にわのエイリアン
佐佐木
第1話
『節電』と大きく書かれた紙が目に入る。このコンビニのバックヤードには、おそらく冷房はかかっていないのだろう。夜の十時だと言うのに首筋に汗が滲むのを感じながら、昼間、大学で友人が梅雨が明けたらしいと喋っていたのを思い出す。
「高塚(たかつか)くん、彼新しく入った砥山(とやま)恵(けい)吾(ご)くん。深夜に入るから色々教えてあげて」
初出勤時、社会という荒波の激しさを感じさせるこけた頬を上げ、骨と血管がやけに浮き出た骸骨のような手を俺の方に向けて店長が紹介する。
目の前にいる男はその手を凝視するばかりで、こちらとまるで視線が合わない。男の半袖の制服から伸びる腕は店長と負けず劣らず細い。しかし日光を知らないような白い肌、無造作に伸びて毛先が外にはねた清潔感の欠片もない頭は、社会とは縁遠い雰囲気を感じさせる。細すぎる体にも釣り合うほどに小さい顔に、これまたスッキリとした口や鼻がのっており、前髪から除く切れ長の三白眼は嫌に澄んでいる。それでいて背筋を伸ばせば、身長百八十センチの俺にも迫りそうな背丈を持っている彼は尖った舞台俳優なんかにいそうな独特のオーラがあった。
「砥山です、よろしくお願いします」
「あっ高塚優人(ゆうと)ですよろしくお願いします」
高塚はこちらがお辞儀してから起き上がるのを待たずに一息で挨拶を終え、頭を上げた頃には反対を向いて着替えに専念していた。そして新人の様子など気にせずにバックヤードから店内へと消えていってしまった。
「結構クールに見えるけど、いい人なんだよ。優しいし。わからないことがあったら高塚くんに聞いてね。年も近いと思うし仲良くしてあげてね」
高塚の悪意すら感じさせるそっけない態度に、店長は慌てたようにフォローの言葉を継ぎ足す。そんな言葉を耳に入れながらも、先ほどの様子からは信じがたく、不安だった。以前働いていたバイト先では新人に対して理由もなく厳しい人がいたことを思い出す。打ち解けるまでの我慢だと自分に言い聞かせて、隙間から光の漏れるドアを押し店内へと足を踏み入れた。
「あの、レジの業務と、納品したものの品出しは、研修のビデオでみたと思うんですけど、多分やりながら覚えていくと思うんで。あの実際にレジやってもらって、なんかわからないことがあったらすぐ聞いてくれ大丈夫なんで」
「あ、ちょっと商品が多いから、レジ交代します」
「クイックペイでの支払いは、ペイペイとは別で、あ、これ、支払い方法と操作方法、書いてあるメモ、これあのコピーして渡すので」
あれから俺は研修中というバッジを胸につけ、レジ内に高塚と二人で並んでいる。高塚は後ろからレジを打つ俺を見守り、手が止まれば大丈夫かと心配し、買い物量の多い客の時は交代してくれて、終いには手書きのマニュアルをコピーしてくれるほど手厚かった。先ほどのあいさつの無愛想さとは打って変わった、小学生相手にでも教えているかのような高塚の過保護な態度との温度差に戸惑いつつも、先ほどの不安は要らぬ心配であったことに安堵する。そこそこでかい男二人が近い距離でいるには閉塞感があったレジ内も、緊張感が解けるとそこまで気にならなかった。
駅から遠く、周りには住宅が立ち並ぶこのコンビニは深夜の二時を過ぎる頃には客足も途絶えるようだ。蛍光灯の白い光に照らされた店内は人一人おらず、その無機質さに拍車をかけている。
「高塚さんっていくつですか?」
納品された商品の品出しも終え、教えることも尽きたようで、高塚との間には沈黙が訪れる。隣に人がいるのに長く黙っているのも落ち着かず、ふと気になったことを問いかけた。
「二十二歳です」
間を開けず返ってきた声はくぐもっていて聞こえづらかった。
「二十二なんですね、同い年くらいかと思ってました。俺今二十歳で大学三年なんですけど、高塚さん大学生ですか?」
「いや…違いますね」
感情の乗らない返答に面喰らい、咄嗟にそうなんですねと返せば相手は何も言わず会話が終わってしまう。そうして黙っていると店内放送でかかる今流行りの男性シンガーの弱々しい声がやけに耳につく。
「この曲どこ行っても流れてますよね。音楽とか聞きますか?」
聞きませんね、とさっきと同じような態度ですげなく答えられてしまう。
「じゃあ、趣味とかありますか」
「読書とか、ですかね」
「へぇいいっすね、どういうの読むんですか」
半ば惰性で会話を続けると、些細ながらも掴めるものが見えてきて少し声が高くなる。
「…まぁ、色々」
しかしながらこれもまた、こちらを遮断するような高塚の返答に阻まれる。
「俺旅行と登山のサークル入ってて結構いろんなとこ行ってるんですよね。今度四国に行こうかなとか計画してて」
「なるほど」
見せてくれそうにもない高塚の内面を聞くのは諦め、今度は自分の話をするが、態度は依然変わらない。そもそも先ほどから隣同士にいるにもかかわらず高塚の前髪の隙間から見える目は一度もこちらを向かない。俺の前でも、お客さんの前でも無機質な表情を崩さない姿は機械のようで妙な感じがした。初めての勤務で何をしていいかもわからず、何もすることがない状態にどうしようもない窮屈さを感じて、高塚から一歩離れた。
そうしているうちに高塚はレジから出て、菓子類のコーナーで膝をついてスナック菓子を綺麗に整頓し始めた。休憩までは後約一時間、休憩が明けてから二時間。先ほどから何回時刻の進んでいない時計を見て肩を落としただろう。これまで経験したバイトでは忙しなさで時間が過ぎるか、同じシフトの人と話していれば暇など感じなかった。
丁寧な手つきで菓子類を動かす高塚に視線を送るが、気にした様子もない。我慢できず何かやることはありますかと聞けば雑誌類の整頓を頼まれたので、なるべくゆっくりと、時間を消費できるように取り掛かった。
五十五秒、五十六秒、五十七秒、五十八秒、五十九秒。よし、六時だ。永遠に感じられるほどの時間を乗り越えて到達した退勤時刻を見て、大胆に腕を上げて体を伸ばす。
結局、その後の高塚との業務外の会話は皆無だった。たっぷり時間をかけて雑誌の整頓を終えた後、休憩に入るよう言われた。そこから上がって入れ替わりで一人でレジをするときはもちろん、高塚が戻ってきた後も店内放送以外の音がない中まばらにくるお客さんを捌く以外にすることはない。もしかして、今後毎回これが続くのだろうか。可能性について考えるだけ怖かったので、すぐに頭の外からは追いやった。
「砥山くん、おつかれさまー。どうだった?」
散乱する備品に囲まれたデスクのパソコンを睨む店長が視線を和らげこちらに向ける。バックヤードは早朝ににつかわしくない薄暗い雰囲気だし、店長もまた爽やかさのない土色の顔だった。
「お疲れっす、大丈夫そうです。でも八時間バイトって初めてだったんですけど結構疲れますね」
「あぁ、初めは長時間きついよね。お昼なら最初は短時間からっていうのもできるんだけど、今深夜の人が足りてなくて途中で交代できる人もいないのよ。ごめんねー、慣れるまで頑張ってくれると助かるよ」
バイトの自分に対してここまで低姿勢にこられると、少しむず痒い気持ちにもなる。
「稼ぎたいんで全然問題ないですよ、頑張ります」
昨日も十一時ごろまで裏で作業をしていた店長を労る気持ちと正直な気持ち半々のフォローを送ると「そう?ありがとね」と変わらず低い位置からのお礼を言われた。
そうして制服のボタンに手をかけた時、さっきまで一緒にいた人物がいないことに気がつく。
「そういえば高塚さんどこいったんですか?」
「高塚くん?もう帰ったよ」
確かに朝のシフトの人と交代する時軽く挨拶を交わしたので、彼の方が早くバックヤードに戻っていた。それにしても、挨拶なんて一分にも満たず、自分もすぐ後に続いたがすでにこの場に店長以外の人は見えなかったはずだ。
「え、めっちゃ早くないすか」
現実感がない早業に驚いて、声が大きくなる。
「慣れちゃったけど確かにそうだよねぇ。」
目尻を下げて、うんうんと頷く横顔は何故だか嬉しそうでもある。高塚は店長と話すのだろうか。真一文字に結んだ口を緩ませて談笑する姿はどうにも想像できないですぐに諦めた。
「どうだった、高塚くんと話した?」
優しい顔つきはそのままに答えづらい質問をされる。まさか話しかけられたくなさそうでしたとも言えないが、フレンドリーでしたなんていうのもわざとらしい気がする。結果、丁寧に教えてくれましたよと当たり障りのない事実で濁した。
「そうでしょ、ちょっと冷たく見えるけど優しいから今後も仲良くやってよ」
今日の雰囲気だと果たしてそうできるかは微妙だが、進んで仲を取り持とうとする店長に気を遣い、軽く微笑んで「また話しかけてみますね、お先失礼します」と挨拶をして会話を切り上げた。
自転車の鍵を握りしめて外に出ると、完全に顔を出した太陽がジリジリとコンクリートを照らしていた。人工的な明るさの店内から解放されて浴びる陽の光はなんだかとても懐かしく感じる。友人とカラオケや居酒屋を渡り歩いて迎えた朝とも、日の出を見るために山頂で迎えた朝とも違う、労働終わりの開放感と共に迎える朝は清々しくて、軽い足取りでペダルを漕いだ。
「おい、どうだった」
試験官が教壇での確認を終えると、お疲れ様でしたというマイクの声が大教室に響き渡る。瞬間、教室全体の雰囲気が緩みザワザワと騒がしくなった。
前期とった授業最後のテストを終えた俺も開放感に浸ろうとするが、終了直後に隣から飛んできた険しい声に邪魔をされた。声の主である同じ登山サークルに所属している多田(ただ)の顔はかなり沈んでいる。
「俺、多分取れたわ」
そんな顔とは対照的に、自慢げに口角を上げて言う。テストの出来具合から言っても落単の心配はいらないだろう。
「嘘だろ!適当に埋めたけど多分落としたな、救済ないのかな」
「あってもろくに出席してないし無理だろ」
「お前だって似たようなもんだろ」
頭を抱えて項垂れる多田の諦めた様子がないのが面白くて少し突き放すと、縋るような目を向けられる。
「俺は先週はちゃんと行ったよ。てかその時、問題文ほぼほぼ教えてくれてたぞ。多田、もしかして知らなかったのか?」
楽だと有名な授業に恥じない単位取得のための教授による手厚いサポートを持ってして、これほど嘆くのを疑問に思い聞くと多田の目が大きく見開かれた。
「まじっかよ、なんで教えてくれなかったんだよ」
前のめりに抗議するのを見て、まさか知らなかったとは思わず少々罪悪感を覚える。
「てっきり、誰かに聞いたんだと思ってた。やけに余裕あったし」
「はー、俺卒業できるのかな」
すっかり意気消沈した多田は高い天井を仰いで呟く。
「まぁあと二年あるんだし、充分捲れるだろ」
「そうだよな、なんとかなるよな」
無責任なフォローが響いたかはわからないが、考えても仕方のないことを早々に切り上げるのは友人として波長が合う部分だった。
「これから飲みに行くんだけど、お前も来ない?」
満席だった大きい教室の中には、もうまばらにしか人がいない。「あいつと、あ、こいつも来るよ」と俺の知った名前を読み上げる多田に「今日バイトなんだよ」と断りを入れる。「バイト」と口に出すと同時に僅かな拒絶感情で心が重くなるのがわかった。
初めて勤務した日から今日まで2回のシフトが入っていた。どちらも高塚と一緒だ。初回同様に二人の間にほとんど会話はなかった。いや、むしろ教えることの減った分最初よりもやり取りは少なくなっただろう。
一度だけ、高塚が話しかけてきたことがあったが「レジと品出しどっちがいいですか」と尋ねられたので「品出しですかね、高塚さんはどっちが好きとかあるんですか」と聞くと淡々とした声で「どっちでもいいです」と返された。続けて、「じゃあ僕はレジ見てるので品出しの方お願いします」と言われたので、結局それはただの業務上の会話にすぎなかった。
それに加えて、お客さんの波が引いて手が空くと、レジから売り場へ出て作業を始めるのを二度三度と繰り返されると、まぁ彼はそこまで話す気はないのだろうなというのもわかった。しかし、静寂の中ではどうしても時間の進みが遅く感じられて落ち着かない。進まない時計ばかりを見るのにも限界が来ていた。
「そうだお前、バイトやめただろ。あの麗奈(れいな)ちゃんと一緒の居酒屋」
沈んだ気持ちをさらに下へと引っ張るような話題を出される。しかし、そんな態度を顔に出すわけにもいかずすぐに平静を装う。これまでの人生で何度もそうしてきたのと同じで「やっぱ家から近いところがいいなと思って」なんていい加減な理由は自然に口から出た。
「後輩のやつから聞いたんだけど麗奈ちゃん寂しがってたらしいぞ。羨ましいな、あの子絶対お前のこと好きだぜ」
こちらの事情なんて知る由もない多田にニヤニヤした顔で冷やかされるのが面倒で少し心が波たつが「新入生だから先輩にフィルターでもかかってるんだろ、すぐ冷めるよ」と躱す。「やっぱモテるやつは余裕があるな」とさらに揶揄われた。
話を切り上げるように「そろそろ行こうぜ。」と席を立つと、大教室には二人だけになっていた。学内で待ち合わせているらしい多田と教室の入り口で別れようとすると「お疲れ、また明日な」と大きい声で言われて、明日サークルの飲み会があることを思い出した。「あぁ、明日もか。飲みすぎんなよ」と笑いながら手を振り別れた。
家に帰ってシャワーを浴びた後、家を出るギリギリまで仮眠をしていた脳は覚醒し切っておらず、ふわふわとした気持ちのまま重いペダルを踏む。肌につく湿度の高い夜の風も相まって、まだ眠りの中にいるようだ。辺は街灯以外の光も人気もなく静かで一日の終わりを感じさせるのに、自分はここから労働を始めるというのにはまだ慣れなくて不思議な気持ちになる。そうやってノロノロと漕ぎ進めると、周辺を激しい光で照らす職場が現れる。
自転車を停めると、通知で光るスマホに表示された時刻を見てのんびりしすぎたことに気がつき早歩きで裏手の従業員用入口へ向かった。
薄汚れた白いドアを引いて、「お疲れ様でーす」という声とともに中に入る。綺麗とは言い難いバックヤードも見慣れてきたが、返ってきた声はこれまで聞いてきたボソボソとした高塚のものではなく、はつらつとしていて柔らかい女性のものだった。
「新しく入った人ですよね?私会田(あいだ)って言います。よろしくお願いします〜」
ふくよかな頬を上げた人好きのする笑顔に「砥山です、よろしくお願いします」と軽く頭を下げる。内心ではいつもの何を考えているかわからない顔がいなかったのに少し安堵していた。
会田さんは初対面の印象そのままに話好きでフレンドリーだった。手が空くたびに話しかけてくれて、不健康そうな店長に似ている少年漫画の骸骨キャラに愛着を抱き始めたなんて熱心に語ってくれた時は盛り上がって、会計に来たお客さんに「すいません」と声をかけられるまで二人して気がつかなかった。
それまでのバイトが嘘のように今日は時間の進みが早い。お互い休憩を終えてすでに三時を迎えていた。外は真っ暗闇だが、数十分後に空は白み始め、一時間後には太陽が完全に顔を出しすっかり朝の様相を呈するはずだ。高塚と二人の時は、この時間帯が一番変化を感じられて気が楽だった。今日は、そういえばほとんど時計を見ていない。
「そう言えば、前まで誰と一緒のシフトだったんですか?」
「あー、高塚さんです」
「高塚さんか…」とそれまで何を言っても調子よく返してくれていたのがなんとも言い淀むから気になった。それに、高塚が他の人とどう接するのかも割と興味をそそられるから「高塚さんと喋ったりします?」と踏み込んでいく。
「いいや、そんなに…。結構、キツくなかったですか。夜勤ってやることそんなないし」暗に同じ経験をしたのだろう。彼女が笑いながらいうので「ですよね、マジで時間進まなくてびっくりしました」と首を振る。
「でも、今日は会田さんの話面白くて楽しいっす。」
続けて素直な気持ちを言葉に出すと彼女は眉を上げた顔でこちらを見る。それがどんな感情か聞こうとしたらすぐに揶揄するような早口で阻まれた。
「はーなんか、砥山くんて絶対モテますよね。彼女途切れたことなさそう」
サッと体全体が冷えるのはまさか冷房が急に下がったわけではないだろう。自分にとってありえないことを言う会田だが、世の中を見てありえないのは自分の方である。こう言う瞬間に生じる心を突かれるような感覚に、また目を逸らす。
「いやぁ、そうでもないです」と誤魔化すが、まさかそんなもので終わるわけもなく「ほんとに!じゃあ彼女とかいないんですか?」と身を乗り出す勢いで聞いてくる。「いないいない、マジ、恥ずかしいですこの話」なんて照れ笑いをすれば「裏でモテるタイプだ」などと囃し立てられる。
十分、逃げ道は確保できただろう。一刻も早く居心地の悪い会話を終わらせたくて「でも。本当に高塚さんって謎ですよね」なんて少し無理矢理に話題を変えた。
「俺、教えるの嫌とか新人は使えないから邪魔、みたいな思考回路で冷たいのかと思ってたんですけど結構丁寧に教えてくれるし、わからないこと何回聞いても気にしてなさそうだし」
そこまで高塚のことに興味を持っているわけではない。恋愛以外の話であればなんでもよかった。話を変えた直後は「照れてるんですか」なんて笑っていた会田もそこまで執拗ではなく、すぐに謎の多い同僚の話に乗ってきた。
「そう!悪い人じゃないんだよね。新人の頃私すごい何回もこの支払い方法ってどうやるんでしたっけって聞いたらこの紙くれたの」
彼女はそう言って制服のポケットから小さく折り畳まれた紙を取り出した。広げた紙には、各支払い方法に対応したレジ操作の方法が丁寧に書かれているが、それは俺にも見覚えがあった。
「俺も前回もらいました。支払い方法多くて覚えるのがむずいですねって言ったら自分のメモ帳取り出してこのページそこのコピー機でコピーしてくれたんです」
おんなじ内容の書いてある紙をひらひらと見せると、相田は神妙な顔で顎に手を当てた。
「…やっぱりロボットだったりして」
「え?」
唐突な言葉の意味がわからず、眉を顰める。すると彼女は興奮したように捲し立ててきた。
「高塚さんってロボット説あるよねってもう辞めた子と話してたの。業務内容のこととかは教えてくれるのに、プライベートな質問だと全然答えてくれないじゃん。年齢とか趣味とかそう言うことは教えてくれるけど、『休日は何してるんですか』とか抽象的な質問すると、黙っちゃうじゃないですか。あれはSiri的に言うと『すいません、よくわかりません』と同義なんですよ。大まかな設定は付与されているから答えられるけど突っ込まれると何も言えないんです。」
漫画のような想像力が面白くて、店内に誰もいないのをいいことに大きく吹き出してしまった。
それでも、笑いの収まる頃には無機質なレジ捌きと、変わらない表情、物事への興味がまるでない姿が頭に思い浮かんでくる。高塚イコールロボット説を熱弁する会田に冗談まじりに「あるかもしれませんね」と同意した。
「あと、高塚さんってすごい頭いいんですよね。私店長に聞いたんですけど、一橋大学らしいですよ。」
「へぇそうなんですか、すごい」
自説ほど興味のなさそうに会田は高塚の情報を教えてくれた。大学受験を経験したなら自然と尊敬が向く難関の国立大学の名前に純粋な感心が漏れる。
しかし、高塚と交わした数少ない会話の中で大学生ではないと言っていたような記憶が気になって疑問を口にした。すると「あぁ、確か去年卒業したけど就職せず、そのままバイト続けてるって言ってたかも」と答えが返ってくる。
「俺の前のバイト先に芸人目指してる人いましたね。高塚さんもなんかやってるとか」
以前働いていた居酒屋でお笑いライブのチケットを買ってくれと頼まれたことを思い出す。高塚もその類で、何かを目指しているのだろうか。
芸人、バンドマン、漫画家、いや俳優とか。一度そう考えると、あの独特な雰囲気がどんな夢を追う中で醸成されるのか気になった。
「えー、そうですかねぇ、私はロボット説推しだなぁ」
あ、でも大学通ってたってことは違うのかな。いや、国家ぐるみのプロジェクトだったりして。
カーカー…という朝の訪れを知らせるカラスの鳴き声が聞こえてきても、二人各々が高塚の正体について真剣に考えていた。それでもちらほらとお客さんが増えて冷静になると「あれは、完全に深夜テンションでしたね」と小声で言う会田に「そうっすね」とお客さんにバレないよう小さく笑って答えた。
色とりどりに街を照らす看板、事務的に流れる客引き行為を注意する女性の声、残業帰りであろうスーツの男性、暇そうな居酒屋のキャッチ、スマホを片手に動画を撮る外国人、そして俺たちのようなさっきまで飲んでいた店の前で滞留する大学生の集団。
あと三十分で日付の変わる頃になっても新宿はガチャガチャとした音と光に溢れている。
「恵吾、二次会カラオケだってどうする?」
店名と鳥の絵が堂々と黄色く光る居酒屋の看板の下、アルコールで気が大きくなった友人に喧騒をものともしない大音量で聞かれる。
俺は顎が外れそうな大きいあくびの後で「今日はやめとくわ」と答えた。
今週は大学のテスト期間で、恵吾はそれまでの怠惰を巻き返すべく徹夜続きだった。全てのテストから解放された昨日も夜勤があったせいで満足な睡眠を取れていない。そんな状態で飲んだ数杯のアルコールは気分の高揚ではなく、強烈な眠気をもたらしていた。これでは、店員に注意されるほどに学期終わりの解放感を楽しむ奴らについていくのは難しい。
「来ないのかよ」と数人に軽く茶化される間にもあくびが止まらず目に涙がたまる。気づけばサークルのほとんどのメンバーが二次会会場に向かったか帰ったかで居酒屋の入り口は片付いていた。
誘いに来てくれた奴らに「マジで眠いからごめん」と断りを入れて自身も駅の方向へ歩き出そうとした。その瞬間、ガタイのいい体をどこに隠していたのか、多田がいきなり現れた。
「恵吾ってJRだったよな」
昨日も朝まで飲んだにも関わらず、今日は先輩に促されるまま乾杯の音頭まで調子よく取っていた奴が一次会で帰るわけがない。浮かれた顔で俺に交通手段を聞いていくるのは不自然だった。しかし、そんなことには自分が首を縦に振った後で多田の大きい体の後ろから一ヶ月ほど前まで嫌と言うほど見た顔が俯いて現れた時にやっと気がついたのだった。
「麗奈ちゃんもだから送ってやってよ」
明るい声で頼んでくる多田の横で麗奈はオフショルダートップスから剥き出す華奢な肩を縮め、綺麗なネイルが施された爪先を不安そうにをさすっている。そんないじらしい様子とは裏腹に、先輩を利用してこちらを追い詰める強かさに完全に逃げ道は塞がれていた。なすすべのない俺は無理やり作った半笑いで「おぉ、いいよ。じゃあ帰ろっか」と言うしかなかった。
恋のキューピッド役を終えて胸を張る多田を見ると若干の恨めしさを感じるがそんなのは態度に出すべきではないとわかっている。「飲みすぎんなよ」と手を振った。隣で作戦通りに事が進んで満足そうな麗奈が多田に目線で礼を言うのがわかった。
「ねぇ恵吾さん、どうしてバイト辞めちゃったんですか。私、超寂しかったんですよ」
二人で肩を並べて進み出すと、麗奈は恵吾の肩に手を乗せてくる。体の距離が縮まると女性特有の甘い臭いとそれを引き立てるような趣味のいいシトラスの香水が鼻に入る。下げるようにアイラインが引かれた丸く大きな瞳でこちらを見上げて、舌足らずに拗ねたような声色を出されても勿論恵吾は嬉しくなどなかった。むしろ、自身の肩にも届かないような小柄な彼女に追い詰められているような気がして情けなくも恐怖を感じた。
そうした思いから、歩みの遅い麗奈にわざと気を使わず半歩先を行くようにスピードを上げる。
「ごめんね、やっぱ家から近いとこがいいなと思って」
決して後半部分には触れずに適当な理由を返す。しかし麗奈は酔っているのか、いつも以上に大胆に「また、おんなじところで働こうかな」と言い出す。
「夜勤だから危ないんじゃないかな」
女の子に向けた気遣いのようでいて遠回しに諦めてくれることを願った返答は我ながらずるいと思う。きっと、麗奈も納得のいく答えではないのだろう、じーっとこちらを伺うようにしっかり上がったまつ毛を向けてくる。まとわりつく視線からも湿度の高い熱波からも今すぐ走って逃げ出したかった。
「じゃあ、恵吾さんが守ってくれますか?」
そう思いながら逃げ出すことも立ち向かうこともしない恵吾を責めるように、無数に存在する話し声の中でも絶対にごまかせないはっきりとした声で麗奈は言った。
「…麗奈ちゃんを守りたい人はいっぱいいると思うよ」
それでも俺ははっきり断って自分が加害者になるのも、不自然に逃げ出して秘密が暴かれるのも怖くて、往生際の悪い回答をしてしまった。麗奈ははっきりと軽蔑の滲んだ目でこちらを睨んだ後に気力が抜けたように顔を下げて黙り込んだ。攻撃の止んだことに安堵する自分を見たくなくて、さらに歩くスピードを上げると、顔に汗が伝ってきた。
「恵吾さんって女性に興味ないんですか」
もう数メートル先のエスカレータを上れば改札に着くと言うところまで漕ぎ着けた。帰宅するであろう人が別れを惜しんで立ち止まって賑わう駅前の広場で麗奈は静かにそういった。さっきの告白じみた言葉よりも迷いが滲む弱々しい声なのに、はっきりと耳に届く。その理由は図星だからだと、はっきりわかっていた。
なるべく平穏に「急にどうしたの」と返す。声は震えていなかっただろうか。
麗奈が放った一言目だけでも心臓が掴まれたように縮んだのに、彼女はさらに恐ろしい言葉を続けた。「この前、他の先輩に相談したんです。そしたらみんな恵吾さんの彼女見たことないよねって、ホモなんじゃねって冗談だけど笑ってました。そんなはずないと思ってたけど、あまりにそっけないから本当にそうなのかなって」
言い始めたら躊躇などなくなったようで、徐々に辿々しい怒りが溢れていくのがわかった。
「そんなわけないじゃん、麗奈ちゃん飲みすぎだよ。早く帰ったほうがいい。ほら、もう駅だから」
もはや、心臓が止まっているのではないかと言うほど苦しいのに、バクバクと鼓動の音は響いているからパニックになる。それでもなぜだか脳は冷えたように作動していて、口が動く。
麗奈は突然泣き始めた。「すいません、私、私本当に好きなんです。それなのに、すいません」見込みのない恋へのショックと、自身の口から出た言葉への後悔で顔をぐちゃぐちゃにしているのをただ眺めるしかできなかった。何もしない俺を通り過ぎる人たちが目で刺している。「俺もごめんね。本当にごめん、麗奈ちゃんは悪くないんだ。もう、終電出ちゃうから行きな」やっと、口を開いた俺の言葉をちゃんと聞いたかはわからないが麗奈は高いヒールのついたサンダルをコツコツと鳴らしてエスカレーターを登って行った。俺はその姿が見えなくなるまで心の中で謝罪し続けた。
『ゲイでごめんね』決して口に出すことのできない本心は、これまでの人生で何度思ったかわからない。そして、罪悪感と同時にいつも上がってくるのは怒りとも苦しみとも悲しみとも取れない『なぜ、ゲイに生まれたんだろう』と言うやるせのない意味ない感情だった。
頭から離れない麗奈のグチャグチャの顔を呼び水に思い出したくない記憶が上がってくる。高校生の時、適当に付き合った同級生の女の子。当時、その子とセックスできれば自分は普通になれると思っていた。それに、周りの目も気にし始めた頃で、みんなと同じでないことが何より怖かった。結局、自分がそんな実験台かカモフラージュの飾りとしてしか人のことを見ない最低な人間だと気付いたのは、ベッドの上で血が通っていない自分の間抜けな性器越しに裸で震える女の子を見た時だった。いや、その時ですらまだ、自分の秘密がバラされるのではないかと保身のことばかり考えていたかもしれない。彼女が決して誰にもそのことを話さずに安堵した後も彼女の表面張力を張った揺れる目が頭から離れないから自分の情けなさにやっと気が付いた。
そんなことを思い出して立ち尽くしていると、ふと我に返って広場にある時計を見上げる。急げば終電には間に合う。急に現実に引き戻されて、自身も早足でエスカレーターに駆け寄ろうとした時、目と鼻の先にある木を囲むように作られた木製のベンチに視線が止まった。
そこには、青白い顔をこちらに向ける男の姿があった。清潔感のない肩まで伸びた髪の毛先がカニのように外に跳ねている。なんの変哲もない半袖シャツから伸びる異様に細い腕、そして白目の多い切長の目。その人物は見れば見るほど、高塚であるのは明らかだった。感情の読まない目は、ついさっきの麗奈との会話を捉えたのだろうか。そうだとしたら、高塚は俺のことをどう思ったのだろう。確証のない恐怖感で頭が支配されるのを振り切るようにホームまで走ったのは側から見れば終電に急いでいるようにしか見えなかっただろう。光の集合体のように明るい街が遠ざかるのを見ながら、常に人が行き交い変化して行く風景の中、電源の切れたロボットのように動かない高塚が薄気味悪く浮いていたのが脳裏に浮かんで消えなかった。
従業員入口のドアノブを握ると、ふと憂鬱がそれを捻る手を止めた。
数日前自分のせいで麗奈を泣かせ、その時のやりとりを高塚にみられたかもと怯えていた。それでも、その恐怖はそこまで持続したわけではない。そもそも男とキスしている決定的場面でも見られたら言い訳が効かないが、取り乱したような様子の麗奈から出た言葉を真剣に受け止める人はれほどいるだろう。それに仮に高塚に全てを見られていても、それを彼は誰かに話すだろうか。自分の話をすることにも、他人の話を聞くことにもまるで興味のなかった彼が、あの日の夜の光景を雄弁に語る姿はどうやっても想像できなかった。
『この先、電車が揺れますのでご注意ください』と言う車内アナウンスが流れて県境を跨ぐ大きな橋を電車が渡る頃には、そうやって自分を落ち着かせる事実がいくつも思い浮かんだ。
まぁ、一つ不安を和らげたところでサークルの同級生に裏でホモという蔑称で性的指向を揶揄われていたという現実の方がよっぽど胸に重くのしかかる。『麗奈ちゃんに俺のことホモって言ったろ笑笑』なんて冗談めかした牽制のLINEをすぐ送りたかったが、鷹揚に構えていた方がよっぽど噂は薄れるだろうからすぐにメッセージアプリを閉じた。
そんなことを思い出していると冷たい金属でできたドアノブが手のひらの体温で温くなる。いくら論理的な安心材料を並べ立ててもあれ以来始めて直接顔を合わせる高塚に緊張するのは当然だ。俺は意をけっしてドアを押し開けた。
結局拍子抜けするほどに、高塚はいつも通りだった。覚悟を決めて入ったバックヤードでもいつも通りのそっけない挨拶で迎えられ、今も通常通り二人の間に会話がないまま各々品出しに取り掛かっている。最初は、何も言ってこない高塚に安堵して体の力が抜けた俺だったが、次第に不思議な焦燥感が湧いてくる。だって、確実にあの夜近くのベンチに座っていた人物は高塚で、体はばっちりこちらを向いていたんだ。それに、若い女性が泣いて男を責めるドラマのような非日常のシーンに視線が集まっていたのも嫌と言うほどわかっていた。その視線の一つにあんなに近くにいた高塚が混じっていないというのはあり得るのだろうか。
白い床に膝をついて、納品されたお弁当たちの集まるプラスチックのケースの中からたらこスパゲッティを手にしたまま固まる。誰にも吐き出せない不安がぐるぐると頭の中で回っていると高塚はまさか全てを見透かしているのではないかといったあり得ない想像に着地してしまう。
すぐにスパゲッティを箱に戻して、パンコーナーにいる高塚に近づいた。
「高塚さんって、土曜日の夜中新宿の南口らへんにいました?」
屈んで手際よくパンを配置していた手が止まる。こちらを見上げる顔から読み取れるものはない。
「…東南口になら、いました」
「それって、改札出てエスカレーター下がったら広場があるところですか?やっぱ、そこのベンチに座ってましたよね」
「はい」
少し間を開けて俺の問いに答える高塚に、やはり存在していたことが間違いでなはいとわかる。
「俺も、いたんですよ気がつきました?」
じっと、前髪の隙間から覗く目を見た。確実に目が合ってないことだけはわかるがそれはいつも通りのことで何か特別に意味のあることではないはずだ。
「いや、そうなんですね」
あっけなく否定されて、緊張が解けるとともに先ほどまでの自分の妄想が馬鹿らしくなる。高塚は、まだ続きがあるのか、もう終わったのか分かりかねたようにパンに手を置いて固まっている。「急にすいませんでした」疑った相手に本心からそう言ったが高塚は気にしたふうでもなくまたパンを並べ始めた。
「おい、誰もいないの?」
レジの方から険のある声が響いてきた。まずい、自身がレジを見ていなければいけなかったのに心配事に囚われてその存在をすっかり忘れていた。俺よりもレジに近い高塚が「申し訳ございません」と言いながらすっと立ち上がり声の方に近づいていく。その頼もしい背中に「すいません、お願いします」と声をかけた。
「セブンスターのBOX」
明らかに苛立ったように言い放つ声に高塚への申し訳なさが募りレジの見える位置へ移動する。タバコを嗜まない恵吾は商品名のみ言われても番号を聞き返すことが多いのだが、高塚はレジの後ろにずらりと並ぶたばこたちの中から白く角張った箱を静かに取り出した。ロボットじみた一連の流れにさすがだと内心でリスペクトを送る。クレジットカードを掲げて無言で待つ客を予期していたかのようにクレカ決済のレジ操作が済ませてあった。
しかし、ここまで流れるように進んでいた光景がビーと店内に響く電子音によって止まる。小刻みにカードをタッチし直す客を馬鹿にするように連動して短い電子音が繰り返される。ついに我慢できなくなった男が油ぎった顔を興奮させて「おい、壊れてんじゃねえか」と高塚に詰め寄った。
「ク、クレジットカードが、エラーというふうに出ていて、お客様のカードの調子が」
「昼は使えたんだぞ、そんなはずないだろ」途切れ途切れに説明する高塚の言葉を遮って前のめりになる。
けど、あのエラーが出てるので。他の人のは使えたので、とさっきまでの機械さながらのスマートさがほころんでいく。遠回しにお前が悪いと伝えるような高塚の悪手に刺激された客はさらに怒りが増したようだ。
「あんたのやり方がおかしいんじゃないの、他の人呼んでよ」
今このコンビニにいるのは俺ら二人だけだ。新人の俺に頼ることもできず、高塚はどうすればいいのかわからないようで立ち尽くしていた。
「申し訳ございません。こちらのレジでお会計しなおしてもよろしいですか」
見ていられなくなり、慌てて二人の間に入る。男は怒っているようだが、もう深夜で長引かせたくもないのだろう。ため息混じりに横のレジへ移動する。カードを読み取る機械を変えてもダメだったら平謝りしてなんとか帰ってもらおうと思っていたが無事お会計ができてほっとする。勝ち誇った顔で「だからいっただろう」という捨て台詞を履いた客が帰って行き、店全体に張り巡らされていたような険しい空気が緩む。まぁ、確かに問題があったのはカードではなくレジだったので客側も不運といえばそうだったのだろう。
ガッツリ客に攻め立てられた高塚が未だ隣のレジで呆然としている。
「そっちのレジ調子悪いみたいですね。こういうのって店長とかにいえば治してもらえるんですか?」
声をかけると放心していた高塚がビクッと戻ってきて震えたような声で答えてくれる。
「はい、店長にいえば治してくれると思います…」
「あの、すいません、」眉を目一杯下げて悲しそうな上目遣いの瞳と初めて視線があった。元はと言えばレジから目を離していた自分の代わりに高塚が対応してくれたのだし、すっかり縮こまった姿を見るとこちらも申し訳なさが募る。
「いや全然気にしないでくださいよレジ対応任せちゃってこっちこそすいません」
辛気臭さが長引かないようさっぱりした声で明るく返すが高塚はいつもの済ました表情に戻らない。この世の終わりのように暗い高塚の顔を見ているのも居た堪れなくて「ちょっと早いけど、休憩行って来たらどうですか。寝たら気分もスッキリしますよ」と勧める。
いや、でもと渋る高塚を無理矢理裏に連れて行き「品出し後はやっとくんでほんと気にしないでください。事故ですよ」と声をかける。初めて見る高塚の弱った姿がなんだか可哀想で努めて明るく振る舞った。
結局、高塚は休憩から戻っても雰囲気がきり変わることなくドヨンと沈んでいた。最初は同情的に見ていたが、次第にそこまで引きずるほどのことなのかと不思議にもなる。時折、大丈夫ですかと言った心配やこの新商品美味しそうですよねと言った関係のない話題を振ったりしてみたがいつものように興味なさげな返答ではなく、上の空な返事ばかりが帰ってきたのに正直意外な人間らしさを感じてしまった。
朝のシフトの人と交代し、裏に戻る。なんだかバックヤードがいつもより窮屈に感じた理由が、高塚が残っていることだとすぐわかった。薄暗い空間は涼しそうなのが見た目だけで、実際の空気は嫌な暑さに支配されている。着替えが終わっているのに、そこから逃げ出さない高塚の視線が俺の方に向いている気がした。不思議に思って目を合わせようとするとサッとそらされる。自転車の鍵を片手に「お疲れまです」と声をかけても小さな声で同じ言葉が返ってくるだけなのでまぁいいいかと思い出口ヘ向かう。
「…ありますか」
瞬間、後ろから今日は一層元気のなかったくぐもった声が投げかけられる。小さな声は前半部分が聞き取れず「すいません、もう一回いいですか」と聞き返した。
「な、何か食べたいものありますか」
先ほどとは打って変わって出た大声に本人も驚いたように声が裏返っていた。。
「食べたいもの?今ですか?んーラーメンかな」
なぜいきなりそんなこと聞かれるのかわからないが、すぐに思い浮かんだものを答える。
「あの、奢ります。ラーメン」
言い終わった後の顔は悲しさを払って、いつもの無表情に戻っていた気がした。
超スピードで太陽が登っていくのと比例するように暑さが増している。この道はさっきも通った気がして記憶を探るが思いだせない。
「どうですか、道分かりますか」
さっきからスマホを右に向けたり左に向けたりと忙しなく動かす高塚に不安を感じて尋ねる。地図を読むのに真剣で聞こえないようだからぐっと頭を動かして無理やり高塚の持っていたスマホをのぞいてみた。
「あぁ、俺ここ分かりますよ。こっちですね」
コンビニからさほど離れていない場所にあるドラッグストアの隣に、目的地は示されている。よく考えれば来た道をほとんど引き返すことになると気がついて驚いてしまった。隣を歩く男は「お願いします」と俺に自身のスマホを託してきた。なんとなく、ファミレスの猫型配膳ロボットが自分の体に載せた料理を客が立ち上がって取る光景が浮かんだ。
「なんで、急にラーメン奢ってくれるんですか」
唐突な誘いに、コンビニを後にしてからもずっと気になっていた。さっきまで地図アプリと睨めっこしていたので聞き逃してしまったが、預かったスマホを片手に自転車を押して先導する俺は手ぶらになって自分の斜め後ろあたりにつける高塚に聞いた。
「迷惑かけたので」
当たり前だろうというふうにあっさり答えるけれど、もしかしてタバコを買いに来た客のことをまだ引きずっているのだろうか。
「それって、あのカード使えなくてキレてた人の時のことですか」
そう聞くと、大きく2回頷いたのがわかった。
「まじか。俺、ほんと気にしてませんよ」
あんなことで奢ってもらうのも大袈裟なのでこれまで何回も言った言葉を再度かけてみる。
「僕が、気になります」
ゆっくりとした言い方は頑ななものを感じる。こんな機会は二度とないレアな体験かもしれないし、まぁせっかくなのでありがたく奢られることに決めた。
「高塚さん、ここ行ったことあるんですか?」
ありませんという堂々とした声が隣から聞こえる。たどり着いた店は確かに『中華そば』という暖簾はかけてあったが、一つの食品サンプルも置いてない空のショーケースに軒先の名前の書かれたテントは破れてろくに読めなかった。引き戸の向こうは暗く、ガラスがモザイク状になっているせいで中の様子がわからない。
「調べたら、ここしかやってませんでした。二十四時間営業だそうです」
そう言いながら、引き戸に手をかけて固まってしまった。「開けないんですか」といえば、「準備ができたら開けます」とまた固まる。焦ったくてやってますかと大声を出して俺が開けてしまった。
店内では薄い白髪の生えた店主が背を丸めて朝刊を読んでいた。襟のない灰色に薄汚れたコックコートを纏っていたので一応営業はしているのだろう。「こんな朝早くによくくるね〜」とゆっくり立ち上がって厨房に入って行った。朱色の背もたれ部分が短い椅子と濃いセピアのカウンターテーブル、油の匂いがなんだかノスタルジーを感じさせる。
高塚は、目の前の食券機を華麗にスルーしてカウンターに腰掛けた。
「高塚さん、食券買わないんですか」「お兄さん、食券買ってね」店主の声と重なる。高塚は何食わぬ顔で戻ってきて、まるで初めてみるかのように食券機を見つめた。
「まとめて払うので選んでください」
頼もしいセリフに「じゃあ、俺みそで」と答える。外を彷徨っている時はその暑さにラーメンへの意欲が下がっていたが、強く涼しい風が絶え間無く吹く店内の冷房と、充満するニンニクの匂いに刺激されてすっかり胃は濃い味を求めている。
「餃子つけてもいいですか」と聞くと「好きにしてください」とそっけない言葉が返ってきていつも通りの様子に安心した。
ふと、スマホしか持たない高塚の姿に違和感を覚える。
「財布、カウンターにおき忘れたんじゃないですか?ここ現金だけみたいですよ」
数秒時が止まったようにフリーズする姿にまさかと思っていたら「別の店に行きましょう」と踵を返した。慌てて引き戸に手を伸ばした腕を掴む。
「ちょっと待ってください。俺貸しますよ。だからもうここにしましょう」
朝なのか夜なのか日当たりの悪い店の中にいるとよくわからないが、さっきまでもろに浴びていた強い日差しはすぐ思い出せる。もう一度あの中を歩くのは勘弁だと思ってそう提案した。
「それじゃ意味ないじゃないですか」
何を言ってるんだと張り切って出て行こうとする男を説得する。
「他の所で奢ってもらうより、ここで一緒に食べてくれる方が嬉しいです」
何回か押し問答を繰り返した後にしぶしぶと言った様子で「PayPayで後で返します」と了承してくれた。
「あ、食べるの」
先ほどまで言い争っていてなかなか食券を持ってこなかったからか店主は新聞をもう一度開き始めていた。「お願いします」と3枚食券を渡して椅子に腰掛ける。隣に座ってキョロキョロと店内を見ている男に振り回されて体力を使ったからかグゥと小さくお腹がなった。
差し出された器を満たす、濃い色のスープを掬って口に持っていく。濃厚な味噌と化学っぽい鶏ガラがギリギリマッチしている昔ながらの味はまさに求めていたものだった。
「味噌ラーメン、食べたことないです」
高塚が言ったことに驚いて「うまいっすよ一口入りますか」と器を差し出したところそっと無言で戻される。
「味噌汁に中華麺が入っても美味しくないと思うんです」
味噌ラーメンのスープが味噌汁と一緒だと思っているのだろうか。変なことをいう高塚に蓮華をおしつけて無理やりスープを飲ませようとする。手渡しした瞬間二人の間に置いてある餃子の皿に波打ったスープがこぼれた。そうして受け取った蓮華を恐る恐る口をつけて少量啜る。「ラーメンの味がする」と目を見開いて驚愕していたので「そりゃ、ラーメンですから」と笑ってしまった。
「高塚さんって天然って言われません?」
箸で掬い上げた麺についてきたネギを揺らして落とそうと試みている姿を横目で見ながら聞く。ネギが嫌いなんではなく、具材と麺は一緒に食べないポリシーだと先ほど言っていた。そう言う独特なこだわりと、目の前の券売機を無視したりこんな寂れた店でPayPayが使えると疑わなかったりする抜けた部分はバイト中の淡々としたクールな姿とギャップがあった。
「いや、天然というか思い込みが激しくて周りが見えないだけなので」
自虐めいた様子もなく冷静に鋭い言葉で自己分析を述べる高塚に「厳しいですね」と驚きと可笑しさが半々でニヤニヤしながら突っ込む。
「結局、土曜日は新宿で何してたんですか?待ち合わせ?」
つい数時間前まで焦っていて気にしていなかったが、そもそもあの時間に何をしていたのか疑問に思って聞いた。
「待ち合わせでは、ないです」
「じゃあ、何してたんですか?」
否定だけが返ってきたので、そう聞くと高塚は明確に言い淀む。言葉を探しているように考えて時間が空くことはあれど、そういう時は一点を見つめて落ち着いている。今の視線が泳いでいる姿は返答に困っているようにみえた。
ずけずけと踏み込みすぎたことに反省してすぐに「髪、邪魔じゃないですか?」と全く別の話を振る。
麺を啜ろうと俯くたび邪魔そうに降りる髪の毛を払うのをみていたからそう聞いた。
「切りたいです」と今度の質問にはすぐに答えが返ってきた
「何ヶ月切ってないんですか」
「大学卒業してから一回も切ってないです」
それだと、半年以上ということになる。雑草のように思い思いに伸びた髪で隠れる顔を見つめる。すっきりとした短髪の姿が見てみたくなって「短い方が似合いそうですけどね」と呟いた。
そういながらも、自身が髪を切ってから二ヶ月が経ちそうなことに気がつく。セットの決まりが悪い日が多いことを思い出して「俺もそろそろ切りに行こうかな」と少し前髪を持ち上げる。
「ついていってもいいですか」
お昼ご飯くらいの感覚で言うからびっくりした。冗談かと思って「美容院にですか」と聞き返したが高塚の目は本気だった。
「あんまり、友達と一緒に行かなくないですか?」
「そうなんですか?なんで?」
半笑いで遠回しに断るが、まるで通じていない。友達以上の関係に見えるからというのは、ゲイの自分の自意識過剰なのだろうか。あんまり否定するのも怪しいと思い、どうすればいいかわからずたじろいでしまう。結局押し負ける形で来週いつも行っている美容院に二人分の予約をとった。
親切に横並びの施術台が用意され、その間にある仕切りも取り払われている。
「短めでお願いします」
今日はどうしますかという美容師の問いかけにアバウトな回答が聞こえてくる。長さはどれくらいにしますか、後ろ刈り上げますか、仕上がりのイメージありますか。丁寧なカウンセリングを無碍にするように「全部、任せます」と言われた美容師が助けを求めるようにこちらを向いた。短い金髪を逆立てて髭を生やしたラッパーのような風貌とは裏腹に繊細そうだ。
「高塚さん、なんかこういうふうにしたいとか写真ないんですか」
イカつい顔を不安そうにしている高塚の担当美容師が可哀想になって聞いた。
「短ければどんな髪型でもいいです」
ヘアカタログを借りて似合いそうなものを探す。ワイルドなベリーショートよりも上品な短いセンターパートの方が似合いそうだ。爽やかなKPOPアイドルみたいな男を指さして「これでいいですか」と聞けばうなずいたので本当になんでもいいのだろう。「この髪型でお願いします」と美容師に頼めば具体的なイメージにホッとしたのか「わかりました」とはにかんだ。
となりで髪を切られる高塚はおとなしく本を読んでいた。今まで通っていた美容院では話しかけられるのが嫌だったらしく足が遠のいたと語った。スマホでもいじってればと提案したらスマホでみたいものがないという。確かに、高塚がこれまでスマホを持っている記憶がほとんどない。休憩室でいつも本を読んでいる姿をおもいだして「本読めばいいんんじゃないすか」といえば「それはアリなんですか」と驚いていた。
高塚は本に夢中になるあまり真下を向くので美容師に時折ぐっと顔を持ち上げられている。肩まで伸びていた髪がどんどんなくなって、床に落ちる。その量に感心していたら、自分も顔を正面まで戻された。
カラーリングもした俺と違い、カットだけの高塚は先に終わったようだ。シャンプーで席を開けている間に隣が空席になっていた。もしかして、もう勝手に帰ったかもしれない。仕上がりが見たかったので少しがっかりしていたら「お友達、受付で待ってますよ」と教えてくれた。
「お待たせしました」
声に反応して、受付の白いソファの片隅に寄って文庫本に近づけていた顔を上げる。本を閉まって立ち上がった頭が自分の顔に近くなると胸がドキッとするのが分かった。手入れのされていない庭さながらの髪をバッサリ耳の上まで切った上に、前髪もスタイリング剤で綺麗に分けて整えられたのがよく似合っている。隠れていたシュッとした輪郭や、すっきりした一重なのに目力のある三白眼といったパーツと相待って精悍な顔つきをしている。
「いいっすね、めっちゃ似合ってる」
言いながら、先ほど胸が躍ったのは昔好きだった戦隊ヒーローの青色を演じていた俳優に似ているからだと気がついた。英雄のかっこよさに自分を重ねるのとは違う、テレビに俳優の顔が映ると胸がドキドキとする思いが当時は何かわからなかった。
担当の美容師に見送られてサロンの入っているビルの階段を降りる。気を使われたのか、自分の心配が杞憂であったのかわからないが、二人連れ立って訪れたことには特に触れられなかった。「首が涼しい」と感動する高塚をじっと見てると堪えきれなくて「ほんと、いいですね」と少し固い髪を触ると、嫌そうに頭を振られた。
高塚はロボットと呼ぶには血が通いすぎているが、それでも同じ人間として接するにはどこか根本的に違うところがあるのも事実だった。
全ての品出しを終え、店内に誰もいないことを確認してから高塚に話しかける。
「俺、来週ずっと四国なんですよ」
寂しいですか?なんて冗談を付け加えてみるが、「いや」ともちろん真っ向から否定される。
「四国は何があるんですか?」
彼は、いつだって本当に思ったことしか言わない。俺が知っていることでも、気にならないことでも適当に話を合わせて質問することがあると伝えたら彼は衝撃を受けていた。だからこの質問も、きっと本気で気になってのことなのだろうが一緒に行くメンバーに計画の全てを丸投げしている俺は答えに詰まる。
「なんの目的もなく行くんですか」
心底驚いた表情でそう言われたので、「旅行っていうのはそういうのが楽しいんですよ」と教えると、信じられないという顔をしている。
高塚はこういうふうに、全てのものには絶対に何かしらの意味があると思っているらしかった。
加えて、高塚はルールに異常なほど厳しい。
一緒に髪を切った直後のシフトで、少しは仲が縮まったと思っていた俺は「寝癖ついてますよ」なんて親しげに話しかけたのだが「そうですか」とそっけなく返された。めげずに「冷たくないですか、一緒にラーメン食べた仲じゃないですか」とふざけて見ても「今はバイト中なので」と静かに叱られる始末。まぁ、確かに全面的に言っていることは正しいのだが、やるべきことも人もいない時間ならば少し話すくらいいのではないか。他の人も話してますよと伝えれば彼は突然バックヤードに消えていった。
「暇な時は、喋っていてもいいんですか」
もう深夜だというのに裏で作業していた店長に馬鹿正直に高塚は尋ねた。それはルールを守れない俺を糾弾しているというよりは、ルール自体を素直に確認しようとしている様子だった。
「まぁ、誰もいなければね、いいんじゃないかな」
モゴモゴと店長が言うのを聞いて以降、高塚は店内にお客さんがいない時に限って雑談につきあってくれるようになった。
一度、話が盛り上がり、品出し中にも喋り続けたことがあった。いつもテキパキと作業をこなす高塚にしては珍しく、俺の方が早く終わり、彼の分を手伝った。すると、高塚はそれきり黙り込んでしまった。「なんか、元気ないですね」と声をかけたら、突然立ち上がり「話しかけてこないでほしい」と言い始めた。聞いた瞬間は焦ったが、何しろ考えていることがわからないのでじっくり話を聞くと、自分の分を手伝わせてしまったのが嫌だったらしい。話しかけられると気が散って作業が遅れるから、話しかけないでほしい。迷惑をかけたくない。そう訴えるのに、もちろん手伝うことが迷惑だなんて思わない俺は素直にそう告げたが、自分の分は自分でやるべきだと言う考えを頑固に変えないので二人の間には品出し中は会話をしないと言うルールが付け足された。
髪を切った日に高鳴った胸は鳴りを顰めたが、こういうふうに独特な高塚と過ごす時間は異文化交流のようで楽しかった。
「よし、こんなもんかな」
絶えず聞こえていたスマホのシャッター音が消える。セピア色の机と椅子以外はキャンバス紙のような暖かいホワイトで統一された店内を大きなガラスウォールから差す光が覆っている。先ほど回った併設されている美術館の企画展とのコラボを謳ったケーキはフルーツや飴細工が精巧に積み上げられており、綺麗だが食べづらかった。納得いくまで店内の写真を撮った目の前の男もケーキに手をつけようとフォークを持つ。しかし、やや大げさに目と口を開けると忘れてたとテーブルの上の写真を一枚撮って満足そうに笑う。
「やっと夏休みだよ」
綺麗なケーキを、崩さずそのまま器用なフォーク捌きで食べ進めて悲鳴のようなトーンで嘆く。
恵吾の夏休みがすでに半分経過した九月から、美術大学に通う蓮の夏休みは始まるらしい。
蓮とは、春ごろにゲイ向けのSNSを通して知り合った。初めて会ったとき美大に通っていると教えてくれたからどんな絵を描いているのか聞いたらみんな同じこと言うんだよねと大爆笑された。そして、興奮したように美大は絵だけじゃない、自分は空間デザインを学んでいて、ユニバーサルデザインについて研究しているんだと教えてくれた。
夏休みも課題が山積みで忙しいこと、友人たちが共同でギャラリーを開くこと、今日見た展示の感想など話題を転々として絶えず口を動かしながらも、蓮はさっさとケーキを完食していた。そして、ズズ、と大きい音でアイスティーの終わりを知らせると出よっかと立ち上がる。
美術館の自動ドアを通ると、痛いくらいの日差しと暑さに迎えられて、思わず足が止まる。何時間か前まで外にいたはずなのに、記憶以上の熱気に驚いく。「あつい」と口から出すと、「溶けるよ、溶ける」と蓮はなんだか嬉しそうに同調した。
周りには、誇るように青々とした葉の生い茂る木々が太陽に照らされて並んでいる。暑いけれどまるで爽快なような風景に蓮が溶け込んでいたから、ポケットからスマホを取り出して一枚写真に収めた。
「何、撮ってくれるの」
カメラに気がついた蓮は無邪気にピースする。先ほどの自然な表情とは違う笑顔にもう一枚シャッターを押した。撮った写真を見せてくれとせがまれ、顔の前にスマホを差し出すと良い!センスある!と嬉しそうに目を細めてくれるからこちらまで喜んでしまう。
「これめっちゃいいね、インスタに載せよう」
将来のためにもと言って蓮は積極的にSNSに写真をあげている。これまで遊んでいる最中にもよくシャッターを押すよう頼まれるので、自然と自分から蓮の姿を撮るようになった。
上機嫌な蓮はスマホをこちらに返すと、そのまま肩が触れ合う距離から離れない。瞬間、腕を絡ませられると素肌が触れて、腕の毛が合わさるむず痒さと皮膚の生温かさを覚える。近づいた首筋からは柔らかい幼さの奥に重い甘さが香って顔を埋めたい衝動に駆られた。
けれども、うるさいほどの蝉の声が、少し遠くで聞こえる子供の泣く声が、自身を冷静にさせる。ここは、誰にみられるともわからない。脳裏によぎる震える目がこちらを脅迫する。
「暑いよ」
悟られないよう、穏やかな手つきでからめられた腕を解くが、蓮は不満そうに口を尖らせる。
「別にいいじゃん」
再び腕を掴まれそうになるから、軽く身を引いてかわす。
「まぁ、家までのお楽しみ的な」
軽い冗談でやり過ごそうとするが、納得したとは言い難い疑わしい表情をみてごめんねと付け足す。その一言を聞くと未だ不満はそうではあるが普通の友人のような距離感に落ち着く。
「今度は動物園にでも行こうか?」
嫌な記憶を押し込めるように、または二人の空気を崩した責任を取るように少し先に見えた動物園の看板を指差す。
「僕、動物そんな得意じゃないよ」
そういえば、昔何かに噛まれてから怖いと言ってたような気がする。「誰と間違えてるの」と拗ねているがそれほど本気は感じられない。ごめんごめんと笑って謝った。
「マルイで本の装丁の企画展やってるんだって。行くならそっちがいいな」
調子の戻った明るい声で提案してくる。
「本読むっけ」
「読まないよ、でも表紙のデザインとかみるのは好き」
「そうなんだ、じゃあそうしようか」
呟きながら休憩室で正座しながらいつも違う本を読んでいる高塚の姿を思い出した。そこまで時間が経ったわけではないのに駅に着く頃には少しの陰りと吹く風が暑さを和らげていた。
シャープなデザインの机とセットの椅子は座席が硬くて座り心地が悪いので恵吾はあまり好んで座らない。家主は帰ってから服も着替えずにスケッチブックに向かい初めた。時々、カフェで撮った内観の画像と睨めっこしながら、今はパソコンの前から動かない。二時間以上も硬い椅子に腰掛けているのが心配だった。そんなことを思っていると、やはり限界が来たようで組んだ両手を天井に向かって大きく伸ばす。
「蓮、そろそろ飯食えば」
帰り道に寄ったコンビニで買った弁当を健吾はとっくに完食し風呂まで済ませていた。手をつけられていない方の弁当を指して言えばあぁと言う生返事が返ってくる。それでも、集中力は伸びと共に切れたようで、全身の力を抜いただらしない姿勢で椅子に乗っている。
課題に取り組み、待たされるのはいつものことだが、それにも限界がある。蓮の背後にそっと近づいて肘掛けの上に置かれた手にそっと自分の手を、指を絡ませるようにかぶせる。上から覗き込んで、期待を持った目を確認するとゆっくり顔を近づけて唇を合わせた。
少し経って唇を離すと、蓮は俺の服の裾を引っ張り一人暮らしには大きい、男二人には狭いベッドへ誘導する。せがむような仕草がより興奮を掻き立てた。
シーツの上で、蓮の服を脱がす。男にしては痩せており、自分と比べれば少し頼りない。それでも女性とは決定的に違う体が目の前にはある。乳房はないけれど暑い胸板が、華奢ではないしっかりした肩幅が、硬く引き締まり血管の浮き出る腕が、上下する喉仏が、そして中央で興奮して震える男性器がどうしようもなく自分の本能を刺激して下半身に熱がこもる。
ふと、昼間できなかったことを思い出して首筋に顔を埋める。しかし、いくら鼻を押し付けても汗ばんで濃くなった体臭以外に得るものはなかった。
「どうしたの」
長くそうしていたのが変だったのか、不思議そうに尋ねられる。
「そう言えば今日いい匂いがしたなと思って」
「ああ、確かに香水つけたけど、汗もかいたし時間も経ってるし落ちたんじゃないかな」
ねえ、それより早くと足を擦り付けてくる。あの甘い匂いは嗅げなかったけれど、吸い込まれた男臭い匂いに興奮も高まり、いつもより強い力で腰を抱いた。
「ねえ、この写真ストーリーにあげてもいい?」
クーラーが効いている部屋でも、体を動かせばまぁまぁな汗をかく。情事による汚れを先に洗い流してベッドに寝転ぶ蓮に、いまさっき風呂から出た俺はまだ服も着ていないうちに話しかけられる。急いで下着だけ履いて、ガシガシと濡れた髪をタオルで拭きながら声のする方へ近づく。手入れがめんどくさいと嘆いていた金髪に手を置くと、しっかりと乾かしてあった。
スマホの画面を覗き込むと、今日二人で撮ったセルフィーが見えて思わず顔を顰める。
「ごめん、ちょっと顔が写ってるのはやめてほしい」
積極的に蓮の写真を撮るのは、ツーショットをアップできないことへの罪滅ぼしの気持ちもあった。蓮は口癖のように「自分はゲイだからこそ、普通じゃない人の気持ちがわかる。こういうふうに生まれて、痛みのわかる人間になれて良かった」と障害者の人が使いやすいデザインの研究に励んでいる。そんな彼のSNSはゲイということを隠さず、むしろ積極的にアピールしていた。そういう志の部分に尊敬を持っているのは嘘ではない。それでも、自身が同じように振る舞えるかと聞かれれば口を紡ぐ他なかった。
「どうしてダメなの」
昼間外で腕を振り払った時と同じトーンで詰められる。
「だから、俺家族とか友達とか誰にもゲイってこと言ってないんだよ。蓮がオープンだから、窮屈に感じるのは申し訳ないけど、極力バレたくないんだ」
出会った時から再三行っていることなのに。しつこい連に僅かな怒りを感じながらも、頑なに隠している自分がおかしく映るのも分かって冷静に答える。
「そうじゃなくて、どうしてそんなに必死に隠すの」
明確にその答えは持っていても、向き合うのが怖い。自分が直視できないものを他人にさらけ出すなんて到底無理で、何も言えなくなる。
「ほんとは、女の人と付き合って、僕とは遊びなの?」
目が潤み始めた蓮に、もはや勢いもなく萎んだ声で聞かれたことにだけは「そんなわけない」とすぐ否定する。それでも続く言葉に詰まってしまうと全部が嘘のように聞こえるだろう。
仲のよかった男友達に自分を曝け出したことがあった。ホモかよなんて軽く揶揄われたそいつが「そういうの、よくないって」なんて笑ってあっさり流しているのがカッコよくて俺の方から近づいた。距離が近づくにつれて、頭の良くて包容力のあるところに惹かれていった。そいつの部屋にある本棚にはみっちり本が詰まっていて、日頃から世界中の戦争や差別、格差に嘆いていた。そういう大きい問題を熱心に語っているのを見ると、自分の秘密なんて小さなものは簡単に受け入れてもらえるんじゃないかと錯覚したんだ。
結局「俺男が好きかもしれない」なんて言ったら大袈裟に「話してくれてありがとう」と神妙な顔をしていたが次の日からよそよそしくなった。まさか自分のせいだと思いたくなかった俺は、気がつかないふりをして誰もいない廊下にいたそいつに背後から近づいて声をかけた。軽く肩に置いた俺の手を、振り向いて顔を確認した途端反射的に振り払われる。相手は自分が傷ついたように顔をゆがめて謝るからひどく悲しくなった。それでも、みんなと違う自分のことを恨んでしまって適当に彼女を作ったりしてはまたその女の子を傷つける。そうやって過ごしてきた人生は自分のことを否定するには十分だった。
「だってみんながどう思うか、わからないだろ」
絞り出した弱々しい本音に「どういうこと」と訝しげに見上げられる。その一言で俺と蓮は分かり合えないとひしひしと感じてしまう。蓮が口癖のようにゲイで良かったというたび、俺は本当は心の奥底で蓮は自分に暗示をかけているとしか思えなかったのだ。
「俺は、みんなと同じように生まれたかったよ」
全てがどうでもよくなり気がついたら、ため息のように蓮と俺、全てを否定する言葉が吐き出されていた。
「恵吾なんて世間体気にして女と結婚して、ゲイってバレて慰謝料請求されればいいんだ」
俺を見透かしたように的をえた、それでも自分が投げた言葉よりも数百倍優しい捨て台詞で部屋から追い出された。お風呂上がりで言い争っていたから、着ていなかった服もそのままに玄関から外へ捨てられる。よく見たら、まだまだ熱帯夜なのを心配したのか水も一緒に入っていた。
黄色いラインの入った電車に乗って新宿まで着くと、自分の最寄りに向かう最終電車がもう出発していることに気がつく。
どうしようもないから改札を目指した。大きくため息をついても罪悪感が流れることはない。適当に足を動かして駅を出ると、先日麗奈に詰められた広場が見えた。取り乱して謝っていた麗奈の顔と最後走り去っていくときのヒールの音が鮮明に思い出される。今日自分の言葉で傷つけた蓮の感情を失ったような白い顔も一生脳に残り続けるのだろう。
被害者面をするわけではないが、嫌な思い出が募って頭が痛い。慌てて階段を降りて、ベンチに腰掛けた。情けなくも蓮から恵んでもらった水に口をつけ一気に三分の一ほど飲み干す。 周りを見渡すと、いつもと同じような人と光が無数に存在する風景が広がる。そうしながら、自分はそこに溶け込めているのか不安になった。感傷に浸って視線を横に移動させると、そこにさっき自分が心配したような景色から浮いた存在が見つかった。
「高塚さん」
高塚の俯くようにした横顔がそこにある。見知った顔は、情景の中に記号として浮かび上がって目立っていた。ものすごい偶然と、こんなに近くにいてお互い気がつかなかったことに驚いて大きい声で名前を呼ぶ。高塚は、微動だにしない。不思議に思って、今度は肩を叩いてみた。そうすると、ようやく何か呼ばれていることには気がついたようでハッと目を開きこちらをむいた。
「すごい、偶然ですね。こんなところで何してるんですか」
知っている顔がそばにいることで先ほどまでの孤独が和らぐようで嬉しかった。それでも異様に明るいテンションで話しかけてしまった後に、高塚が目線を不自然に泳がせているのがわかると声をかけないほうが良かったかもしれないと思い直した。そう言えば、以前も全く同じ場所に座っていたことがあったし、その理由を聞くと言葉を出さなくなったんだ。自分だって、男の恋人に振られて終電を逃したなんて言えたものではない。
「すいません、俺行きます」
謝罪と共にそう宣言して立ちあがろうとしたら「何もしてないんです」と俯いたままで高塚が口を開く。喧騒に吸い込まれそうな小さい声だった。
「別に用はないんですけど、家にいたくないので」
その言葉に、踏み込んでいいのか迷ったが結局「家族と、あんまり仲良くないんですか?」と聞いた。
「家族、は普通だと思いますよ。ちょっと、家を出てから会ってないのでおそらくですが」
前半のセリフがさっきの高塚の言葉と矛盾するので意味がわからなくなる。「え、一人暮らしってことですか?」確認してみたらはいと頷いた。
「じゃあ、事故物件とか?」半ば本気で行ったが「違います」と否定された。
「何が嫌なんですか?」あんまりずけずけ聞くのもよくないと思いつつ気になってそれだけは聞いておきたかった。
「考え事が止まらないんです」
そこから続く高塚の告白によると、夜中家にいるといろんなことが頭に思い浮かんで眠れないそうだ。夜勤のバイトをやっているのも、夜家にいたくないのが理由らしい。夜勤もなくて、どうしても嫌なことばかりが頭に浮かんで辛い時は家を飛び出してこのベンチに座るのだそうだ。
眠れないほど何かを考え込むというのが恵吾には想像がつかない。
「たとえば、全然言える範囲でいいんですけど、どういうことが頭にあるんですか」
無理に辛いことを思い出させたくはないから優しい枕詞をつけて聞いたが高塚は静かに遠くを見つめて語ってくれた。
「何でみんな普通に歩けるんだろうとか、何でみんな電車の中で邪魔にならない位置がわかるんだろうとか」
辛い過去でも出るのかと身構えたら、予想と違い軽いとか比べることもできない不思議な疑問を言い出した。先ほどから深刻そうな前振りをことごとく裏切られている気がする。それでも話してくれたことに対して「なるほど」とだけ返した。
「そう言う、当たり前にわかることがわからないんです。気がついたら人の流れに逆走してるし、今いる場所が正しいのか不安になる」
続く言葉に何となく言いたいことがわかった気がした。高塚はいつだって着眼点というか、考え方が変わっている。それでもそこが新鮮で一緒にいて楽しいし、堂々としているからまさかそう言うことに悩むとは意外だった。
「でも、そこがいいとこなんじゃないですか?」
素直に励ましたつもりだったが、表情は暗いままだ。納得してないようにさらに続ける。
「他の人と同じことが嫌で、同じことが気になるように生まれたかった。ずっと、いつも自分だけ違うから、生まれ直したいです」
言葉で心臓をノックされたようだ。だってそれは、ずっとゲイの自分に対して思っていたのと同じだったから。思わず「わかります」と溢れるが高塚は信じてないのか何も反応しない。どうすればこの気持ちを共有できるのか考えても、自身の隠していることを打ち明けないことには難しいとわかっている。帰る手段も知っている人もいない新宿で一人心細くしていた時に高塚を見つけたさっきと同じように興奮する心が冷静さを欠いた。
「俺もゲイだから、わかります。普通に女の子好きになって、普通に結婚して子供持って、そういうことができるように生まれたかったです」
言い終わったすぐに、高塚の反応を伺った。コンビニで接客している時と同じ何の感情もないような顔だ。それでも、なかなか何もいいださないから心音が大きくなっていくのがわかった。
「ゲイだと、ダメなんですか?」
やっと聞こえた声に安心したが、驚きでも共感でも励ますでもない純粋な疑問に拍子抜けした。
「よくはないですよ。友達にも親にも言えないし、俺一人っ子だから孫の顔も見せてやれないし」
「なぜ、言えないんですか?子供だったら養子でも代理出産でも使えば問題ないし、そんなに孫が欲しいならもっと子供を産んでおくべきです。今は結婚しない人も多いんだから絶対に孫が見たいなら予備を作ってない方が悪いと思います」
「でもやっぱ、嫌悪感はあるじゃないですか。それに俺がこんなんだから女の子のこと泣かせるし」
高校生の頃の男友達に拒絶された話をしても「言動が一致しないのが悪い。思ってもないことを言うその人がおかしいです」、適当に付き合った子を泣かせた話をしても「やってみないとわからないんだから仕方がないじゃないですか」と反論する。
「本当に、わからないんです。別に迷惑かけないじゃないですか。僕は人に迷惑をかけまくってます」
堂々とそう言った高塚は小学生の頃友達の作り方がわからないから近所の同級生の後をつけて泣かれたこと、中学生の頃クラスのいじめに気が付かず教室全体の話し合いで自分は関係ないと行って教師に怒られたこと、高校では誰とも話さなかったのに卒業文集の「変な人」ランキングでなぜか一位だったこと、面接で質問の意図が分からず結局どこにも就職できなかったことを語った。
その後何度ゲイの悪いところを説明したとしても、高塚は全く理解できていなさそうだった。理路整然とこちらの理由を論破してくるのを聞いていると不思議と今までの自己否定がバカらしく思えてくる。
挙げられる理由も尽きて、お互い無言で座っていると高塚はいきなり立ち上がり宣言した。
「帰ります」
時刻は、午後の一時ごろだ。電車も出ていないし疑問に思って「タクシーですか?」と聞けば当然のような顔をして「歩いて帰ります」といった。
「歩いてですか?こっから家まで?」
電車でも三十分ほどかかるのに歩いたら何時間かかるんだろう。思わず驚いて確認してしまう。
「そうです。いつもそうです」
本当に毎回そうしているのだろう迷いのない足取りで歩き始めた高塚に慌てて着いていく。ここにまた一人になるのは孤独に耐えきれない。
「どのくらいでつくんですか?」
ガールズバーか何かの怪しい客引きを無視してズンズン進んでいく高塚に後ろから問いかけた。繁華街を抜けると一気に辺りが真っ暗になり夜空が遠くなる。耳も視界も落ち着くような暗闇に馴染むように高塚の歩みも遅くなる。
「この速度で行くと、五時くらいには家に着きます。あそこは話しかけられるので早歩きしないとダメなんです」
そう説明しながら、二人肩を並べて進み始めた。
「NIMBY問題って言うのがあって」
どれくらい歩いただろうか。新宿の喧騒もずっと前に感じるようなお互いの顔もみれないほどに暗い中でつぶやかれた言葉に耳馴染みはない。思わず「何ですかそれ?」と聞き返した。
「not in may backyardの略なんですけど。ゴミ処理場とか、精神障害者の入院施設とか必ず必要な施設だけど、自分の家の近くには作ってほしくない人が多いんだそうです。でも、作らないんじゃなくて、自分の家の近くじゃなければ積極的に作って欲しいんだって」
なぜ急にそんなことを語り出したのかはわからないが、初めて聞く理論に「そうなんですか」と相槌を打つ。
「僕は、誰かに迷惑がかかるなら、別に作らなくてもいいんじゃないかと思うんですけど、みんなはそうじゃない。自分に迷惑のかからない場所に作って欲しいって傲慢な考えなのに。でも、そう言うずるい考えが普通なんですよね。だから、ゲイだって言ったら態度が変わった人も、そうなんですかね」
やっと、その話をし始めたのが、自分の過去に関係するからだと分かった。それでも小難しい理論に頭が混乱する。
「少数民族も、必ず不当な扱いを受けるし。きっとそれと同じで悪いことはなくても自分と同じでないものは本能的に嫌なんですよ」
続く言葉に、もしかして高塚は自分を励ましてるんだろうかと気づく。何だかその不器用さが嬉しくて「慰めてくれるんですか」と聞くとバツの悪そうな顔でさらにつらつらと喋り立てる。
「さっき、迷惑かけてないからいいと思ったけど、確かにみんなと違うことで嫌な思いをすることもあるのかなと思って。それでも、人が同性愛者になるのは、生まれつきか環境のせいですよね。小さい頃の環境は自分で選べないんだから、やっぱり自分を責める意味がわかりません」
そういうことを聞いていると、ふとこの人の前では自分が普通の人間になるような感動を覚えた。頑なに、何が辛いのかを分かってくれないのはそういう自分のコンプレックスが無効化されている心地よさがある。
「高塚さんは俺がゲイって聞いてどう思いましたか」
そう聞くのに、勇気は要らなかった。たっぷり考え込んでから「特に、何も思わない」と返される。線路に沿って、今歩いている土手には見覚えがあった。この橋を渡れば時期に家に着くだろう。暗闇でも見慣れた風景は安心して、少し泣きそうになった。
「美容師さんから見て、右側の手前が痒いです。…あ、もうちょっと頂点寄りですね。あぁ、そこです」
シャンプー台に横たわり髪を洗ってもらっている最中、隣から聞こえてくる声に思わず噴き出してしまう。そうすると、顔の上に載せられた薄いガーゼが数ミリ浮き上がった。
「やばい、すっげー真剣ですね」
なかなか消えない面白さに肩を少し振るわせ、横で髪を洗い流してもらっている高塚に思わず突っ込みを入れる。
高塚からこれと言って反応はない。独特の間で話すことは知っているので、気長に待っていたが遂には何の返答もないまま先にシャンプーを終え、担当の美容師に案内されるままに席へと戻ってしまった。
少し笑いすぎたかな、不安にさせてしまったかなと反省しているうちに遅れて自身も高塚の隣の席に案内される。
「洗い流しがないかの、確認をしているそうです」
隣の席に腰掛けるや否や、高塚は少し興奮したように早口でこちらに伝えてきた。突然で意味がわからず、何事かと問う直前に「あの、痒いところはないか聞かれるじゃないですか。なんて答えたらいいかわからないから毎回律儀に痒い所を見つけてたんですけど、大体みんな、ないって答えるらしいです」とどんどん内容が追加されていく。興奮しているようで、こちらに顔を向けそうになってはカットしている美容師にそっと顔を鏡の正面へ戻されている。そんな様子に、俺の担当の美容師は少し笑っているようだ。
「なら何で聞くのかっていったら、洗い流しがないか確認するのに聞いているそうです」
ようやく当初の発言の意味が理解できる頃には、同時に一つ豆知識を得ることとなった。今まで気にもしなかったことに意味があると言うことにも、それを探究する高塚にも思わずへぇと感嘆と呆れが半々くらいで漏れる。
「てか、毎回痒いところ探してたんですか」
しかし、そんなことよりも高塚自身の言動が気になってしかたなかった。いつもながら、世間の大多数とは違った奇行に注意が向き問いかける。
「砥山くんが笑ってたから気がつきました。聞くくらいだから何か答えたほうがいいいのかと思ったんです。何で、前回教えてくれなかったんですか」
少し笑いすぎたようで、高塚は眉を下げて不安そうにこちらを責めている。また、顔を正面に戻されている。
高塚と一緒に美容院に行くのはこれが2回目だ。一回目は、肩まで無造作に伸びて前髪が鬱陶しそうな状態の高塚と一緒に連れ立って来店したのを思い出す。多分、伸び切った髪を整えるのが先だったためシャンプーのタイミングが被らなかったんじゃないだろうか。
「ごめんごめん、笑いすぎましたね」
「そんなに変でしたか」
「まあ、あんま聞いたことなかったけど、面白いから良くないですか?」
未だ不服そうにする高塚を宥めるが、本人は納得していないようだ。そうこうしているうちに、高塚は「すいません、ここから前髪切るのでちゃんと正面を向いててもらってもいいですか」と美容師に注意されて、その後話しかけても「前を向いているのですいません」とカットが全て終わって、「待ってます」と言い席を立っていくまで一切の会話がなかった。
「お待たせしました」
恵吾は会計を終えて、入り口のソファに座って本を読んでいた高塚に声をかける。
ありがとうございましたと言う美容師の声を背に、二人並んで退店する。駅に向かって歩き出すが、外は真っ赤な夕暮れに染まっており、九月の中頃にもかかわらず、湿度の高い熱気が絡みつくような不快感があった。
「結構短くしましたね」
サイドは耳の数センチ上まで短めに刈り上げ、襟足もかなり短くカットされている。セットしてもらったのか真ん中あたりで分けられた前髪を撫でると少し硬かった。すっきりした顔立ちによく似合っている。
「さっぱりしたような気はします」
触れられたことに驚いたのか目を細めるが、手は振り払われない。こちらが投げかける視線はいつも通り会うことはない。高塚は、いつもどこをみているのだろう。
「優人さん毛量多いから、やっぱりこのくらいの頻度で行ったほうがいいと思いますよ。二ヶ月経っただけで結構ボリューム出てきてたし」
あの夜、新宿から歩いて帰ったすぐ後に下の名前で呼んでいいか聞いた。自分の弱さを無効化するようなこの人と、もっと距離を縮めたいと思ったからだ。「呼ばれたことがないので反応できるかわかりません」なんて自分の名前なのに不思議に宣言した通り最初の方が何回か呼ばないことには振り返ってくれなかったが今ではすぐに反応してくれる。
ほとんど毎日後ろ髪を跳ねさせたままだった昨日までの高塚と、今隣にいる綺麗にセットされた高塚を比べるとやはり後者の方が何倍も見栄えがいい。それとなく、今後も定期的な美容院でのカットを促すが、顔は渋いままだ。
「…やっぱ、美容院疲れるんでね」
遠くを見つめて、つぶやく。確かに高塚は美容院に行く前は緊張して顔はこわばっていたし、終わった今は疲労の色が窺える。一体運動したわけでもないのに何がそんなに疲れるのだろう。
「こう、したいとかないんですよね。短ければ何でもいいし、違いもよくわからないから長くなきゃ文句言わないのに色々細かく聞いてくるじゃないですか。あれが苦手で」
「前は色々聞かれた時、砥山くんが答えてくれたけど今日は自力でやったら散々でした。短めで、あとは任せますっていったのにすごく色々聞かれて何で何ですかね」
キマったセットに似合わない、しけた顔でぼやいている。
「任せるっていって、仕上がりに文句言う人もいますからね。髪は戻せないし、慎重にもなりますよ」
納得のいってなさそうな様子に、美容師の事情を説明する。
「僕は言いません」
「多分、優人さんが文句を言わないかどうか美容師は見分けられないじゃないですか」
「僕は、前回も同じ美容師の人に何でもいいといいましたし、文句は言いませんでした」
高塚は、説明に納得いかないようなので、さらに詳細な説明をする。
「二ヶ月前のそんなこと、覚えてないですよ。だって、優人さんと会う間に美容師の人は数えきれないお客さんを担当してるわけじゃないですか。覚えてるのは難しいですって、そんなもんですよ」
その言葉を聞いたきり、黙り込んでしまった。再び口を開いたのは、最寄駅について二人家に向かって歩き始めた頃だ。
「僕は火星の人類学者なのかもしれない」
「え⁈」
沈黙を破ったのは、意味の取れない言葉だった。
「火星の、何ですかそれ」
やはり、頭の中をのぞいてみたくなるほどに高塚は突拍子もない。
「前読んだ本に、そう言う言葉があったんです。僕は、いちいち人の行動の意味を考えて定義づけしないと理解することもできない。自然に感じられることがわからない」
「僕のことが嫌いになったら、直接言うか、僕のことを無視するかして欲しいです。それか、合言葉でも作りましょうか。僕と一緒にいるのが辛くなったらその言葉を言えば今後一生近づきません」
昔、アプリで知り合った男に聞かされたSMプレイのルールみたいなことを提案されると真剣な訴えのはずが少し面白おかしく感じられる。
「急に、何ですか。好きですよ。てか好きじゃなきゃこんなバイトでもそれ以外でも一緒にいませんって」
何が何だかわからないが、素直な気持ちを伝える。しかし、俯いた高塚の顔は晴れない。
「僕はきっと、それくらいしないと気がつけないから、嫌だと思いながら一緒にいてもらうのは申し訳ないです」
高塚は必死に訴えかける。時々こうやって自分に否定的なことを言うのが俺にはひどく悲しく感じられた。そのままの彼でいいと、口で言っても言い返されるのだろう。
そう思って、周りに人がいないのを確認して篠塚を強く抱きしめた。痛いくらいの抱擁に高塚の力は抜けて何も言わなくなる。抱き返されず直線の腕も、服越しに感じる肌の湿度も、美容院帰りの独特な匂いにも高塚が今ここにいることに安心できる。
「さっき優人さんが言ってた合言葉って、SMプレイにそう言う制度があるんですよ、知ってました?」
キツく閉めていた腕を離して、急に話題を変える。高塚はまだ知らぬ知識に気を取られたようで、先ほどまでの暗さから一転して興味ありげだ。
顔も思い出せない男から教えてもらった知識を話しながら再び歩き始める。橙色の空のほとんどは闇に飲み込まれてしまった。こどもの用に澄んだ瞳で話を聞く男を見て、セットされた前髪が崩れるほど撫で回した。突然のことにびっくりして固まったボサボサの頭の男を見ても、愛おしさは何ら変わらなかった。
にわのエイリアン 佐佐木 @target1128
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