第十一章:怨嗟の顕現

【🪭1. 闇の校舎】

 鉄製の校門をくぐり抜けた瞬間、静の肌を刺すように冷たい空気がまとわりついた。

 昼間とはまるで異なる濃密な静寂。

 そしてその静寂の奥底から滲み出してくるような言い知れぬ「気配」。

 それは湿っぽく重くそして明確な悪意を帯びて静の五感を圧迫してくる。

 校庭の隅に植えられた桜の木々も闇の中で不気味なシルエットを描きまるで異界の番人のように静を見下ろしていた。

 静は深呼吸を一つし懐から例の扇子を取り出した。

 桐箱からは出さず布に包まれたままのそれを左手にしっかりと握りしめる。

 そしてもう片方の手には朱鷺から渡された勾玉の入った絹の袋を。

 それらが今の静にとって唯一の心の拠り所だった。

 校舎の昇降口は固く施錠されているように見えた。

 だが静がそっと扉に手を触れるとまるで意思を持ったかのようにするりと鍵が外れ重い扉が軋む音もなく内側へと開いた。

 招き入れられているのかそれともこれは罠なのか。

 静は一瞬ためらったが意を決して暗闇が口を開ける校舎の中へと足を踏み入れた。

 一階の廊下は月の光も届かず完全な闇に包まれていた。

 自分の立てる足音だけがやけに大きく響く。

 静は壁伝いに慎重に進みながら聴覚とそして第六感とも言うべき気配を探る感覚を研ぎ澄ませた。

 教室という教室の扉は固く閉ざされその向こう側からは何の物音も聞こえてこない。

 だが静にはわかっていた。

 この静寂こそが嵐の前の静けさなのだと。

 不意に前方の廊下の突き当たり保健室の扉がギィ…と錆びついた蝶番のような音を立ててゆっくりと内側へと開いた。

 闇の奥から何かが手招きをしているかのように。

 静は息を呑み警戒しながらもその開かれた扉へと近づいていく。

 保健室の中もまた完全な闇だった。

 ただ鼻を突くのは消毒液の匂いではなくもっと生臭くそして甘ったるいような奇妙な異臭。

 静が一歩部屋の中に足を踏み入れたその瞬間だった。

 バサッ、バサバサッ!

 天井近くの棚から数人の人影がまるで意思を持たない操り人形のように不自然な動きで静へと飛び掛かってきた。

 咄嗟とっさに身をひるがえし攻撃をかわす静。

 暗闇に目が慣れてくるとそれが数人の男子生徒であることそして彼らの瞳には何の光もなくただ虚ろに前を見つめ口元からは涎のようなものを垂らしているのがわかった。

 その動きはぎこちなくしかし人間離れした力強さで静の細い身体を捕らえようと迫ってくる。

 河田映身に操られた哀れな信奉者たちだ。


「っ…!」


 静は朱鷺から教わった体捌き《たいさばき》で彼らの攻撃を巧みにかわし続ける。

 だが相手は数人。

 しかも痛みを感じないかのように無我夢中で襲いかかってくる。

 このままではいずれ捕まってしまう。

 静は懐剣を抜くように右手に扇子を構え直した。

 そして一瞬の隙を突き床を蹴って後方へ大きく跳躍する。


「ギケイ流…序ノ舞…『浄玻璃じょうはり!」


 静の澄んだ声が闇に包まれた保健室に凛と響いた。

 その声に応えるかのように静の身体からそして手にした扇子から淡いしかし清浄な光がほとばしる。それは闇を祓う破魔はまの光。

 光に触れた男子生徒たちは一瞬苦しそうな呻き声を上げその動きを止めた。

 そして彼らの瞳に宿っていた虚ろな光がわずかに揺らぎ正気を取り戻しかけたかのように見えた。

 だがそれも束の間だった。


【…無駄ナ…抵抗ヲ…】


 どこからともなくアプリを通じて響いていたあの古風でそして今や怨念と憎悪に染まった底冷えのするような「声」が今度は静のそして操られた生徒たちの脳裏に直接しかし空間を震わせるかのような強い力をもって響き渡った。

 その声と同時に動きを止めていた男子生徒たちが再びより凶暴な動きで静へと襲いかかってくる。

 彼らの身体からは黒い靄のようなものが立ち上りその力を増しているのがわかった。


「くっ…!」


 静は再び舞の型で応戦しようとするが多勢に無勢。

 徐々に追い詰められていく。

 その時静の左手に握られていた絹の袋その中の勾玉がカッと熱を帯び強い光を放った。

 勾玉から直接静の心に「守れ」という強い意志が流れ込んできた。

 それは朱鷺が込めた「守りの念」だった。

 光に包まれた静の身体が一瞬宙に浮き上がるように軽くなる。

 そして周囲の時間がほんのわずかにスローモーションになったかのように感じられた。

 この機を逃すまいと静は男子生徒たちの間隙を縫うようにして保健室の奥窓際へと一気に駆け抜けた。

 窓を背にし再び扇子を構える。

 だが男子生徒たちは執拗に静を追い詰めてくる。

 逃げ場はない。


【🪭2. 理科室の悪夢】

 保健室での危機を脱した静は廊下を駆ける。

 胸元の袋の中で確かな存在感を示す義経の魂が道標となり迷いなく突き当たりの理科室へと向かっていた。

 理科室の重い扉はわずかに開いていた。

 その隙間から漏れ出しているのは光ではない。

 濃密な邪気と鼻を突くホルマリンの匂いそしてそれらとは異質なまるで沼の底から立ち上るような生臭い腐臭が混じり合った不快な「気」の奔流だった。

 静は意を決して扉に手をかけゆっくりと押し開いた。

 ギィ、と軋む音と共に目に飛び込んできたのは異様という言葉ですら生ぬるい冒涜的な儀式の光景だった。

 部屋の中央にはチョークで描かれたのであろう歪で巨大な魔法陣のようなものが床一面に広がっている。

 その中心で河田映身が虚ろな目で宙を睨みつけながら恍惚とした表情で何かを呟いていた。

 彼女の周りには数人の女子生徒がまるで巫女のように侍り全員が手にしたスマートフォンを祭壇に捧げるように掲げている。

 スマートフォンの画面は一様にあの黒い鳥居のアプリを起動させ不気味な光を放っていた。

 壁際にずらりと並んだ標本の棚が魔法陣から発せられる青白い光に照らし出され瓶の中で揺らめく生物たちの影を壁や天井に不気味に踊らせている。

 静の侵入に河田映身がゆっくりと首を巡らせた。

 その瞳にはもはや以前の面影はない。

 あるのは人間ではないもっと古くそして冷たい何かの光。


【…来タカ…】


 映身の口が動いたわけではない。その場にいる全員の脳裏に直接あの泰衡・頼朝の怨念の声が響き渡った。


【…我ラガ儀式ヲ汚ス…悪シキあやかしノ眷属メ…】


「あなたこそ…何をしているの! みんなを元に戻して!」


 静の叫びはしかし映身には届いていなかった。

 彼女は嘲るように口元を歪めると掲げていたスマートフォンを高く天へと突き上げた。


【…見ルガイイ…我ラガチカラヲ…コノ学び舎ニ眠ル…命ナキ命ノ…怒リヲ…!】


 その声に呼応するように理科室全体がゴ、と地鳴りのように一度揺れた。

 ガシャン! ガシャン!

 壁際の棚から標本の入ったガラス瓶が次々と床に叩きつけられけたたましい音を立てて砕け散る。

 飛び散ったホルマリン液の中からぬらりとまず一体の蛇が姿を現した。

 本来ならば薬品で白く変色し硬直しているはずの身体がまるで生きているかのようにいや生きていた時以上の滑らかさで床を這い鎌首をもたげその虚ろなガラスの眼で静を捉えた。


『…来たぞ、小娘! まずは蛇だ!』


 懐の袋の中から義経の鋭い声が飛ぶ。

 蛇は音もなく床を滑り一直線に静へと襲いかかってきた。

 静は咄嗟に後方へ跳躍しその毒牙をかわす。

 だがそれは始まりに過ぎなかった。

 割れた瓶の中から次々と異形の者たちが這い出してくる。

 巨大なムカデが壁を走り不気味なほど大きなカエルがその粘液にまみれた身体で床を跳ねそしてホルマリン漬けにされていた魚の群れがまるで空中を水の中であるかのようにひれの動き一つで自在に泳ぎ回り始めた。

 そこは悪夢そのものだった。


「ギケイ流…破ノ舞…『火車かしゃ』!」


 静は朱鷺から教わったより攻撃的な舞の型を繰り出す。

 その身のこなしは炎が燃え盛る車輪のように激しくそして流麗だった。

 手にした扇子が暗闇の中で赤い光の軌跡を描き迫り来るムカデの群れを薙ぎ払う。


『左様! その舞だ! だが、カエルに気をつけろ! 奴の狙いは舌だ!』


 義経の警告と同時に一体のカエルがその口から信じられないほど長い舌を伸ばし静の足首を絡め取ろうとする。

 静は独楽のように回転することでそれをかわし逆に扇子の先端でその舌を鋭く打ち据えた。

 だが敵の数はあまりに多い。

 空中を舞う魚の群れが硬い鱗を刃のようにして四方八方から静へと襲いかかる。


『…魚ノ群レハ…アノ娘(映身)ガ中心…! 舞デ惑ワセ、本体ヲ叩ケ!』


 義経の戦術眼は混沌とした戦場の中で的確に敵の弱点を見抜いていた。

 静は義経の言葉を信じ一度大きく息を吸い込むと舞の型をさらに変えた。

 それは見る者の目を幻惑するような複雑でそしてどこか妖艶さすら感じさせる舞。

 その動きに魚の群れが一瞬統率を失い動きが鈍る。

 その隙を突き静は床を蹴った。

 狙うは儀式の中心にいる河田映身。

 この悪夢を終わらせるために。


【🪭3. 怨嗟の顕現】

 静が河田映身に迫るその直線的な動きを嘲笑うかのように。

 理科室の奥最も深い闇の中に佇んでいた「それ」がぎ、ぎ、ぎ、と錆びついた蝶番のような音を立ててゆっくりと動き出した。

 人体模型。

 その表面には全身を巡る毛細血管がまるで生きたミミズのように赤く青くおびただしい数描き込まれている。

 剥き出しの筋肉の繊維はぬらりとした光沢を放ちその瞳があるべき場所にはただ覗き込む者の魂を吸い込むかのような空虚な闇の穴が空いているだけだった。

 人体模型は静と映身の間に立ちはだかるように一歩踏み出した。

 その足取りは重く床を鈍く揺るがす。

 標本たちが放つ動物的な邪気とは明らかに異質だった。

 それは人の形をしているが故のより直接的で冒涜的な恐怖。


『…来るぞ、小娘! アレは今までの奴らとは違う!』


 義経の警告が静の脳髄を鋭く刺す。

 人体模型はその右腕をありえない速度で振り上げた。

 静は咄嗟に扇子を盾のように構えるが叩きつけられた一撃は彼女の想像を絶する重さだった。


「かっ…!」


 扇子を通して伝わる衝撃に静の細い腕が悲鳴を上げる。

 身体ごと数歩後ずさり壁に背中を打ち付けた。

 人体模型は追撃の手を緩めない。

 その腕が関節を無視した不自然な角度でぐにゃりと曲がり蛇のように伸びて静の喉元を目がけて襲いかかる。

 速い。

 かわしきれない。

 舞の型も体捌きも間に合わない。

 絶望的な予感が静の思考を凍りつかせたその瞬間だった。

 彼女の懐、朱色の紐で首から下げられた絹の袋がまるで心臓のように一度強く脈打った。

 袋に縫い付けられた護符が内側から放たれる強大な力に耐えきれずじりじりと焼け焦げるような音を立てる。


『…ええい、是非もなし!』


 義経の切迫した声。

 次の瞬間静の胸元で絹の袋が内側から突き破られた。

 中から飛び出してきたのはスマートフォンではない。

 あの怨嗟の躯の身体を覆っていたものと同じ黒く湿ったおびただしい数の木の根だった。

 根はまるで意志を持った黒い蛇のように瞬時に静の右腕に絡みついた。

 しかしそれに痛みや不快感はない。

 むしろ静の筋肉や神経と完全に一体化し彼女の動きを補強し増幅させる

 それは生きた鎧のようにその腕を覆っていく。

 そして根は腕の先彼女が握る扇子とすら融合しその先端からさらに無数の黒い枝を爆発的に伸ばした。

 人体模型の指が静の喉に触れるまさにその寸前。

 静はもはや防御ではなく迎撃を選んだ。

 義経の力が宿った右腕を薙ぎ払う。

 扇子の先端から伸びた黒い木の根がまるで巨大な鞭のようにしなり人体模型の腕をそして胴体を凄まじい威力で打ち据えた。

 バキィッ! という硬いものが砕け散る乾いた音。

 人体模型はその衝撃で大きくよろめき後方へと吹き飛ばされる。


【…ナ…ニ…!?】


 儀式の中心にいた河田映身の口から初めて怨念のものではない彼女自身の驚愕の声が漏れた。

 静はよろめきながらも再び扇子を構えた。

 右腕に絡みついた木の根は静の意思に応えるかのように蠢き次なる攻撃に備えている。

 ギケイ流の舞と怨嗟の躯の物理的な破壊力。

 静の今までにない戦い方が今始まろうとしていた。


【🪭4. 魂の鎮魂歌】

 静は自らの右腕に絡みつく黒く蠢く木の根を見つめていた。

 それはおぞましい異形のはずなのに不思議と身体に馴染みまるで元から自分の一部であったかのような一体感があった。

 彼の魂が血流となって腕を駆け巡る感覚。


『…小娘、感心シテいる場合カ! 奴が来るぞ!』


 彼の叱咤が静の意識を戦闘へと引き戻す。

 吹き飛ばされた人体模型がギチギチと関節を軋ませながら再び立ち上がろうとしていた。

 その身体は先ほどの一撃で所々が砕けひび割れている。

 だがその空虚な瞳の奥の闇は怒りと憎悪でより一層深まっていた。

 周囲では動きを止めていた標本たちもまた河田映身が唱える呪詛に応えるかのように再び活動を再開する。


【…殺セ…ソノ者ヲ…喰ライ尽クセ…!】


 怨念の声が理科室の空気を震わせる。


「ねえ」


 静は彼に語りかけた。


「力を貸して」


『…フン、言ワれるマデモない…』


 彼のぶっきらぼうな返事と共に右腕の木の根が静の意志に応えるようにぎゅっと力を込めた。

 静は床を蹴った。

 もはや逃げ惑う舞ではない。

 敵を屠るための戦の舞だ。

 人体模型がひび割れた腕を振りかざして突進してくる。

 静はそれを真正面から受け止めるのではなく身体を独楽のように回転させその側面へと回り込んだ。

 そして彼の力が宿る右腕をしなやかに振るう。

 扇子の先端から伸びた黒い木の根が今度は巨大な刃のように鋭く硬質化し人体模型の脇腹を深々と切り裂いた。

 プラスチックの破片が火花のように散る。

 だが人体模型は怯まない。

 空いた左腕で静の身体を掴もうとする。

 静はその動きを予測していたかのようにさらに舞い跳躍する。

 空中で身体を反転させ人体模型の背後へと着地した。


『…背後ヲ取った! 叩き込め!』


 静は扇子を逆手に持ち替え木の根が絡みついた右腕で人体模型の背骨にあたる部分を突き穿った。

 ズブリという鈍い感触。

 だがまだだ。

 蛇がカエルが魚の群れが一斉に静へと襲いかかる。

 静は舞う。

 朱鷺から教わったあの特別な型。

 無我夢中でただ身体が求めるままに。

 その動きはこれまでのどの舞とも異なっていた。

 時に激しく時に優雅に。

 静が跳べば木の根が鞭のようにしなって周囲の敵を薙ぎ払い静が回れば木の根が嵐のような渦となって迫る脅威を弾き返す。

 ギケイ流の優美な体捌きと怨嗟の躯の荒々しい破壊力が完璧に融合していた。

 それはまるで一匹の白い狐が戯れるようにしかし容赦なく獲物を狩る姿にも似ていた。


【…オノレ…オノレ…!】


 怨念の焦りが空間に響く。

 河田映身の顔が苦痛に歪み始めた。

 そしてついに静の舞がその頂点に達した。

 それは彼女自身もまだその本当の名も意味も知らない古の型。

 朱鷺がいつか静かに語っていた「全ての始まりの舞」。

 その最後の型を静が無意識のうちに踏んだその瞬間。

 静の身体全体からそして右腕の木の根から純白のしかしどこか獣性を帯びた光の奔流がほとばしった。

 それは邪を滅する破魔の光であり同時によろめく魂を鎮める慈愛に満ちた鎮魂の光でもあった。

 光は理科室の隅々までを照らし出し床に描かれた巨大な魔法陣を一瞬にして焼き切る。


「ギャアアアアアッ!」


 怨念のそして河田映身自身の絶叫が重なった。

 光に触れた標本たちはその動きを止め元の命なきモノへと戻っていく。

 そして人体模型は内部から浄化の光に焼かれ塵となって崩れ落ちた。

 河田映身は呪詛の核が破壊された衝撃でどっと血を吐きその場に倒れ伏す。

 彼女を囲んでいた信奉者の少女たちもまた糸の切れた人形のように次々と意識を失っていった。

 映身は薄れゆく意識の中憎悪に満ちた目で静を睨みつけるとその身体が黒い霧に包まれるようにして床に溶け込み姿を消した。

 怨念が最後の力で彼女を逃したのだ。

 理科室には静寂が戻った。

 静の右腕に絡みついていた木の根は役目を終えたかのようにするすると腕から離れ胸元の袋の中へと吸い込まれていく。

 激しい息をつく静の身体からまだ淡い光が立ち上っていた。

 そしてその光の中で静の姿が一瞬だけゆらりと揺らぐ。

 黒い髪は白銀にその手足はしなやかな獣のそれにそして背中にはふわりとした大きな白い尾が――。


 白い狐の幻影が静の姿に確かに重なって見えた。

 だがそれも一瞬。

 光が収まると共に幻は消えそこにはただ呆然と立ち尽くす一人の少女の姿があるだけだった。


【🪭5. 夜明けの誓い】

 理科室には破壊された標本の残骸とホルマリンのむせるような匂いそして浄化の光が残した清浄な気が入り混じり異様な静寂が満ちていた。

 静はその場にへたり込み荒い息を繰り返していた。

 全身の筋肉が痛みアドレナリンが引いていくと共に凄まじい疲労感が全身を襲う。

 ふと自らの胸元でかろうじて首にかかっている絹の袋に目をやった。

 袋はもはや元の美しい姿を留めていなかった。

 内側から放たれた強大な力に耐えきれず所々が焼け焦げ縫い付けられていた護符の文字は黒く炭化している。

 朱色の紐も一部が熱で溶け千切れかかっていた。

 だが袋の中に収められたスマートフォンは奇跡的に無傷だった。

 その中からか細くしかし確かに彼の気配が感じられた。


『…小娘…』


 声は先ほどまでの力強さが嘘のように弱々しく途切れ途切れに聞こえる。


「…あなたなの?」


 静はスマートフォンをそっと両手で包み込むようにして尋ねた。


『…左様…。先刻はワレを「ねえ」などと呼んだな。無礼であろう…』


 弱っていてもその口調には武士としてのプライドが滲んでいる

 。静はその物言いに極限の緊張から解放された反動もあってか少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ、なんて呼べばいいのよ。怨嗟の躯さん?」


 少し意地悪く返してみる。


『…たわけ…。せめて、判官(ほうがん)様とでも呼ぶがいい…』


「判官様、ねえ…」


 静はその響きを口の中で転がしてみた。しっくりこない。

 あまりに遠い歴史上の人物の名前だ。

 自分とこの腕の中で弱々しく息をする魂との間にはもっと違う呼び方がふさわしい気がした。

 そして自然に口をついて出た。


「じゃあ、九郎(クロウ)。それでいいでしょ。私たちの間ではそれがちょうどいい」


『―――っ』


 その瞬間スマホの奥底から彼の魂が激しく揺らいだのを静は感じた。

 それは驚きか怒りかあるいは八百年という時の彼方から不意に呼びかけられた懐かしい響きに対するどうしようもない戸惑いか。

 長い長い沈黙の後ようやく絞り出すような声が返ってきた。


『…好きにせよ。…たわけが』


 その声には呆れとほんのわずかな諦めそして静にはまだ分からない複雑な響きが混じっていた。

 夜が白み始めた頃静はふらつく足取りで校舎を出た。

 校門の外では朱鷺がGクラスの横に立ち静かに待っていた。

 朱鷺は消耗しきった静の姿とその瞳の奥に宿ったこれまでとは比較にならないほど強くそして澄んだ光を見て何も言わずに頷いた。

 車中で朱鷺は静から事の顛末を聞いた。

 そして静が「九郎」とその魂を呼んだことを知ると静かに目を伏せた。


「…そうかい。ならばもう迷っている暇はないね」


 朱鷺は前を見据えたまま言った。


「この町の呪詛の根は一度断ち切られた。だが大元はまだ残っている。そして九郎の魂もこのままではいずれ消滅するか再び怨念に飲み込まれるかだ」


「どうすれば…」


「藤沢へ行くのです。神奈川の藤沢へ」


 朱鷺の言葉は静の心にすとんと落ちた。


「そこには九郎…源義経の首が祀られているという白旗神社がある。彼の魂を完全に解放しそしてこの長きにわたる怨念の連鎖を断ち切るにはそこへ行くしかない」


 静は頷いた。隣の席にはもう祖母の姿だけではない。

 静かにしかし確かに九郎の魂がその旅路の始まりを待っている。

 白狐への覚醒の予兆そして九郎という名の絆。

 静の戦いはまだ始まったばかりだ。

 物語は新たな舞台へとその舵を切る。

(第十一章 完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る