第15話 捨てられない魔法


 ちょっといいかねと声をかけてきたのは言語学の講師ホイスラーだった。

 三限目が終わりみんなが一斉に階段へと向かっている中を三階から冴えない中年男性が揉みくちゃになりながら下りてくる。


 ホイスラーは灰色の髪を掻きながら「やれやれ、若い者の力は凄まじいな」と呆れ顔でフィルの前に立つ。

 丸顔の講師はついてくるように視線だけを寄越して階段から離れていった。


「年配者に対しての礼を失するとは全くなっとらんな」

「すみません」


 なんとなく謝るとホイスラーが「構わんよ」と鷹揚に笑った。


「それが若いということだから。さあここでいいだろう」


 全員が帰宅して無人となった二年生の教室へ入って行く講師の後に続いて中に入る。

 そこはついこの間まで毎日のように通っていた教室で、一年間ヘレーネやライカと同じ時を過ごした場所だった。


 そして今はリディアの所属するクラス。


「実は今隣国キトラスから交換留学生の話がきていてね。広く募集しているから知っているかな?」


 学生課と玄関ホールに張り出されているので学園の生徒は全て知っているだろう。フィルは首肯して「それがなにか?」と問う。


 ホイスラーは言語学の講師をしながら外交部門で公的な立場も持っている。他国との関わりや情勢に通じ、交渉や学生の留学の相談にも乗っていると聞いた。


「キトラスは宗教国で信仰深く慎み深い者が多い。さすがに誰でもいいというわけでは無くてね。学長や各クラスの担任にも相談して何人かの候補者を選出しているのだが」

「……もしかしてぼくの名前が挙がっているんですか?」

「その通りだ」


 ホイスラー本人が直接接触してきたということは、フィルが適任者だと結論が出たということに他ならない。

 眉を寄せて俯くと、慌てて「無理強いはしない」と宥めてきた。


「ただ学長も君のクラス担任もフィル・ファプシスに任せるのが一番いいだろうといってくださっている」

「どうして学長がぼくを」


 見事な赤毛の美しい女性を思い出し、首を傾げる。

 学園の様々な式典でしか見たことは無いが学長はかの有名なグラウィンドの直系であるコーネリア=グラウィンドだ。

 エメラルドグリーンの瞳は魔法使いというよりは好戦的な歴戦の戦士のように見えた。

 大きな唇からは張りのある声で壇上から生徒へと呼びかけ、すらりとした身体に纏った漆黒のローブには学園とグラウィンド公爵家を表す紋章が刺繍されていたのを覚えている。


 360人いる学生の全てを忙しい学長兼公爵が把握しているとは思えない。


「学長は優秀で未来ある君のことを危惧していらっしゃる。過去を忘れることなどできはしまいが、その力を無為に失うことはフィライト国にとって大きな損失となる。これをいい機会だと思って、キトラスで新しい文化や思想を学んでみてはどうかね?」

「……先生。ただの過去ではありません。ぼくの過去は大きな過ちであり、罪です。そんな人物を交換留学生に推薦するなんて間違いです」


 自分に魔法の才能さえなければあの事件は起こらなかった――起こさなかったはずだ。

 だからこそ忌み、嫌い、拒絶しているのに。

 未だにフィルは魔法学園に通い、魔法を学んでいる。


 結局は捨てられないのだ。


「この交換留学はただの交換留学生を受け入れるのではない。重要な意味を持ってなされるものなのだ。この留学を受け入れてくれることをオルキス殿も望んでおられる。この意味解るな?」

「オルキス=フォルビア様が」


 つまりフィルに拒否権は無いということか。

 リディアの祖父である侯爵がフィルに行けといっている。


「受けることが罪滅ぼしになるということだ」


 口が歪んだ笑みを浮かべるのを自覚しながらフィルは成程と理解した。

 一番扱いやすい相手を選んだのか。

 そういう意味では適任者はフィルしかいなかったかもしれない。


「きっと受けることになると思いますが、少し考えさせてください」

「そうだな。今週中に返事を頼む。期待しているよ」


 この場での返答は避けたかった。

 ぽんと乗せられたホイスラーの手が離れて背を向けて去って行く。

 

 その後ろ姿に投げかける。


「そんなにお加減が悪いんですか?」


 肩越しに振り返った横顔の眉が跳ね上がってフィルを見た講師の目は鋭く、それ以上の発言も質問も許さないと告げていた。


 それだけで十分だ。

 黙って頭を下げてホイスラーが退出するのを待つ。

 思いの外重く扉が閉められた音が響いた。


「グラウィンド公爵とフォルビア侯爵、それに外交官のホイスラー先生……。想像以上に深刻な事態みたいだな」


 教室を見渡して一年間の思い出を振り返る。

 花のように美しく、気高いヘレーネ。

 歯に衣着せぬ飄々としたライカ。

 偽りの仮面をつけてはいても楽しかった。


 友情というには打算的で、知人というには知りすぎていて。


「さて、帰るか」


 感傷的な気分を切り替えて廊下に出て階段へと向かうが、生徒たちの姿も声も無い。とっくに下校してしまっているようだ。

 階段を下りて入口へと向かうとそこにライカの姿を見つけて首を傾げる。


「どうしたの?」


 奇行な行動を取ることも多いライカだが、入り口横の壁に背をつけて顔を横向けた姿はちょっと声をかけがたい雰囲気があった。

 鋭い三白眼は中では無く外へと向けられていたので、黙って通り過ぎたとしてもライカの目の前を通過することになる。

 それならばと問うと、静かにしろと指を唇に当てる仕草でフィルに命じた。


「……なに?」


 近づいて小声で聞いたら親指で外を見るようにと合図する。

 その通りに首を伸ばして覗きこむとリディアと少年が向かい合ってなにか言い合っているように見えた。


「あれは」

「知り合いか?」


 ライカが短く聞いてくるので頷く。


「知り合いというか、この前学食で意味の解らない宣戦布告をされたんだ。ノアールと寮の部屋が同室らしくて。確かベルナールとか」

「なんでもいいけど。ありゃちょっとまずそうな感じだぜ」


 顔を顰めて危ぶんでいるくせにライカは止めようとはしない。


 「あ」と声を上げたのは無意識だった。

 顔色の変わった少年ベルナールがリディアを壁に追い詰めて逃げられないようにした。

 そのせいでここから二人の様子が全く見えなくなってしまう。


「ほらなー」

「ちょっと、本当にまずいよ」

「じゃあ助けてやれよ」

「ぼくが?」


 申し訳ないが揉め事から逃げるような日々を過ごしていたので、こういう時にどう対処していいのか解らない。

 止めに入って抵抗されたら無様に地面に倒れて御終いである。


「あいつがどうなってもいいのなら黙って見てろ」

「どうなってもいいとはいってないよ。ライカこそ、ここから見てるだけで止めないの?」

「俺はこの件に関しては余計なことすんなっていわれてるかんな」

「それはヘレーネに?」

「他に誰がいる?けどそのヘレーネが今日はちょっと野暮用で欠席してっから、他に助けてくれる奴がいない」

「じゃあ別に助けに入ってもいいんじゃない?」

「人を当てにすんな。お前もあいつも気になるならちゃんと責任もって最後まで面倒見てやれっつうの。おっと、上手いこと逃げ出せたみたいだな」


 遠ざかって行く鈴の音にほっとしていると、ライカが入口から外へと出ていく。

 それから舌打ち。


「利用される前に傷もんにされちゃまずいな。どうする?助けないのか?」


 これが最後通達だろう。

 フィルは黙って頷く。

 再度舌打ちしてライカの足が地を蹴る。

 音も無く、気配も無くベルナールの背後に駆け寄ると素早い動作で腕を捻り上げた。

 鮮やかな手腕で更に容赦なく締め上げる。

 苦しんでいる姿に怯えてリディアがライカを止め、少年が回廊の床に転がった。

 そして泣いているリディアを「送ってやる」とライカが連れて登校用魔法陣へと連れて行くのを見送ってからフィルはベルナールの元へと歩み寄った。


「ちょっとやり過ぎだと思うよ」


 声に非難と怒りが滲んだのは仕方が無いだろう。肩を押えて苦痛にあえいでいる姿をじっくりと眺めて漸く溜飲が下がる。なにもできない自分が彼を本当は責めることなどできないのに。


「宣戦布告ってリディアのことだったのか」


 愛とかなんとか薄ら寒いことをいっていた少年の前に腰を下ろす。碧色の瞳は痛みのために涙で潤んでいるが、しっかりとフィルを睨んでいる。

 前歯で噛み締めた唇は白く、顔色は蒼白だ。

 肩は外れていないが、筋や腱を痛めているだろう。

 しばらくはペンやスプーンを持つことも難しいはずだ。


「心配しなくてもぼくは君と同じ所に立てない。戦う必要なんてない。強引なことをしなければ君を見てくれたかもしれないのに」

「目の前で」


 ベルナールが震える唇で必死に言葉を紡ぐ。

 慎重に息を吸って吐く様子に呼吸するだけで痛むのだと気づいた。


「ノアールと会えなくなったとか、フィルとも上手くいってないっていわれて」


 悔しかったのだと目が訴える。

 痛みを堪えて呼吸が落ち着くのをじっと待っているとベルナールが瞳を細めて笑ったように見えた。


「しかも学園を辞めるって。おれの前で決めて」

「辞める?」

「それって……やっぱりおれのせいかな」


 不安そうに呟くと後悔を滲ませて大きく息を吐き出した。

 疼く腕を押えながら「謝るんだもんなぁ。しかも良い顔で」と苦笑する。

 どうしてリディアが学園を辞める必要があるのか解らないが、彼女の思考はいつも唐突で決めた後は最後までやり遂げる。

 つまり今回も決めたのだから誰が止めようともリディアは学園を辞めるだろう。


「それでおれ、焦っちゃって。しかも昔の恋愛がらみのこととか思い出して。最低なことしちゃったなぁ。完璧に嫌われた」

「自業自得だと思う」

「解ってるよ。いわれなくても」


 顔を歪めて呻いたベルナールに肩を貸して立ち上がらせる。

 幸運なことに医務室はすぐ目の前だ。


「でも触ってみたかったなぁ」


 なにをだと目線で問うとベルナールはにやりと笑って「リディアの胸」と答えたので、支えていた腕を離した。途端に少年はよろめいて冗談だと謝ったので背中に手を添えてやる。


「男の夢だろ?」

「……まあね」


 だってさぁの後に続いた言葉を否定できずに同意してやるとベルナールが片目を瞑って「あんた話が分かるなぁ」と嬉しそうに笑ったので苦笑いで応えた。

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