」

「うん。……今、ようやくそう思った」

「今ですか?」

「私が公爵となったのは五年前のことだ。日々を忙しく過ごしていると、なかなか、こういう美しさに心を向けることは少ない。特に、自分の家のことになるとな」

「住人よりも旅人や客人の方が、土地の景観を楽しむ目を持っているということでしょうか」

「そうかもしれぬ」


 くつくつと笑う崇詞に、静津は気になったことを口にしてみることにした。


「五年前に、公爵を継がれたのですね」

「そうだ」

「まだ十代でいらっしゃったはずです。あまりにもお若い」

「当時は十五歳だった。今もまだ、ひよっこだ。善治に助けられてばかりだな」

「仲がよろしいのですね」

「うん。あいつが居なかったら、この家は終わっていたと思う」


 信頼を寄せる再従兄はとこのことを語る崇詞の目は優しい。

 思わず頬を緩めると、崇詞はこちらを見た後、何故かすぐに目を逸らしてしまった。


「あと数日で、さいを行う」

「はい」

「明日にはそなたへの褒賞金を支払うよう、善治に申し付けておいた」

「……祭が終わる前ですが」

「いい。そなたは、役目を終える前に逃げたりはせぬ。そうであろう?」

「それは、そうですが」


 自嘲するような、諦めたような笑みを浮かべる崇詞に、静津は思わずその右手を握る。


「本当は、逃げてほしい?」


 息を呑む崇詞に、静津はここぞとばかりに言い募る。

 揺れる黒髪が、彼の動揺を現しているように、静津は感じた。


「崇詞様。貴方は一体、何を隠しているのですか」

「……静津」

「その秘密を、私でなくても構いません、誰かに打ち明けていますか」

「善治達は知っている」

「ではその中に、貴方の心の内を知る者は居ますか」


 答えない崇詞を正面から見つめながら、静津は手を放さない。

 その焦げ茶色の瞳を、赤い瞳で真っすぐに捉える。


「貴方は肝が据わりすぎています、崇詞様」

「……何が、言いたい」

「そのやり方は、きっと好くない。一人で抱え込む必要はないはずです」

「そなたに何が分かる」

「分かりません。教えてくれないから。でも、崇詞様」

「踏み込むな!」


 崇詞は叫んだ。

 静津が普通の女子おなごならば、恐れをなして手を放してしまっていたであろう。


 けれども、彼女は手を放さなかった。


 だって、知っている。


 それが、守る者を持つが故の強がりだと、いつも母と妹のために肩肘を張って生きてきた静津には分かってしまう。


「最初に言ったはずだ。俺のかせになるなと」

「踏み込むことが、枷になるのですか」

「静津!」

「私は、貴方が幸せならばいいのです」

「俺は今のままで、十分幸せだ」

「だったら、どうして――」


 その先を、声に出すことができなかった。

 崇詞が、静津を抱き寄せたからだ。


 時が止まっているようだと、静津は思った。


 広い部屋にも廊下にも、誰も居ない。


 中庭にしんしんと降り注ぐ雪だけが、視界の端で動いていて、遠くにかけひから流れ落ちる水の音がする。


 強く抱きしめてくる男の固い体に、間近にある鼓動に、熱い吐息に、初心な静津は上手く考えをまとめることができなくなってしまう。


「そなたは黙ってあと数日、ここに居てくれ」

「……崇詞様、でも」

「それが一番役に立つ。……それで十分だ」


 それだけ告げると、崇詞は言葉を紡ぐのをやめてしまった。

 しかし、静津を捕らえる腕は緩まない。


 静津は知っている。

 夜中、ただ布団を共にしているだけのこの男は、毎日うなされていた。

 初夜こそ、緊張と疲労で深い眠りに落ちていたため気が付かなかったけれども、最近では夜中に真っ青な顔で飛び起きることまである。


 この男はずっと何かにさいなまれていて、それは彼の夢の中まで追いかけてきているのだ。


 その心の重石おもしを取りたいと、静津が思うようになったのは、自然の流れで。


 おそらく、善治も侍女達も、同じように思っている。


 手掛かりは、随所に散りばめられていた。


 きっと、静津が彼の力になることができるとしたら、なのだろう。


「崇詞様」


 名を呼ぶ静津に、崇詞は何を思ったのか、ふと腕を緩めた。

 だから静津は、その隙をついて、ゆっくりと崇詞との距離を縮める。


 最初は、触れ合うだけのものだった。


 初めて触れた男の唇に、ああ、意外にも柔らかいのだと、静津は思う。


 何度か触れ合わせながらも、どうにも離れがたくて、思わず男の服の裾を握ると、強く体を引き寄せられ、それは静津が本の中でしか知らないような、熱く強いものへと変わっていった。


「静津」


 幾度も幾度も名前を呼ばれ、その度に胸の内が熱くなるけれども、息をするのが精いっぱいで、うまく答えを返すことができない。

 そうしてひとしきり静津を翻弄した美しい夫は、くったりとした静津を見て、こらえられないと言った風情で笑いながら彼女を優しく抱きしめた。


「そなたはとんでもない女だ。初心なくせに、自身の女を使って、私の決意をかようにも揺らがしてくる」

「揺れるままに倒れ掛かってきて好いのですよ」

「無茶を言う」

「……しないのですね」

「そうだ。しない」


 好き放題に静津の唇を奪った夫は、しかしただそれだけで、それ以上のことをするつもりはないらしい。

 静津に倒れ掛かってくるつもりも、ないらしい。


「これが俺の矜持の、最後の砦なのだ」


 そう告げる男を、女が止めることができようか。


 それから、肩を寄せ合った崇詞と静津は、美しい中庭を見ながら、色々な話をした。

 公爵家と平民の家。

 身分の差はあれども、家を守る盾としての気苦労はあまり変わらないらしく、お互いの話は納得がいくものばかりだった。


「聡詞が狙われたときは、息が止まるかと思った……」

「私も妹の八重が襲われたとき、同じ気持ちでした」

「妹御が?」

「お陰で相手の男を感情に任せて叩きのめしてしまいました」

「無茶をする」

「男手が居ないので、私がやるより仕方がないのです」

「……そうか」

「大人手がいないので、子どもながらに当主を引き継いだ崇詞様と一緒です」


 目を丸くした後、くすくすと笑った崇詞が顔を寄せてきたので、静津もそれを受け入れる。


 崇詞は静津の夫であるけれども、この先、静津のための男手にはなることはない。

 そして、それを責めることのない静津に、崇詞が甘えているのだ。


 静津はそれでいいと思った。


 男女の関係というのは、辛い人生を生きるための鎮痛剤となりえるのだ。

 そのように、本に書かれていた。


 きっと崇詞は、静津には想像もつかない重い何かを背負っている。

 静津との関係が彼の心を少しでも軽くするのであれば、それに越したことはない。


「静津というのは、好い名だな」

「……」

「どうした」

「名前に見合わず、小うるさいとよく言われます」

「私はそなたを、名前のとおりの女子おなごだと思う」


 静津が不思議に思って崇詞を見上げると、崇詞は優しい目で、静津を見つめていた。


「そなたと居ると、穏やかな気持ちになれる。暖かく静かな、春のみなとのような女子おなごだ。皆の帰る場所になれるようにと、御父上はそのように名を付けたのだろう」


 その低くて穏やかな声に、静津はしくじったと思った。


 静津はあと数日で、この美しい男とは二度と会うことができなくなる。

 けれども、静津は彼のことを、きっと一生忘れることはないのだろう。


 こんなことは本に書いてなかった。

 こんなふうに、心をえぐるような想いのことは。


 そしてなにより悔しいのは、この想いを知ったことを後悔する日は、きっと一生来ないということだ。


(私は自分で思っていたよりも、ずっと愚かな女だったみたいだ、父様)


 自分で自分に苦笑しながら、静津はこの一時の幸せに、身を委ねることを躊躇ためらわなかった。



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