序章 鎌倉の黒き焔(ほむら)

【🪭1. 棟梁の恐怖と、尼将軍の囁き】

 ―――そして、時は流れる。

 平家を滅ぼし源氏の白旗が日ノ本を覆い尽くさんとしていた、その頃。

 武家の古都、鎌倉。その館の最も奥深く。

 源頼朝はただ一人、書状の山と向き合っていた。

 天下は今やこの手にある。

 だがその完璧に整えられたはずの顔には満足の色はない。

 そこにあるのは、深い疲労とそして氷のように冷たくこびりついた一つの「恐怖」だった。

 弟、九郎義経。

 そのあまりに美しすぎる物語。

 そこに音もなく妻である北条政子が、現れた。

 彼女は頼朝の隣に座るとまるで彼の心の奥底を覗き込むかのように静かに言った。


「…九郎殿の人気は日増しに高まっておりますな。…都の民はもはや貴方様よりもむしろ彼の方を次の棟梁にと望んでいるやもしれませぬ」


 その一言一句が頼朝の心の最も痛い場所を的確に抉っていく。


「…そして後白河の院も彼を手元に置きたがっているご様子。…もし彼が院と手を組めばこの鎌倉はどうなりましょうな」


 頼朝は何も言えない。政子の言う通りだったからだ。

 嫉妬ではない。

 だが為政者として秩序を築こうとする自分にとってあの弟のコントロール不能なカリスマはあまりに危険すぎた。


「…お心を、お決めなされませ、鎌倉殿」


 政子は冷たい夫の手にそっと自らの手を重ねた。

 その手は不思議なほど温かかった。

 だがその温かさこそが頼朝の心の最後のタガを外させた。

 彼は決意したのだ。弟の魂の最も美しい部分を「生贄」として捧げることを。


【🪭2. 呪いの鍛冶師】

 その夜、頼朝は父・義朝の鎮魂のために自らが建立した勝長寿院のその最も奥深く誰も近づくことのできない一室にいた。

 御簾の奥には政子の気配がある。

 男が音もなくその部屋に現れた。闇色の狩衣を纏いその顔は深い影に覆われている。

 頼朝は彼を呼んだ。


「…道満。…芦屋道満の末裔と謳われるそなたのその外道の術見せてもらおうか」


 彼の名は、謎の呪術師、道満。


「…九郎義経の『舞』を封じよ」


 ついに頼朝は本題を切り出した。

 その言葉に道満の影に覆われた顔が心からの愉悦に歪んだ。


「…ほう。殺すのではなく封じると。…それはまた随分と悪趣味なご依頼ですな」


「…私が望むのは彼の『死』ではない。彼の『物語』の死だ」


 頼朝は弟を「意味のない力だけの記号」として永遠に歴史に晒し続けるという最も残忍な復讐を望んでいるのだ。


「…なるほどなるほど」道満は感心したように頷いた。「…よろしいでしょう。そのご依頼この道満がお引き受けいたしましょう」


「だがそのためには相応の『贄』と『器』が必要となります」


「申せ」


「まず『楔』。九郎殿のその『血』」


「次に『動力』。強力な怨念。特に九郎殿への嫉妬心が強い魂を選りすぐれば効果は倍増いたします」


 頼朝の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。

 上総広常。坂東武者の鑑と謳われながらその強大すぎる力を危険視され自らの手で粛清した老獪な武将。彼ならば九郎の天賦の才に誰よりも深い嫉妬を抱いているに違いない。


「…上総広常を使え」


「…ほう。それはまた極上の『贄』を。…承知いたしました」


「…そして最後に最も重要なもの」


 道満は一歩頼朝に近づいた。


「…その強大な呪いを、受け止め、そして対象の魂に送り届けるための、特別な『器』が必要となります」


道満は一歩、頼朝に近づいた。


「頼朝様。呪いとは憎しみだけでは完成しませぬ。最も強力な呪いとは**『愛』**から生まれるのでございますよ」


道満はうっとりと囁く。


「愛が深ければ深いほど、それが裏返った時の憎悪は星をも砕く力となる…。貴方様の弟君への、そのあまりに深すぎた愛情こそが、最高の『器』となるのでございます」


その言葉は、頼朝の心の奥底に眠っていた最も暗く、そして純粋な部分を的確に抉り出した。

彼の脳裏に、ある覚悟が定まる。


(…そうだ。うってつけの『器』がある…)


頼朝は、道満を見据え、冷徹に言い放った。


「…源氏の重宝『膝丸』。その『影』を打つのだ。九郎の血と我が血、そして無数の怨念を混ぜ合わせ、この世で最もおぞましい呪いの短刀をな」


【🪭3. 黒き焔の儀式】

 地下の祭壇でおどろおどろしい儀式が始まった。

 祭壇の四方からまず上総広常の怨霊が引きずり出されてきた。その巨躯は血に濡れ豪放な顔は信じられないという驚愕と裏切られた怒りに歪んでいる。


【…頼朝…公…! なぜこの広常を…! ワレは貴方様を坂東の武士の棟梁と信じこの命を捧げたはず…!】


「…そうだ広常」頼朝は冷たく言い放つ。「お前のその強大すぎる力そして九郎への嫉妬心。それこそが今必要だ。我が大義の礎となれ」


【…オオオオオ…オノレェ…! 頼朝…! 九郎…! 源氏の者どもめ…! 末代まで呪ってくれるわ…!】


 広常の怨念に続き比企能員、畠山重忠、和田義盛…と次々と頼朝が粛清してきた御家人たちの怨霊が呼び出される。


【…ウオオオ…】


【…頼朝…! 許さぬ…! 決して許さぬぞ…!】


 怨霊たちの悲鳴と呪詛が地下の空間に渦を巻く。

 道満はその全ての怨念を祭壇の中央に置かれた一本の名もなき鉄塊へと容赦なく注ぎ込んでいく。

 やがて鉄塊は自ら赤黒い不吉な光を放ち始めた。

 そして鍛冶炉の中に頼朝の「八幡神への狂信的な信仰心」そのものが燃え上がった聖なるそしてだからこそおぞましい**「黒き焔」**が轟々と燃え上がった。

 術師はその赤黒く光る鉄塊を黒き焔の中へと投じた。

 怨霊たちの断末魔の叫びと金属が溶けるような不快な音が混じり合う。

 鉄塊は悲鳴を上げながら血を啜りその形を変えていく。

 その地獄絵図を目の当たりにしながら頼朝の心は微動だにしない。


(…見よ、九郎。これが兄である私の、そなたへの本当の『愛』の形だ…)


(そなたの、その美しすぎる物語は、この武士の世には毒なのだ。だから私が、その物語からそなたを解放してやる…)


(そなたを、永遠に誰も傷つけることのできない、ただ純粋な『力』という記号へと、聖別してやるのだ…)


(…感謝するがいい。この兄の、海よりも深い慈悲を…)


 やがて焔が収まった時。

 そこには一本の短刀が静かに横たわっていた。

 その刀身はまるで夜の闇そのものを切り取ってきたかのように光を一切反射しない。

 呪いの短刀の誕生だった。

 その刀身に道満が自らの爪で最後の呪印を刻み込んでいく。キィィィとガラスを引っ掻くような嫌な音が響いた。

「…この短刀はもはやただの武器ではございません。貴方様の弟君へのそのあまりに深すぎた愛情が生み出した一つの『芸術品』なのでございます…」


【🪭4. 密使と駒】

 頼朝はその完成したおぞましい「芸術品」を手に取ると術師に最後の命令を下した。


「…この短刀を、平泉の、藤原泰衡の元へ届けよ」


「…ほう。弟君に直接ではなく?」


「…そうだ。あの男が我が『法』に従うのかそれとも友との『情』に生きるのか。…試す良い機会だ」


 道満は満足げに頷くと音もなく闇の中へとその姿を消した。

 頼朝は一人残された私室で窓の外遠い奥州の空を見つめていた。

 その彼の背後にすっと政子が、現れる。

 彼女は頼朝のその冷え切った肩にそっと手を置きこう囁いた。


「…これでようやっと我らの息子のための世が始まりますな、鎌倉殿」


 頼朝は頷きそして部屋を出ていく。

 一人残された政子。

 彼女はゆっくりとろうそくの炎が揺らめく卓上の**「水鏡」**へとその視線を移した。

 水面には彼女の美しい顔が映っている。

 だが次の瞬間。

 その顔がぐにゃりと歪んだ。

 肌は抜けるように白く鼻は鋭く尖りそしてその耳はピンと天を向く。

 そしてその瞳。

 それはもはや人間のものではなかった。

 闇の中で爛々と妖しく輝く一対の金色の獣の瞳。それはこの日ノ本のいかなる生き物とも異なるもっと古くそして大陸の乾いた砂の匂いを纏った異質の光。

 そしてその背後にはまるで炎のように揺らめく九本の巨大な尾の幻影が一瞬だけ浮かび上がりそして消えた。

 彼女の口元に浮かんだ笑みはもはや尼将軍のものではない。

その瞳のさらに奥底、政子自身も気づかぬ魂の深淵で、千年の時を生きる真の妖婦が、静かに糸を引いていた。

(序章 完)

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