第三章 第二話
その場の流れで
「結婚してからというもの、家のことはすべて妻に任せっきりでな。それが体に染みついちまってるんだ。すまなかった」
どうやら身の回りのことを妻に頼んでいたいつもの癖で、
「俺んとこの町じゃあ、昔っから男は外で働いて女は家を守る、それが当たり前だったんだ。ところが、最近の流行だかなんだか知らんが、そういうのはもう古い考え方なんだとよ。女だって外で働くし、男が家事を手伝う。日々、感謝を忘れずに、お互いを労い合う。そういうのが主流なんだと。それに合わない古い人間は、つま弾きさ。人間じゃねえって目で見られる」
「まあ、俺も妻に感謝してねえってわけでもねえ。その流行ってやつにのって、礼のひとつでも言ったっていい。そう思ったんだが……何十年も積み重ねてきたものをいきなり変えるってのも無理があるもんだ。明日こそは、いや、明日こそはと思っているうちに、ぽっくり逝っちまってね」
話を聞いたところ、要は妻にお礼を言おうと思っていたのに言えないまま、この世を去ってしまったということだ。
それなら、
話を聞く側に徹していた
「お客様、遅ればせながら、この宿についてご説明させていただきます」
そう切り出すと、
「この宿にやって来るお客様は、みなさん何か心残りを抱えている方なんです」
「心残り?」
「はい。今の話からすると、お客様の場合は奥様にきちんとお礼を言えていないことが未練になっているんじゃないでしょうか。この宿では、今存命の方をお呼びすることができます」
「へえ、そんなことできるのか」
「はい。いくつか条件はありますが、会って話すことができます」
宿に呼べるのは生きている者。さらに、呼ぶ相手が眠っている間だけだ。
そして、相手はここで過ごした時間を忘れてしまう。
そういった条件や注意事項を説明すると、
「よければ、奥様にここに来てもらうのはいかがでしょうか」
「いやぁ、それは……未練っていってもそんな大したもんじゃねえし……まあ、あいつが会いてえっつうなら、会ってやってもいいけど……」
やり残したことがわかりきっているのなら、早めに行動するのがいい。そう思って提案するが、なぜか
どうやら、ここに来てもなお、
「奥さん、きっと会いたいと思ってるはずですよ」
「うーん、そう思うかぁ?」
背中を押すと、
「そうですよ。最期に顔を見て、きちんと今までのお礼を伝えましょうよ」
「いやぁ、でも、今更言ってもなぁ」
やっぱりお礼を伝えるとなると抵抗があるようで、首を縦に振ってくれない。
「でも、奥様もきっと寂しがっているんじゃないでしょうか」
「ああ、悲しみに暮れてるだろうなぁ」
あと一押しのはずなのにと歯がゆい思いをしていると、黙って話を聞いていた
「それは、どうですかね」
表情が和らぎ始めていた
「どういう意味だ?」
傍で見ているだけで
「今頃奥さん、清々してるんじゃないですかね。面倒を見なくちゃいけない相手がいなくなって」
「何を……!」
ついに
「だって毎日毎日、あれくれこれくれってお願いするだけして、お礼のひとつも言わなかったんですよね。そんな人がいなくなって寂しいって、俺には理解できないですけど」
さらに怒り出すかと思ったが、図星だったのか
「本当は、奥さんに会うのが恐いんじゃないですか?」
「そ、そんなことはない……! 恐いだなんて、そんなことは。それに、あいつだって悲しんでいるはずだ」
「じゃあ、見てみますか? 奥さんが、今どうしているか」
「え?」
朝はしとしと降っていた雨は、今は止んでいるようだが、空は分厚い雲で覆われている。
目的の場所は
「ねえ、
「思ったことをそのまま言っただけだよ。
「それは……」
正直に言えば、
それでも、
うまく言語化できず口を閉ざしたままでいると、
「それにあのお客さん、放っておいたら朝まで『でもなぁ、いや、でもなぁ』って言い続けると思う。この宿にいられる時間は限られているんだし、少しくらい強引に背中を押さないと、未練を抱えたまま出発することになるよ」
何もただ煽るためだけに失礼なことを言ったのではなく、
確かに、
「着いたよ。これが、鏡池」
ゆっくりとした足取りで追いついてきた
「何も見えねえぞ。普通の池じゃないか」
「名前を伝えないと、ただの池です。奥さんの名前、なんでしたっけ?」
「
「わかりました……鏡池よ、
「……
さすがに言い出した本人である
「いや、外にいるから、涙を見せないだけだ! きっと家に帰ったら、涙が枯れるくらい大泣きするぞ!」
そうであってほしいと願うように、
その後、
「食事なんて作っても、喉も通らないはずだ」
だんだんと
「……片付けたら、きっと……悲しみにふけって……」
しかし、
いつまで経っても
いつの間にか、日が暮れ始めている。
「
「……そうだよな……こんなうるさいだけの旦那、いなくなっても……ははは」
ひとり言をぶつぶつ呟きながら、亡霊のように来た道を戻っていく。その背中は痛々しくて、かける言葉も見つからず、
「ど、どうしよう……」
心残りを晴らすどころか、むしろ増やしてしまった可能性すらある。
焦る
「まあ、今更後悔しても時間は元に戻せないし。本人が受け止めて、どうするか決めるしかないよ」
「……うん。とりあえず、部屋まで送り届けてくる!」
あの調子では、門を出て森の中に迷い込んだりしてしまってもおかしくない。
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