女装復讐屋、最後のターゲットは母を捨てた父親
葉っぱふみフミ
第1話 ハニートラップ
都心の高層ホテル。その30階に位置するレストランは、夜景を目当てに集まった客で賑わっていた。
低く流れるクラシックに混じって、グラスが触れ合う音が静かに響く。
窓の外には、ビル群の光が幾何学的に並び、幹線道路を走る車のテールランプが赤い帯を描いていた。
先崎悠馬はグラスを持ち上げ、視線を夜景に向ける。
「夜景がきれいだね」
向かいの男が笑みを浮かべて言う。
年齢は四十代後半。ブランドスーツに身を包んでいるが、腹まわりの緩みと脂の浮いた顔が目についた。
「そうね」
わずかに目じりを下げ返事をする。
窓ガラスには、肩までの髪をゆるく巻き、ネイビーのワンピースを身に纏った女性の姿が映っている。
悠馬は静かにグラスを置き、視線をテーブルに戻した。
ギャルソンがデザートのクリームブリュレを運んでくる。
無言で皿を置きながらも、視線は男と悠馬を交互に見ていた。
悠馬は「ありがとう」と短く告げる。ギャルソンが軽く会釈して下がった。
空気がひとつ、静かに沈む。
男はナプキンを膝に置き、小さく咳払いをする。
「美咲ちゃん、この後なんだけど……」
言葉が続く前に、悠馬が口を開いた。
「私、もう少し飲みたいな」
男の表情に、わずかな落胆が浮かぶ。だがすぐに切り替えて笑みを返した。
「それじゃ、隣のバーに行こうか?」
視線を合わせて、口角をわずかに上げる。男の顔が緩んだ。
レストランを出て廊下を進む途中、後ろを歩く女性と目が合う。悠馬が軽くウインクを送ると、相手は頷いて応えた。
「どうしたの?」
男が問いかける。
「忘れ物がないか気になっただけ」
そう答えて男の腕に絡み、頬を預けた。男の口元が緩む。
バーの内部は暗く、間接照明が影を濃くしていた。
並んで腰掛けたカウンター席で、男は余裕を装っていたが、様子には焦りが滲んでいる。
モヒートを一杯空けると、悠馬は間を置かずギムレットを注文した。
酔いの勢いに任せた男の手が、徐々に悠馬の腰に伸びてくる。
仕事の自慢話を饒舌に語りながら、その手は腰を経てお尻に触れ始めた。
一瞬、男の目が探るように動く。
「学生時代、水泳やってたから筋肉質なの」
男は納得したように頷き、マティーニに口をつけた。
手は前方へ移動し、太ももに触れたかと思うと、スカートの中へと入りかけていた。
悠馬は自然な動作で立ち上がる。
「ごめんなさい、ちょっとお手洗いに」
男を残してトイレに入り、鏡の前で化粧を整える。
スマートフォンを確認すると、未読のメッセージが一件。
《あと、もう少しだな》
メッセージを閉じ、深呼吸ひとつ。再びバーへ戻った。
「お待たせ」
「いや、お代わり頼んでおいたよ」
カウンターには青いカクテルが置かれていた。
「ブルーハワイって言うんだって。かわいいだろ」
男は意味ありげな笑みを見せる。このカクテルを飲むわけにはいかないことを瞬時に悟った悠馬はグラスを手に取ろうとし、落とすようにテーブルに倒した。
「あら、ごめんなさい。ちょっと酔ってるみたい」
バーテンダーがタオルを差し出す。悠馬は軽く頭を下げ、「同じものを」と注文する。
男の顔にかすかな苛立ちが浮かんだ。それを和らげるように、肩に手を置き、頬を寄せた。
やがて、新しいカクテルが運ばれる。
悠馬が半分ほど飲んだとき、バーのドアが大きく開いた。
店内の空気が凍る。
入り口には、怒りを露わにした中年の女性が立っていた。
「貴方、出張って言ってたのに、どうしてここにいるの?」
「お前こそ、なんでここが……」
「親切な誰かが、写真と場所を送ってくれたのよ」
女がスマホを掲げる。画面には、レストランを出た直後の二人の姿が映っていた。
言い争う二人を残し、悠馬は静かにその場を後にした。
タクシーに乗り込み、ネオン街を抜けていく。
繁華街のはずれで降りると、雑居ビルの地下へと続く階段を下り、「スナック綾」と書かれた扉を開けた。
「いらっしゃい……って、悠馬か。上手くいったみたいね」
カウンターの向こう、伯母の綾香がグラスを磨きながら目を細めた。
彼女の視線の先には、緑のワンピースを着た若い女性が座っていた。
「ありがとうございます」
「ふふ、あんたの協力のおかげさ」
女性の隣に腰を下ろす。奥さんに送られた写真は、彼女が撮影したものだった。
変装用のウィッグと眼鏡で姿を隠し尾行して、男と悠馬の不倫現場の写真を奥さんに送ってもらった。
悠馬は綾香から差し出された水に口を付けた。
一ヶ月前、ここでその女性から依頼を受けた。
派遣先で正社員登用を匂わせて関係を迫り、約束を反故にして切り捨てた中年男。
その男に、社会的な制裁を与えてほしいという話だった。
依頼を受けた悠馬は、男の会社に派遣社員として職場に潜り込み、まずは男の住所を特定。
次にモニター調査を装い、奥さんの連絡先を手に入れた。
罠を張り、獲物がかかったのが今夜――その結末が、さきほどの一幕だった。
「あの……これ、お礼です。でも、こんなにしてもらって、これだけでいいんですか?」
女性が封筒を差し出してきた。
「ああ、十分さ。こっちも、予行練習みたいなもんだからね」
「予行練習……?」
「気にしなくていい」
封筒を受け取り、女性はもう一度小さく頭を下げて店を後にした。
店内には、静けさが戻る。
悠馬は封筒から三分の一の紙幣を取り出し、カウンターに差し出した。
「はい、紹介料」
「ありがと。でもね、手間も時間もかけた割に、給料三ヶ月分なんて……派遣社員じゃ、たかが知れてるでしょう。生活、ちゃんとできてるの?」
「副業でどうにかなってるから」
「ふーん……なら、いいけど」
綾香がじっとこちらを見てくる。
「ふふ、やっぱり綺麗になったわね。手塩にかけただけある」
十五で母を亡くし、引き取ってくれたのが綾香だった。
いつか果たすべき目的のために、すべてを叩き込まれた。女としての振る舞いも、他人を壊す術も。
なぜ女装なのかと尋ねたとき、綾香は「仕事の幅が広がるから」とだけ言った。
実際にやってみれば、その意味はすぐに理解できた。
今日のように男にハニートラップを仕掛けるのも、女相手に警戒心を解かせるのも、女装の利点だ。
標的を社会的に、金銭的に破滅させる。
それが、女装復讐屋・先崎悠馬の仕事だった。
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