第二章 魔女の旅路
第1話
陽が落ちきらぬうちに、宿〈金の穂〉の広間には灯がともされた。木製の梁に吊るされたランタンの淡い光が、夕暮れを惜しむようにゆらゆらと揺れる。
今夜も併設された酒場の一角では酒が注がれ、肉が焼かれ、笑い声が響いている。その中心にいたのは、年の頃二十代半ば、金茶の巻き毛に鮮やかな羽飾りを差した若き吟遊詩人だった。肩掛けのマントは旅の埃を帯びていたが、胸元には小さな銀のリュートが誇らしげに揺れている。
「さあ、皆さん! 今夜はかつて栄華を極めた王国の昔語りとまいりましょう。――忘れられたはずの、あの『宵闇の魔女』と、英雄の唄!」
酒杯が掲げられ、手拍子がわき起こる。吟遊詩人はひとつ笑って、リュートの弦を優しく爪弾いた。
その旋律は、最初から冷たかった。まるで薄明の霧を抜けてくる風のように、静かで、芯を刺すように。
――夜よりもなお暗き、
その名に宿る呪い。
古の塔に眠りしは、
世界を蝕む〈宵闇の魔女〉。
黒き翼を広げれば、
空は裂け、海は沸き、
栄えし王家はひれ伏して、
千の街が灰となる――。
聴く者たちの表情が変わった。陽気な笑いは薄れ、代わりに小声でひそひそと話している。
――恐れられしはその力、
なぜに怒り、なにを求めたか。
人の知る由はなし。
ただ、災厄は訪れ、
王国の時は終わった――。
吟遊詩人はリュートをかき鳴らし、今度は一転して明るい旋律を乗せる。低く重かった調べが、空を駆ける風のように軽やかになる。
――だが、そこに現れし者あり。
陽の如き剣を携えて、
人々の祈りをその胸に。
名は〈蒼銀の英雄〉!――
待ってましたとばかりに、数人の酔客が手を叩いた。あらゆる英雄譚は、どんな田舎の村でも大人気だ。
「よっ、蒼銀の英雄様!」
「魔女を封じた大英雄!」
――青き火を刃にまとい、
魔女の塔へと駆け上がる。
千の呪詛も恐れず、
ただ一閃、雲を裂き。
遂に魔女を封じたる。
その魔女がかつて、
愛した者だったとしても――。
吟遊詩人の手が止まり、広間には一拍の静寂が降りた。その後、歓声がわき起こる。
吟遊詩人は歓声に笑みを返しつつ、指先を再び弦へと添えた。今度の旋律は、晴れ渡った空に一筋の曇りが差し込むように、どこか物憂げな調べだった。
唄はまだ続く。次にやってきたのは、哀しみだった。
――されど、
封ぜられし宵闇の魔女、
その塔にて眠るもなお、
大地は癒えず、空は鳴き、
王国は崩れ、民は散る。
英雄は剣を収めし後、
陽の道を歩まずして、
名も、姿も、世に遺さず。
ただ、風の噂となりにけり。
かくして栄えし王国も、
城は朽ち、門は崩れ、
最後の王は火の中に、
夢と共に消え失せた――。
場の空気がそっと、静まり返る。旅人の一人がため息をつき、宿の女将は手元の皿を磨く手をふと止めた。
――けれど、
灰の中にも種はあり、
涙のあとに笑みは咲く。
民は集い、炉辺に灯し、
パンを焼き、麦を育てる――。
その調べは、確かに哀しみを帯びていた。けれど、絶望ではなかった。荒れ果てた土地にも芽吹く若草のように、かすかなあたたかさがあった。
――語れ、伝えよ、唄を紡げ。
闇に挑んだ勇の名を。
忘れられた魔女のことも、
やがて誰かが見つめ直す。
これは終わりの唄にあらず、
今を生きる者たちの、
はじまりの唄――。
吟遊詩人は最後の一音を優しく弾いた。それは、夜の帳が落ちる直前、ほんのひととき空を彩る茜色の光のように――儚く、けれども確かだった。
しばしの沈黙ののち、ぽつりと誰かが拍手を打った。それが連なり、やがて酒場はふたたび温かな音で満たされていく。
「良い唄だったよ、兄ちゃん」
「やっぱり英雄様は大したもんだな!」
吟遊詩人はにこりと微笑み、深く一礼した。
「皆さんがこうして耳を傾けてくださる限り、唄は生き続けます。今日の夜が明けるように、明日も、また」
その唄を、誰が本当に信じていたのかは分からない。だが、少なくともその晩、宿にいた者たちは、ひととき心を同じ物語に重ねていただろう。
――そして、その広間の片隅。
私は、手にした酒杯を静かに置いた。向かいの席には、金の後ろで束ねた少女が、楽しげに拍手を送っている。
「随分と楽しそうですね」
「だって、魔女様が目の前にいると思うとなんだかおかしくて」
くすくすとエルさんは笑う。
「そろそろ慣れませんか? この唄を聞くのは、私でも3度目ですよ」
「慣れてきたから面白いんです。素直に面白がれるというか。最初はルナ様がどう思うだろうとか、魔女様はそんなじゃないとか思ったんですよ?」
そう言われると、私としても何も言えない。
「……そろそろ寝ますよ」
「はーい」
エルさんは一層おかしそうに笑う。誤魔化していることは、既に筒抜けだった。
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