第四章 栗原の風
【🪭1. 栗原駅での再会】
鈍色の空から降り注ぐ雨は、いつしか霧雨へと変わり、栗原の駅舎を濡れた絹のように包み込んでいた。
プラットホームに降り立った静は、深呼吸とともに、湿り気を帯びた空気を肺腑に満たした。
東神楽町の乾いた風とは明らかに異なる、土と草いきれの匂いが混じる、どこか懐かしいような、それでいて異質な空気。
それが、この東北の町、栗原の最初の印象だった。
人影もまばらな改札を抜け、駅舎の出口へと向かう。
小さなロータリーの向こうには、雨に煙る町並みが広がっている。
これから始まる新しい生活への期待と、拭いきれぬ不安が、静の胸の中で静かにせめぎ合っていた。
その時、一台の黒塗りの車が、「ボォン、ボォン、ボォン…」と、力強く、しかし規則的に脈打つようなサウンドを響かせ、静の目の前に滑り込んできた。
陽光を吸い込むかのような深い艶を放つ、重厚な四輪駆動車。その威圧的なまでの存在感は、この静かな田舎町の風景の中では、明らかに異彩を放っていた。
メルセデスAMG G 63。
運転席のドアが静かに開き、すらりとした長身の女性が姿を現した。
黒地に白い桔梗の紋様が刺繍された、落ち着いた色合いの和服。無駄のない所作で車から降り立ち、静の方へと向き直る。年の頃は五十代後半といったところか。高く結い上げた髪には数筋の白いものが混じっているが、それがかえって彼女の気品と、どこか近寄りがたいほどの凜とした美しさを際立たせている。
「…静」
低く、しかし凛と響く声。それは、雨音に濡れたこの町の静けさそのものを体現しているかのようだった。
祖母は、その深く澄んだ瞳で静を捉え、唇の端に微かな笑みを浮かべた。
その表情は、厳しさの中に、どこか懐かしむような温かさを秘めている。
「おばあちゃん……」
静は、知らず知らずのうちに強張っていた肩の力が抜けるのを感じ、祖母へと歩み寄った。
祖母は何も言わず、ただ静かに静の肩に手を置き、そして、もう一方の手で静の旅行鞄を軽々と持ち上げた。
その仕草には、年齢を感じさせない確かな力が感じられた。
「霧雨で濡れるし、肌寒くなってきました。さあ、参りましょうかね」
祖母は静を促し、Gクラスの助手席のドアを開けた。
静は、一瞬戸惑いながらも、その重厚なドアを押し開け、柔らかな革張りのシートに身を沈めた。
車内は、外の喧騒とは隔絶されたかのような静寂と、微かな白檀の香りに満たされている。
エンジンが始動し、Gクラスは雨に濡れたアスファルトの上を滑るように走り出した。
【🪭2. 家路にて】
車窓を流れるのは、見慣れぬ栗原の町の風景。
低い瓦屋根の家々が軒を連ね、その向こうには、雨に煙る緑濃い山並みがどこまでも続いている。
静は、黙ってその景色を目で追っていた。
隣でハンドルを握る祖母もまた、口数は少ない。
だが、その沈黙は決して気詰まりなものではなく、むしろ長年離れていた祖母と孫の間に流れる、穏やかで自然な空気のように感じられた。
しばらくして、祖母が、静かに、口を開いた。
その声は、それまでの穏やかな空気とは一線を画し、鋭く真剣な響きを帯びていた。
「…静。単刀直入に、聞きます」
朱鷺は、前を、見据えたまま、言った。
「あなたは、覚悟を、決めて、この、栗原の地に、来たのですね?」
その、問いは、静の、心の、最も、深い場所に、まっすぐに、突き刺さった。
「ギケイ流の、舞手として、この地に、渦巻く『良くないもの』と、対峙する、覚悟を」
静は、息を呑んだ。
やはり、おばあちゃんは、全て、知っている。
母が、電話で、話していた、以上のことを。
「…はい」
静は、ごくりと、喉を鳴らし、そして、はっきりと、答えた。
その、返事を聞き、朱鷺は、初めて、その、口元に、満足げな、笑みを、浮かべた。
「そう。それで、良いのです」
「あの舞は、ただの形をなぞるだけでは意味を成さない。その魂を理解し、己の魂と共鳴させねば…。そして、それには、何よりも、舞い手の、揺るぎない**『覚悟』**が、必要なのですから」
そこで一旦言葉を切ると、朱鷺は遠くを見るような目で、雨に煙る風景の向こう側を見つめた。
「ギケイ流の源流には、様々な伝承が絡み合っています。ある者は言う、かつてこの奥州の空を、それはそれは美しい鳥が舞っていたと。翼を広げれば陽光を弾き、天を翔ける様は、まさに神の使いのようであったと。その鳥の名を、朱鷺と言いました」
朱鷺、と聞いて、静ははっとした。
祖母の名と同じではないか。
「そして、もう一つ…」
朱鷺の声は、さらに低く、深みを増した。
「都を追われ、このみちのくの果てに散った、悲運の武将がおりました。そして、その武将をどこまでも追い求め、舞によってその魂を慰め、また時には、その武将の魂そのものを己が身に降ろしたと伝えられる、白拍子がおりました」
静御前。その名は、静にとって、母から、そして祖母から、幼い頃より聞かされてきた、特別な響きを持つ名だった。
「朱鷺の優雅な飛翔と、静御前の魂の叫び。それらが、この栗原の風土の中で、長い年月をかけて溶け合い、そして形を変え、ギケイ流という一つの舞になった。そう、私は考えています」
車窓の外、雨に煙る田園風景の彼方に、静はふと、白い翼を広げ、天へと舞い上がる朱鷺の幻を見たような気がした。そして、その姿はいつしか、悲しみを湛えながらも気高く舞う、白拍子の姿へと重なっていく。
「だからこそ、あの舞は、時に人を癒し、時に魔を祓い、そして時には…死者の魂すらも呼び覚ますのかもしれません」
朱鷺の言葉は、静の胸に深く静かに染み込んでいった。それは、単なる舞踊の解説ではなく、これから静が足を踏み入れようとしている、深く、そして計り知れない世界の入り口を示唆しているかのようだった。
【🪭3. 藤沢家の佇まい】
やがてGクラスは、V8ツインターボエンジン特有の重低音を響かせながら、小高い丘の中腹に佇む一軒の邸宅の門前へと乗り入れた。
重厚な瓦屋根と漆喰の白壁を持つ、堂々とした構えの古民家。
しかし、玄関へと続く石畳には現代的な間接照明が埋め込まれ、磨き上げられた黒柿の引き戸の脇には大きな一枚ガラスの窓がはめ込まれている。
伝統的な日本の建築美と、現代的な機能性が見事に調和していた。
「さあ、お入りなさい」
朱鷺に促され、静は引き戸を開けた。
磨き込まれた黒光りする土間、吹き抜けの高い天井を持つ広々としたリビング。太い梁や柱が歴史を物語る一方、白い漆喰の壁や無垢材のフローリングが洗練された開放感を演出している。
家の奥には、中庭に面して鏡張りの広々とした稽古場があった。
ここで、祖母は舞い、そして静もまた、その教えを受けることになるのだろう。
静は、その清浄な空気に身が引き締まるのを感じた。
「あなたの部屋は二階よ。案内しましょう」
朱鷺に導かれ、緩やかな木の階段を上る。
突き当たりの部屋が、静に与えられた部屋だった。
障子を開けると、畳の匂いが心地よい八畳ほどの和室。
シンプルなローテーブルと文机、そして部屋の隅には洋風のシングルベッドが置かれ、和と洋がここでも違和感なく溶け合っていた。
窓からは、遠くに雨に煙る判官森の黒々とした影が見えた。
【🪭4. 最初の夜】
その夜、栗原での最初の夕食は祖母が手ずから用意してくれた地の食材を活かした滋味深い料理だった。
食卓を二人で囲み朱鷺は多くを語らなかったがその優しい眼差しに静は長旅の疲れが少し和らぐのを感じた。
入浴を済ませ自室のベッドに潜り込んでも静の意識は妙に冴えていた。
新しい環境への緊張か昼間に感じた町の異質な空気のせいか、なかなか寝付けない。
窓の外からは雨音と時折遠くで響く獣の低い唸り声のようなものが聞こえてくる。
不意に部屋の空気が変わった。
ひやりとした何かが肌を撫でる感覚。
そして誰かにじっと見つめられているような不快な視線。
静は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。
その時確かに感じた。
スマートフォンの冷たいガラスの表面が、ほんの一瞬微かに温もりを帯びたかのように。
気のせいだろうか。
静は自身にそう言い聞かせようとしたが、胸の奥で警鐘が鳴り響く。
この町の美しい風景の裏側に何か得体の知れないものが息を潜めている。
静は言い知れぬ不安に身を縮こまらせながら、浅くそしてどこまでも深い眠りの中へと沈んでいった。
―――ふと気がつくと静は自らの部屋のベッドではなく見知らぬ森の入り口に立っていた。
夜。
だが月明かりが不思議なほど明るく森の木々を銀色に照らし出している。
空気はひんやりと澄み渡りどこからか嗅いだことのない甘い花の香りが漂ってくる。
静が呆然と立ち尽くしているとその足元に一匹の小さな白い子狐がすり寄ってきた。
その毛並みは月光を浴びて絹のように輝いている。
その黒く濡れた瞳はどこまでも賢くそして優しげだった。
子狐は静の足元でじゃれつくようにくるくると回りそして「こっちへおいで」とでも言うかのように森の奥へと駆け出して行った。
静は何かに導かれるようにその白い幻影の後を追った。
森の中は不思議なほど明るくそして温かい。
苔むした大地は柔らかな絨毯のように、静の足音を吸い込み木々の葉は風に揺れるたび銀の鈴のような音を立てた。
静は久しぶりに子供のように笑いそして子狐と共に戯れた。
追いかけっこをし木陰に隠れそして小川のせせらぎに手を浸す。
ここはどこなのだろう。
私はなぜここにいるのだろう。
そんな疑問すらこのあまりに幸福な時間の中では意味を持たなかった。
その時だった。
森の最も高い木の枝に音もなく一羽の大きな鴉が舞い降りた。
鴉は静と子狐をじっと見下ろすと一度だけ低く鳴いた。
その声はまるで「もう時間だ」と告げているかのようだった。
子狐は名残惜しそうに一度だけ静の手に鼻先を擦り付けると、その瞳に一瞬だけ深い悲しみの色を浮かべそして森の闇へとその姿を消した。
そして鴉は今度は静を森のさらに奥深くへと導くようにゆっくりと飛び始めた。
静がその後を追っていくと森の空気は次第に冷たくそして重くなっていく。
甘い花の香りは消え代わりに鉄の錆びたような血の匂いが鼻をついた。
やがて開けた場所にたどり着いた時。
鴉は一本の巨大な木の木陰に止まり「ここから先は静かに」とでも言うかのようにその翼で自らの
静はその木陰からそっと向こう側を覗き込んだ。
そして見てしまったのだ。
月明かりの下、一人の若き鎧武者が静かに舞を舞っているその姿を。
その舞のあまりの美しさに静は一瞬で心を奪われた。
だが次の瞬間。
武者の背後からすっと二つの影が現れ、そしてあの「八百年前の悲劇」が静の目の前で音もなくしかしあまりに生々しく繰り広げられた。
友と思しき男の手が武者の胸を貫き、兄と思しき男の太刀が武者の首を刎ねた。
鮮血が舞いそしてその鉄の匂いが静の鼻腔をついたその瞬間。
彼女は絶叫と共に自らの部屋のベッドの上で目を覚ました。
全身は冷たい汗で濡れている。
心臓が激しく脈打ち呼吸が浅い。
窓の外はまだ深い闇に包まれていた。
「…今の夢は…」
それはただの悪夢ではない。
静には分かっていた。あれはこの土地に刻まれた「八百年前の悲劇の記憶」そのものだと。
そして自分はこれからその悲劇の渦へと否応なく巻き込まれていくのだということを。
静は震える手で枕元のスマートフォンを強く握りしめた。
その冷たいガラスの向こう側で夢の中のあの武者の魂が静かにそして深く「共鳴」しているのを確かに感じながら。
【🪭5. 岩ヶ崎高校と二人の少女】
栗原での生活が始まって数日が過ぎ、静は真新しい制服に身を包み、岩ヶ崎高校の校門を初めてくぐった。
小高い丘に建つ校舎は、新しい鉄筋コンクリートの校舎に、年代の違う木造の旧校舎が渡り廊下で繋がれた、どこか歪な構造をしていた。
転校生という珍しい存在は、当然のようにクラス中の注目を集めた。
当たり障りのない自己紹介を済ませ、指定された席に着くと、休み時間には案の定、数人の女子生徒が好奇心いっぱいに集まってきた。
「藤沢さん、どこから来たの?」
「部活、どうするの?」
矢継ぎ早に繰り出される当たり障りのない質問に、静は一つ一つ丁寧に、しかしどこか心の表面だけで応じていた。
その会話の輪が途切れた瞬間、隣の席から遠慮がちな声がかかった。
「…あの…」
静がそちらを向くと、そこにいたのは眼鏡をかけたショートカットの小柄な少女。
彼女は他の生徒たちのように静の顔を見ているのではない。
静が机に置いていた歴史専門書を指差していた。
「…藤沢さんも、歴史、好きなの…?」
その問いかけに、静の心臓がドクンと小さく跳ねた。
「…うん。まあ…」
「…その本、『奥州藤原氏三代と源平合戦の力学』でしょ? 私もそれ読んだことある。…特に、頼朝が泰衡に圧力をかけていく外交文書の解釈とか、すごく面白くなかった…?」
少女は一気にそこまで言うとはっとしたように口をつぐみ、顔を赤らめた。
「…あ、ご、ごめん…! 急にこんなマニアックな話…」
静は思わず笑みがこぼれた。
「ううん。嬉しい。…私も、そういう話ができる人、初めてだから」
「…本当? よかった…。私、
「藤沢静です。こちらこそ」
二人が小さく頭を下げ合った時、先ほどの女子グループの一人が、花梨の様子を見て少し馬鹿にしたように言った。
「また花梨が難しい話をしてるー」
「やめなよー。転校生が引いてるじゃん」
花梨の肩がびくっと小さく震えた。
だが、静はその女子たちの方をまっすぐ見つめ返し、静かに、しかしはっきり言った。
「…引いてないよ。むしろ、すごく面白い話だったから」
その凛とした一言に、女子たちは一瞬虚を突かれたような顔をすると、「…ふーん」とだけ言って自分たちの席へと戻っていった。
花梨は驚いたように静の顔を見つめ、そして、小さな小さな声で「…ありがとう」と呟いた。
静は、ただ、静かに頷き返した。
その日の、放課後。
静が、一人帰り支度をしていると花梨がおずおずと静の机のそばへとやって来た。
「…あの、藤沢さん」
「…大江さん」
「…花梨でいいよ。…さっきは、本当にありがとう」
「…静でいい。…別に、たいしたことじゃないから」
二人の間に少し気まずい、しかし、どこか心地よい沈黙が流れる。
その、沈黙を破ったのは花梨の方だった。
彼女は、静の机の上に残っていた、あの歴史専門書を指差した。
「…やっぱり、好きなんだね、歴史」
「…うん」
「…特に、この、辺りの、時代の?」
「…うん。…義経とか、奥州藤原氏とか…」
その、静の言葉に花梨の瞳がきらりと輝いた。
「…じゃあさ」
彼女は、声を潜め、そしてまるで秘密の宝物を見せるように言った。
「…判官森って、知ってる?」
「…うん。家の窓から見える…」
「…あそこね、ただの義経伝説の場所じゃないんだよ」
花梨は、自らのスマートフォンを取り出し、慣れた手つきでいくつかの画像を静に、見せた。
それは、彼女が町の郷土資料館で、見つけたという古びた地図や風土記の断片だった。
「…この、古文書によるとね。…昔、藤原泰衡が、この栗原の地で何か特別な『儀式』をしたっていう記録があるんだ。…何の、儀式かは分からない。でも、その儀式の中心地がどうも、あの判官森らしいの」
「泰衡の、儀式…」
静は、その、言葉を、心の中で、反芻した。
「…だから、もし、藤沢さんが興味あるなら…。今度、一緒に行ってみない? …もちろん危ないから森の中までは、入らないけど。…その、麓から見てみるだけでも、何か分かるかもしれないし…」
花梨は、少し顔を赤らめながらそう言った。
それは、彼女なりの精一杯の「友情の、誘い」だった。
静は、その誘いに驚き、そして同時に胸の奥が温かくなるのを感じていた。
この町に来て、初めて。
本当の意味で、「言葉」を交わせる相手を見つけた気がした。
「…うん。…行ってみようかな」
静が、そう答えると花梨は心から嬉しそうに微笑んだ。
その、二人の少女の間に生まれた、小さなしかし確かな「約束」。
それこそが、この、過酷な物語の中で、彼女たちを支え続ける最初の、そして最も重要な絆となることをまだ誰も知らなかった。
その一方で、静はもう一人の少女の存在にも気づいていた。
クラスの隅の席で、誰と話すでもなく、ただ静かに窓の外を眺めている少女。
長い前髪が表情を隠し、どこか儚げで周囲から浮き上がっている。
名簿で見た名前は、確か「河田映身」。
彼女の周りだけ、空気が違っていた。
昼休み、クラスの中心グループの女子たちがスマートフォンを囲んで囁き合っているのが目に入った。
「…昨日、また出たんだって。旧校舎でやった時」
「なんて?」
「『シラ』…『ハタ』…『ジンジャ』…って」
「え、怖すぎ…でも、映身が言うには、それは『お告げ』なんだってさ」
「こっくりさんアプリ」。その会話に出てきた「映身」という名前に、静は再び教室の隅に座る少女へと視線を向けた。静の胸の中に、言い知れぬ不安がじわりと広がっていく。
【🪭6. 森の気配と朱鷺の覚悟】
その日の放課後、静は町のことをもっと知りたいと、少し遠回りして判官森の近くを通る道を選んだ。
森の入り口に差し掛かった時、静は足を止めた。
昼間だというのに森の中は薄暗く、空気が淀んでいる。
そして、昨日までとは明らかに違う数の狐たちが、森の周辺を落ち着きなくうろつき、奥深くを怯えた目で見つめていた。
その時、森の奥から冷たい風が吹き抜け、鴉が一斉に飛び立った。
静は確かに感じた。
森の闇の、さらに深いところから、冷たく、粘つくような「視線」が自分に向けられているのを。
それは憎悪でも好奇心でもない。もっと無機質で、ただ獲物として品定めするような、爬虫類にも似た冷たい視線。
背筋が凍るのを感じ、静は咄嗟に後ずさった。
あれは、ただの気のせいではない。
あの森には、何かがいる。
その夜、静から学校での出来事と森の様子を聞いた朱鷺は、一人、書斎で思考の海に深く沈んでいた。
壁一面を埋め尽くす呪術や民俗学に関する書物の中から、彼女は藤沢家に代々密かに受け継がれてきた古い巻物を広げた。
そこには、ギケイ流の表の歴史には記されぬ「禁忌」や「過去の失敗」が生々しい筆致で記録されている。
「…この気配…まさか…」
朱鷺は、かつてギケイ流の舞手が強大な怨念を鎮めようとして、逆に魂を取り込まれかけたという忌まわしい記録に指を走らせ、眉をひそめた。
学校での「こっくりさんアプリ」の噂。そして、判官森から日増しに強くなる、あの粘つくような邪気。
二つの事象が、彼女の頭の中で一本の不吉な線として繋がっていく。
「…静」
朱鷺は、書斎の椅子に深く腰掛けたまま、静を呼び寄せた。
その声はいつになく硬い。
「あなたが耳にしたという『こっくりさんアプリ』…。
それは、ただの子供の戯れではないのですよ」
朱鷺は壁一面を埋め尽くす書物の中から、一冊の和綴じの古い本を抜き取り、そのページをめくりながら続けた。
「『こっくりさん』その源流は、古く、この坂東の地に伝わる土着の憑き物筋の秘術…私たちが『狐狗狸(こくり)』と呼ぶものにあるようです。そのアプリは、もしかしたら、その古の儀式を現代に再現したものなのかもしれません」
一呼吸おいて、朱鷺は続けます。
「本来は、我々のような専門家が扱う、神や獣の霊を降ろし神託を得るための、古く危険な儀式だった。それが明治の世になり、西洋から入ってきた『テーブル・ターニング』という降霊術と融合し、いつしか『こっくりさん』という子供の遊びとして、その本当の恐ろしさを骨抜きにされたまま大衆に広まってしまったのです」
朱鷺はそこで一度言葉を切り、静の目を真っ直ぐに見据えた。
「そして今、その古えの力が『アプリ』という現代の器を得て、最も邪悪な形で目覚めようとしている…。河田映身という少女、彼女はただの遊びのつもりでしょうが、その背後で糸を引いている者の悪意は、計り知れないほど深い」
朱鷺は、かつてギケイ流の舞手が強大な怨念を鎮めようとして、逆に魂を取り込まれかけたという忌まわしい記録に指を走らせ、眉をひそめた。
「…泰衡と、頼朝…。あの二人の怨念が、もし本当に手を組んでいるのだとすれば…」
その規模は、過去のどの事例よりも遥かに大きい。そして何より、性質が悪い。
「…私の専門は、あくまでこの土地に根差した自然霊や地縛霊の調伏。あるいは、ギケイ流に連なる霊的な呪詛の解呪…。だが、これほど人間的な、そして策略的な『情念』が複雑に絡み合った怨念は、正直、手に余る…」
初めて、朱鷺の完璧に整えられた表情に、焦りの色が浮かんだ。
彼女は、万能の神ではない。長年の経験と知識を持つ、一人の優れた「専門家」に過ぎないのだ。
そして、彼女の分析はさらに不吉な結論を導き出していた。
「…あの者たちの狙いは、この栗原の地を霊的に『汚染』し、負のエネルギーを蓄積すること…。そのエネルギーが一定量に達した時、奴らは完全に顕現するだろう。そうなれば、もはや私の手には負えなくなる…」
朱鷺は静かに立ち上がり、窓の外、闇に沈む栗原の町を見下ろした。
孫娘、静。
彼女をこの地に呼んだのは、果たして正しかったのか。
彼女の中に眠る、あの強大すぎる白拍子の血。
それはこの事態を打開する唯一の「切り札」か、あるいは彼女自身を飲み込む諸刃の剣か。
娘・海瑞希が、あれほどまでにこの宿命から静を遠ざけようとした気持ちが、今、痛いほどにわかる。
(…すまないね、海瑞希…)
朱鷺は心の中で、遠い北海道にいる娘に詫びた。
(…だが、もう後戻りはできない。この戦い、藤沢家の、そしてギケイ流の全てを賭して、勝たねばならない…)
その瞳には、孫を危険な戦いに巻き込んでしまったことへの深い「苦悩」と、それでもなおこの事態に立ち向かわねばならないという、当主としての揺るぎない「覚悟」の光が宿っていた。
(第四章 完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます