第8話 事情を話す夫


 つれない夫と鍋を共にした翌日のこと。

 静津は夫に呼び出され、洋風の執務室のソファに座っていた。

 机越しの向かいに座るのは、夫である萩恒はぎつね崇詞たかしだ。

 相変わらず美しい顔をした夫に、静津は感心しながら、侍女達に着せられた美しい着物に緊張つつ、話を切り出されるのを静かに待つ。


「……すまなかった」


 なんのことだろう。

 首を傾げる静津に、崇詞はじわじわと顔を赤ながら、あーとかうーとか声を漏らしている。


「そなたもこの婚姻の当事者であるのに、俺は敢えてそなたを蚊帳の外にしていた」

「はい」

「この婚姻を続くのは、然程長い期間のことではないからだ。しかしその……俺が多少、頑なだったことは認めよう」


 気まずそうに目を逸らす夫に、静津はやはり首を傾げる。


「崇詞様は悪くはないと思います」

「え?」

「私は突然やってきた、どこの誰ともしれない女です。その女を妻したからといって、急に全てを曝け出すなど、高貴なる公爵閣下としては難しいことであると存じます」

「いや、こちらの都合で妻としたのだから、それは失礼がすぎるだろう」

「それほどの身分差がございます。破格の褒賞も頂いております。故に、私に謝る必要はございません」


 なにしろ静津は、平民に過ぎない彼女の身柄一つで、多額の褒賞金を得たのだ。


 本来は静津の存在など、公爵である崇詞にとっては羽のように軽い。

 お貴族様の判断だ、お国のためだと、難癖をつけてさらうことのできる程度のものだ。

 それを彼はここまで丁重に扱い、褒賞も知らぬ顔をすることなく支払い予定となっている。

 お陰で母と妹を救えるのだ。

 静津はただひたすら、感謝していた。


「故に、旦那様に置かれましてはなんら枷に思うことなく私をヤリ捨てていただけましたらば」

「お前は己をなんだと思っているのだ!」

「褒賞金を返せと言われると困るのです」


 素直に答えると、目を瞬いた崇詞は、何故か傷ついたような顔をして俯いた。

 一体どうしたのだろう。


「……そうか。それは、不用な心配をかけてすまなかった」

「……」

「そなたはこの婚姻について、どのように聞いている? その、初夜……では、何も聞いていないと言っていたが、あれから何か……」


 世にも美しい旦那様はそれだけ言うと、口元を手で隠し、顔を赤らめながら目を逸らした。


 美人がこんなことをしてはいけない。

 見かけた人類すべてに襲われてしまう。

 静津も、その肩に母と妹の今後が乗っていなければ、今すぐ襲い掛かっていたかもしれない。

 妻だから、合法だし。


 なお、初夜の静津であればこのような思考には至らなかったのだが、静津は真面目なので、善治と侍女達に与えられた人体の仕組みをこよなく楽しむ聖なる教本を持って真面目に勉学に励み、大変な成果を上げているのだ。

 故に、己の欲望と目の前の獲物の価値を十分に理解し、目の保養をすることができるのである。


「特段、何も」


 静津は、萩恒公爵の妻を探す告知を見て、応募し、そしてここまで来たのだ。

 特段、それ以上の情報は持ち合わせていない。

 善治からも侍女達からも、何も言われていない。


 首を横に振る静津に、崇詞ははあとため息を吐いた。

 どうやら静津に呆れているのではなく、自分に呆れているらしい。

 お優しいことである。


「この婚姻は、俺が萩恒はぎつねの男として、異能の力を手にするためのものだ」

「異能の力」

「そうだ。五大公爵家と帝の血筋が有する、神から与えられた特別な力だ」


 その説明に、静津は頷く。


 大日本帝国には古くから、異能の力が存在する。

 それは、物を温めるかすかなものから、全てを燃え上がらせる大きなもの、人の心の内を盗み見るものなど、様々だ。


 そして、今の大日本帝国を支配する帝とそれを取り巻く五大公爵家は、特に強い異能の力を有しているのだ。それは各家が祭る神に与えられたもので、その直系の血を引く者は、一夜にして帝都を滅ぼす力を有するとまで言われている。


「それは少し言い過ぎかもしれないな。そのようなことができるのは、我が萩恒家くらいのものだろう」

「できるのですか」

「できる。それだけの力を、我が家は有している。そして、それを手にするためには条件があるのだ」

「――婚姻、ですか」


 呟く静津に、崇詞は頬を緩めながら、「話が早くて助かる」と呟く。


「各家ごとに、力を手にする条件は異なる。我が家は、婚姻による力の発現が最も容易な手法だ」

「他に手段が?」

「あるにはあるが、まあ推奨はされない」

「左様ですか」

「萩恒の嫁は、狐の嫁だと言われている」

「可愛いらしいですね。暴れ馬と名高い私の代でその代名詞はなくなることでしょう」


 そう伝えると、崇詞は目を丸くした後、思わずと言った様子で声を上げて笑った。

 意外にもあどけないその笑い方に、静津は、顔のいい男が笑うとこんなにも女の心を揺さぶるのかと、その威力に感動する。


(美人の笑顔とは、かくもすさまじい……)


 何度も言うが、崇詞は目鼻立ちが整っている。

 静津の居た村の一番の美丈夫よりも、ずっとずっとだ。

 着ている服も、派手さのない意匠だが、質のいい布を使われており、気品に満ちている。肌も白くてつやつやしているし、体つきもほっそりとしてはいるものの、風呂場で何度か見た限りだと、ほど好く鍛え上げられている。

 つまり、全身が尊い。

 やはり、御貴族様とは手の届かない場所に居る人なのだろう。


 ひとしきり笑った後、崇詞はどこか寂しそうな顔をした。


「俺は狐の嫁という言葉を、そのように思ったことはないのだ」

「はあ」

「萩恒にとって――上位貴族にとって、狐の嫁とは萩恒公爵家におけるにえを意味する」


 にえ――生贄いけにえ。供物。犠牲。

 物騒な物言いに、静津は名前どおり静かに口を閉ざす。


「萩恒家は元々、狐神きつねがみを祭る神官だ。狐神ににえとして嫁を差し出すことで、男は神官として炎の力を手にすると、伝え聞いている」

「贄の質次第で、力の大小が決まる?」

「そうだ。そして、かつて強大な異能の力を誇り、さいを最も成功させた萩恒の男の妻が、赤い髪に赤い目をした女だった」


 そなたと同じだと呟く声は、事実を告げる以上の意味が込められているような響きを帯びていて、静津は思わず目を瞬く。

 どうやらこの髪と目には、想った以上に期待が籠っているらしい。


 ならばと頭を横にぶんぶん振って、赤い髪を風になびかせ、赤い目を細めてフッと笑ってみたところ、上品で顔の好い旦那様は後ろを向いてプルプルと震えだしてしまった。


「なるほど、指一つ触れずに旦那様のお加減を悪くしてしまいましたわ……赤い髪の力はすごいのですね……」

「頼むからやめないか」


 旦那様はもはや、涙をこぼしながら笑っている。


「それで、さいはどうやら、崇詞様が主催なさるのですね?」

「そうだ。祭を執り行うには、萩恒家の神官としての異能の力が必須となる」

「……このようなことを言うのは、出過ぎたことと思うのですが」

「なんだ」

「必要とされるのが家のお力なのであれば、他にも人手がいらっしゃるのでは。このように公募をかけてまで、当主ご自身が婚姻する必要はあったのでしょうか」

「我が家の血を引く者は、最早四人しかおらぬ」


 静かに告げられた言葉に、静津は絶句する。


「俺と、六歳の弟聡詞さとし、家令の善治ぜんじにその母佳乃よしの。これだけだ。そして善治と佳乃は、血が浅い」


 たった四人。

 高貴なる公爵家の人間が、このように数を減らすなど、尋常ではない。

 富と名声に満ちた上位貴族の家は、産めよ育てよと人を増やし、財に任せて豊かに暮らし、病に伏せば医師に治療師にと死から遠ざけ、増え過ぎて相続争いが起こるのが常である。


 それがここまで減るとしたら、外因があるはずだ。


 どうしてと呟く静津に、崇詞は苦笑いを浮かべた。


「そのうちに分かる」

「……?」

「とにかく、俺が萩恒はぎつね家の力を手にすることとした。此度こたびさいの主催は俺だ。あと半月後に、祭を行うこととしている」

「半月後……」


 なんだろう。

 崇詞は穏やかにほほ笑んでいるのに、穏やかな話をしていない気がする。


さいとは一体、なんなのですか」


 きっと、楽しいだけのお祭りではないのだろう。


 ――すまないな、静津。父さんはさいが嫌いなんだ。


 父の言葉が脳裏をよぎり、静津は身を固くする。

 しかし、崇詞はそれに構わず、静津に向かってふわりと微笑んだ。


「そなたの役目は、俺が祭を執り行うと同時に終わる。この仮初の婚姻も解消だ。祭が終わり次第、母と妹と共にここを去るといい」

「崇詞様」

「これ以上は、我がいえの事情に立ち入らずとも好い。知らぬということが身を守ることもあろう」

「……」

「静津」


 物言いたげにしている静津の右手を、崇詞は穏やかな笑みを浮かべたままそっと手に取った。

 自分の手とは違うその無骨な感触に、静津は胸の内がざわめくのを感じる。


「ありがとう。すべてはそなたのお陰だ」


 息を呑む静津に、崇詞はにこりとほほ笑むと、立ち上がり、仕事へと戻っていった。


 静津はなんとはなしに、自分の右手を見た。

 繊細な見た目をしていても、彼は男なのだ。


(初めて、まともに触れ……あ、違う)


 そういえば、柱に括り付けられた時にも、手を掴まれたような気がする。

 初夜の祭も、右頬に触れられたような。


 ただまあ、要するに、静津が夫と触れ合ったのはそれだけのことで、父も三年前に亡くなり、実のところ静津には男に対する耐性がなかった。

 知識だけは、この半月でもりもりと蓄えたけれども。


 ほんのりと頬を赤らめながら、静津はとくとくと煩い心臓を鎮めるべく、胸を手で押さえた。

 押さえながら、静津は思考を、胸の内のざわめきへと向ける。


(狐神にささげる、生贄……?)


 崇詞は確かに、そう告げた。

 狐の嫁が、狐神への

 そしてそれは、静津のことであると。


 けれども、違和感がある。


 それは果たして、正しいのだろうか。


 何かが歪み、その歪みによって、すべてがきしんでいるような気がする。


 その根拠のない想いを、静津はどうにも拭い去ることができない。


『お目出たいお祭りじゃないの?』

『名前こそ目出たいが、内実はそのような褒められたものではない』

『そうなの?』

『そうだ。そして、それを知る者は少ない。そして、数少ない狐の――を知る者は、それを止めや――』


(父様。あのとき父様は、何を伝えようとしていたの)


 静津は心を澄ませて、己の中に在る幼い日の父に関する記憶を探る。


『ね、静津。父様のご飯は美味しいでしょう』


 それは、母・多重の言葉だ。


『あんたの父さんは本当に、好い奴だなあ』


 それは、隣家の達也おじさんの言葉。


『本当に事故だったの? 姉様、父様が一人で作業に向かうなんて危険なこと、するはずないよ!』


 妹の、八重。


『村一番の器量好しと言えば、夏津八かつやんところの多重たえさんだなぁ』


『やあ、夏津八かつやの家は余所者でねぇか』



器量好しに数えていいもんか』




夏津八かつやさんは飯づくりが上手いんだねえ』





『なあ、夏津八かつや。お前は好い奴だ。ずっとこの村に居てくれたら――』









『父様、母様。これからはここに住むの?』

『そうよ、静津』

『父さんと母さんの都合で、ずっと旅をさせて悪かったな』


 そうだ、あの日。


 静津が七歳になったあの日。

 旅人であった父と母は、ようやく定住先を決めたのだ。

 移住者が増えていたあの村に、飯炊き屋として住むことを決めた。


『ここは、好い村のようだ。程よく帝都からも遠く、さして不便という訳でもない』

『そうなの?』

『うん。静津、周りのお友達はどうだ?』

『見えなくなったの』

『そうか』


 安心したような顔をする父に、七歳の静津は不満そうに頬を膨らませる。


『好いことじゃないのよ、父様』

『そうだな。……静津の髪は赤いだろう』

『うん。父様と一緒だね』

『そうだ。はあ。この赤い髪は、なかなか引き継がれないものらしいんだがなあ』

『そうなの?』

『そう。そしてこれは、非常にやっかいな代物だ。人に知られていないのが一筋の救いか』


 わしゃわしゃと静津の赤い髪をかき乱す父・夏津八に、静津はむーと眉根を寄せて、乱された髪を整える。


『あの子達は居なくなっちゃったの?』

『いや、居るよ。お前が見えなくなったから、飽いて傍を離れただけだ』

『静津のせいなの』

『そうではない。時が来たら、分かるだろう』


 それ以上を告げる気のない父に、静津は不満で一杯になり、必死に父の腕をひっぱった。


『父様』

『だめだ、静津。もう少し、静津が大きくなったらな』


(父様。静津は、結婚するほど大きくなりました。……教えてくれるって約束したのに、どうして傍に居てくれないの)


 幼い頃に見えていたもの。

 それが何なのか、亡父は何も教えないまま、あっさりと死んでしまった。


(母様なら)


 母なら何か知っているだろうか。


 けれども、静津は今、母に会うことはできないのだ。


 この家から決して出ないようにと、家令の善治に言い渡されている。

 お役目を終えるまで、母と妹に会うことはできないと。

 それが、静津が褒章金を手にするための条件だった。


 そして、それだけではない。

 母は既に病で口が利けなくなっており、息も絶え絶えで、何かを聞ける状況ではないのだ。

 今は経毘沼へびぬま公爵家ゆかりの白蛇の力で延命措置を行っており、静津に褒章金が入り次第、最終的な治療を施す手筈となっている。


「――きゅん」


 知らない間に足元に居た子狐に、静津はふうと息を吐く。

 とても野生で生きているとは思い難い、美しい金色の毛並みをした、小さなお狐様。


「貴方は何を知っているの?」


 きゅん?と首を傾げるその姿に、静津は黙ってその頭を撫でる。

 それがただの子狐でないことを、今の静津は知っていた。


「静津。きつねさん。そこにいたんだ」


 襖の近くに立っている彼に、静津はゆっくりと顔を上げる。


 赤色の双眸そうぼうは、しっかりと静津と子狐を捉えていた。



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