第一章 第三話
「ここが夜見之屋だよ」
門の正面にある建物に入ると、すぐそこが受付になっていた。行燈が灯っていて明るく、温かみのある空間だ。
「あれ、いないな」
履物を脱いであがり、
「事務室かな。あ、この宿の主人が
「
「ああ、
すぐに返事があって、
事務室は十畳ほどの部屋で、本や書類で溢れていた。奥の文机の前には男がひとり、書面に筆を走らせている。
その男の頭の上には熊のような丸い耳が付いていた。
「
そして、
「どういうことだ。来るのは、人間の男じゃなかったのか?」
「弟の代わりに来たらしいです」
「らしいですって、言われてもなぁ」
「あの私、宮守棗と言います。弟の代わりに、ここで働かせてもらえませんか」
「だめだ。選ばれた呼び人が変わったなんて話、聞いたことない。黄泉の国の連中になんて言うんだ。もともと選ばれた人間を連れてきてくれ」
「そんな……」
ぴしゃりとはねのけられて、
「お願いです。わたしに働かせてください。どんな仕事でも精一杯がんばりますから」
すると、
「でも、帰ってもらって全部なかったことに……とはできないんですよね?」
「まあな。その札がある以上、誰かしらこちらにいなければならない」
「黄泉の連中は魂の数で世界の均衡をはかっているからな。札一枚に対して魂ひとつ。札があるのに働き手がこちらの世界にいないとなると、それはそれで黄泉の連中が黙ってないな」
「じゃあ、いいじゃないですか。働いてもらえば」
平然と言ってのける
「お前……俺の苦労も知らないで」
「それは、同情しますけど。でも、うち人手不足なんですよね?」
「そりゃそうだが……」
「お願いします。わたしをここに置いてください」
「わかった。仕方ない。黄泉の国には俺がなんとか言っておく」
「本当ですか……!? ありがとうございます!」
「ああ。明日からさっそく働いてくれ」
それから、
「
「え、俺ですか?」
いきなり名指しされて、
その表情からは、かすかに拒絶が感じられた。
「お前以外に誰がいるんだ」
「俺以外にも従業員いるじゃないですか」
「ここで働かせたらどうだって言ったのはお前だろ。それなら、お前が仕事を教えてやるのが筋だろう」
「そんな……俺じゃないほうがいいと思いますけど。俺、人間のこと苦手なんです」
はっきり苦手と言われ、胸がちくりと痛む。さっき、ここで働けるように後押ししてくれて嬉しかったのだけれど、それも吹き飛んでしまった。
「人間ってよくわからないですし」
「何を言っているんだ。これから一緒に働くっていうのに。半妖と人間で協力して、お客さまのおもてなしをする。それが、この宿の従業員の務めだ。わかったか?」
「……わかりました。仕事は教えます」
結局のところ上司には逆らえないのか、渋々といった感じで
「よし、わかったら今日はもう撤収。
事務室を後にして、建物の外廊下を通り別の建物へと向かう。
案内された部屋は、六畳一間の和室だった。
布団や鏡台など必要最低限のものは用意されている。
「いろいろ、ありがとう。明日からよろしくね。なるべく、迷惑をかけないようにするから」
苦手というからには、あまり人間と関わりたくないのではないだろうか。
笑顔で言ったものの、
「別にいいよ、これくらい。それに、さっきは……ごめん。苦手とか言って。嫌な思いさせたよね」
「ううん、いいの」
伊智は気まずそうにしながら、ぽつぽつと続ける。
「
目を伏せていた
「俺、人当たりよくないし無愛想だから。それもあって、仕事を教えるなら別の人がいいんじゃないかと思っただけ……」
「そんなことないと思うけど」
「部屋のこととか丁寧に教えてくれたし。さっきもここで働けるようにって、
たしかに態度は素っ気ないけれど、ところどころに優しさを感じる。
苦手と言われたことで、それも勘違いだったのかと思いかけたけれど、こうやってわざわざ謝ってくれるあたり間違いではない気がした。
「……そう。まあ、そういうことだから。あまり気にしないで。おやすみ」
相変らず淡々とした口調で言い残して、
夜ももう更けている。お風呂をもらって寝る支度を整えると、布団を敷いた。
風が戸を叩く音が遠くから聞こえるほど、静かだった。慌ただしさで麻痺していたけれど、急に心細さに襲われる。
元いた世界から遠くに来てしまったはずなのに、畳のにおいは同じだった。懐かしさが胸に押し寄せ、
明日から、どんな日々が待ち受けているのか想像もつかない。この場所で、ちゃんとやっていけるのだろうか。
それでも今は、明日のためにとにかく眠ろう。
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