第三章 第二話


 その場の流れで倫太郎りんたろうの身の上話を、伊智いちと二人で聞くことになった。

 なつめ伊智いちが並んで座り、座卓を挟んで倫太郎りんたろうと向き合う。倫太郎りんたろうはさっきまでの強気な態度とはうってかわって、しょんぼりと肩を落とし、ぽつぽつと話し始めた。


「結婚してからというもの、家のことはすべて妻に任せっきりでな。それが体に染みついちまってるんだ。すまなかった」


 どうやら身の回りのことを妻に頼んでいたいつもの癖で、なつめにもあれこれ頼みごとをしていたようだ。その勢いで、ついには「母さん!」とまで呼んでしまったらしい。


「俺んとこの町じゃあ、昔っから男は外で働いて女は家を守る、それが当たり前だったんだ。ところが、最近の流行だかなんだか知らんが、そういうのはもう古い考え方なんだとよ。女だって外で働くし、男が家事を手伝う。日々、感謝を忘れずに、お互いを労い合う。そういうのが主流なんだと。それに合わない古い人間は、つま弾きさ。人間じゃねえって目で見られる」


 倫太郎りんたろうは腕を組んで、うんうんと頷きながらひとり納得している。なつめ伊智いちは、「はぁ……そうなんですね」と曖昧に相槌を打った。


「まあ、俺も妻に感謝してねえってわけでもねえ。その流行ってやつにのって、礼のひとつでも言ったっていい。そう思ったんだが……何十年も積み重ねてきたものをいきなり変えるってのも無理があるもんだ。明日こそは、いや、明日こそはと思っているうちに、ぽっくり逝っちまってね」


 倫太郎りんたろうは自宅で心臓に激しい痛みを感じて倒れ、気がついたらこの宿に辿り着いていたという。

 話を聞いたところ、要は妻にお礼を言おうと思っていたのに言えないまま、この世を去ってしまったということだ。

 それなら、倫太郎りんたろうの心残りは、はっきりしているのではないだろうか。

 話を聞く側に徹していたなつめは、背筋を正した。


「お客様、遅ればせながら、この宿についてご説明させていただきます」


 そう切り出すと、倫太郎りんたろうのほうも話を聞く姿勢になった。


「この宿にやって来るお客様は、みなさん何か心残りを抱えている方なんです」

「心残り?」

「はい。今の話からすると、お客様の場合は奥様にきちんとお礼を言えていないことが未練になっているんじゃないでしょうか。この宿では、今存命の方をお呼びすることができます」

「へえ、そんなことできるのか」

「はい。いくつか条件はありますが、会って話すことができます」


 宿に呼べるのは生きている者。さらに、呼ぶ相手が眠っている間だけだ。

 そして、相手はここで過ごした時間を忘れてしまう。

 そういった条件や注意事項を説明すると、倫太郎りんたろうも真剣に耳を傾けてくれた。


「よければ、奥様にここに来てもらうのはいかがでしょうか」

「いやぁ、それは……未練っていってもそんな大したもんじゃねえし……まあ、あいつが会いてえっつうなら、会ってやってもいいけど……」



 やり残したことがわかりきっているのなら、早めに行動するのがいい。そう思って提案するが、なぜか倫太郎りんたろうは渋っている。言い訳めいたことを、もごもごと口にし続けた。

 どうやら、ここに来てもなお、倫太郎りんたろうは自分に素直になれないらしい。相当な頑固者である倫太郎りんたろうに奥さんに会いたいと言わせることが、当面の課題となりそうだ。心残りが何か明らかでも、越えなければならない壁がいくつも待っている予感がした。


「奥さん、きっと会いたいと思ってるはずですよ」

「うーん、そう思うかぁ?」


 背中を押すと、倫太郎りんたろうもまんざらでもなさそうに返す。


「そうですよ。最期に顔を見て、きちんと今までのお礼を伝えましょうよ」

「いやぁ、でも、今更言ってもなぁ」


 やっぱりお礼を伝えるとなると抵抗があるようで、首を縦に振ってくれない。


「でも、奥様もきっと寂しがっているんじゃないでしょうか」

「ああ、悲しみに暮れてるだろうなぁ」


 あと一押しのはずなのにと歯がゆい思いをしていると、黙って話を聞いていた伊智いちが口を挟んだ。


「それは、どうですかね」


 なつめは目を丸くして伊智いちを見つめる。

 表情が和らぎ始めていた倫太郎りんたろうも、顔をしかめた。


「どういう意味だ?」


 倫太郎りんたろうは、座卓の上に置いた拳を握りしめている。

 傍で見ているだけでなつめは冷や冷やしたが、伊智いちは涼しい顔のまま返す。


「今頃奥さん、清々してるんじゃないですかね。面倒を見なくちゃいけない相手がいなくなって」

「何を……!」


 ついに倫太郎りんたろうは、怒りを露わにした。それでも、伊智は構わずに続ける。


「だって毎日毎日、あれくれこれくれってお願いするだけして、お礼のひとつも言わなかったんですよね。そんな人がいなくなって寂しいって、俺には理解できないですけど」


 さらに怒り出すかと思ったが、図星だったのか倫太郎りんたろうは押し黙った。


「本当は、奥さんに会うのが恐いんじゃないですか?」

「そ、そんなことはない……! 恐いだなんて、そんなことは。それに、あいつだって悲しんでいるはずだ」

「じゃあ、見てみますか? 奥さんが、今どうしているか」

「え?」


 伊智いちからの提案に、倫太郎りんたろうだけでなくなつめまでも目を瞬いた。



 なつめたち三人は、部屋を出て建物の裏手を目指した。

 朝はしとしと降っていた雨は、今は止んでいるようだが、空は分厚い雲で覆われている。

 目的の場所は伊智いちしか知らないので、先頭に立って歩いている。なつめは足を速めて隣に並ぶと、少し後ろを歩く倫太郎りんたろうには聞こえないように声を抑えて話しかけた。


「ねえ、伊智いち。どうしてあんなこと言ったの?」

「思ったことをそのまま言っただけだよ。なつめはどう思うの? あの人が奥さんのこと大事にしてたと思う?」

「それは……」


 正直に言えば、なつめもどちらかというと伊智いちと似たような印象を持っていた。

 それでも、倫太郎りんたろうたち夫婦は何十年という月日を共にしてきた仲なのだ。外から見ただけではわからないことが、二人の間にあるのではないか。そんな想像をしてしまうのは、夫婦というものを自分がよくわかっていないからかもしれないが。

 うまく言語化できず口を閉ざしたままでいると、伊智いちがまっすぐに前を向いたまま話す。


「それにあのお客さん、放っておいたら朝まで『でもなぁ、いや、でもなぁ』って言い続けると思う。この宿にいられる時間は限られているんだし、少しくらい強引に背中を押さないと、未練を抱えたまま出発することになるよ」


 何もただ煽るためだけに失礼なことを言ったのではなく、伊智いちなりの考えがあったようだ。

 確かに、伊智いちの言う通りだ。現状は心残りを解消するための第一歩すら、踏み出せていない。奥さんが宿に来てからが本番なのだ。


「着いたよ。これが、鏡池」


 伊智いちの案内でやって来たのは、建物の裏手にある池だった。表側にある大きな池とは違い、手鏡に似た楕円形の小さな池だ。

 ゆっくりとした足取りで追いついてきた倫太郎りんたろうも、興味深そうに池を覗き込む。


「何も見えねえぞ。普通の池じゃないか」

「名前を伝えないと、ただの池です。奥さんの名前、なんでしたっけ?」

恵子けいこ……かつら恵子けいこだ」

「わかりました……鏡池よ、かつら恵子けいこの姿を映したまえ」


 伊智いちが唱えると、水面に波紋が生まれた。水に様々な色が混じり、波が収まる頃にはどこかの町の景色が映しだされていた。その中心にいるのはひとりの女性で、動きに合わせて水面に映る視点も変わっていく。


「……恵子けいこ!」


 倫太郎りんたろうが池の周りの石に手をついて、食い入るように水面を見つめる。姿は見えるが、こちらの声は届かないし、向こうの声や音もこちらには聞こえないようだ。

 恵子けいこは誰かと話しているようで、微笑みを浮かべて頷いたり、頭を下げたりと忙しく動き回っている。その様子は悲しみに暮れているといよりは、しゃきしゃきとしているように見えた。

 さすがに言い出した本人である伊智いちも少し気まずそうに目を逸らしている。何とも言えない空気がその場を包んだ。


「いや、外にいるから、涙を見せないだけだ! きっと家に帰ったら、涙が枯れるくらい大泣きするぞ!」


 そうであってほしいと願うように、倫太郎りんたろうは言う。

 その後、恵子けいこは八百屋に寄り、家に帰り着いた。しかし、涙ひとつ流さず、淡々と夕餉の準備を始めた。


「食事なんて作っても、喉も通らないはずだ」


 だんだんと倫太郎りんたろうの声が小さくなる。

 倫太郎りんたろうの予想は虚しくも裏切られ、恵子けいこは一人分の食事をきっちり食べ切った。丁寧に手を合わせてから、すぐに片付けに移る。


「……片付けたら、きっと……悲しみにふけって……」


 しかし、恵子けいこは文机で書物を読み始めた。手にしたときに見えた表紙からして、少し前に町で流行った長編小説だ。

 いつまで経っても恵子けいこは、倫太郎りんたろうを思って涙を流すようなことはしない。

 倫太郎りんたろうは相当な衝撃を受けたようで、池の前にしゃがみこんだまま呆然としている。そんな姿を見ていると、なんだか可哀そうになってきた。

 いつの間にか、日が暮れ始めている。


かつらさん、そろそろお部屋に戻りましょうか」


 なつめが声をかけてみるが、耳に届いているのか怪しい。それでも、もう一度名前を呼ぶと、倫太郎りんたろうは無言のまますっと立ち上がった。


「……そうだよな……こんなうるさいだけの旦那、いなくなっても……ははは」


 ひとり言をぶつぶつ呟きながら、亡霊のように来た道を戻っていく。その背中は痛々しくて、かける言葉も見つからず、なつめはただ見送るしかなかった。


「ど、どうしよう……」


 心残りを晴らすどころか、むしろ増やしてしまった可能性すらある。

 焦るなつめに対して、伊智いちはいたって冷静に返す。


「まあ、今更後悔しても時間は元に戻せないし。本人が受け止めて、どうするか決めるしかないよ」

「……うん。とりあえず、部屋まで送り届けてくる!」


 あの調子では、門を出て森の中に迷い込んだりしてしまってもおかしくない。

 なつめは、ここに来る時に比べてずっと小さくなった倫太郎りんたろうの背中を追いかけた。

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