その翡翠き彷徨い【第42 花霞】
七海ポルカ
第1話
994年、春。
サンゴールは長い冬をようやく終え、花の季節を迎えていた。
ゴオン、ゴオン と鳴り響くサンゴール王城の鐘。
メリクは魔術学院にある自分の寮でその鐘を聞いていた。
少し遅れて魔術学院の礼拝堂の鐘も鳴り始めた。
新しい知恵の使徒の誕生を祝う鐘である。
彼は王城で女王アミアカルバから、宮廷魔術師への任命を受けているだろう友へと思いを馳せていた。
馳せながら――幾度となく、羽根ペンを手元の紙に走らせようとしていたのだが、そこに連なる文章がうまく浮かんで来ない。
朝から……もっと言うと、かなり前から友の喜ばしい門出に、何か声を掛けてやりたいと思って考えてはいたのだが、結局何もいい言葉が見つからず手紙一枚書けなかった。
イズレン・ウィルナートはメリクにとって生涯の友であった。
魔術学院で出会い、短い間しかまだ共に過ごしてはいなかったが、彼の明るい魂がメリクが苦しむ時に、その傷を軽くしてくれた。
メリクが王家を巡る陰謀に関わり人を殺めた時も、その秘密を抱え込んで苦しむメリクをイズレンはザイウォンの大聖堂に連れ出しメリクの内なる信仰が、まだ死んではいないのだと気づかせてくれた。
イズレンの存在が無かったら、もしかしたら自分はすでにこの場にいなかったかもしれないとメリクは思うことがある。
友情に応えたいと思うことなど初めてのことで、ありがとうでは単純すぎるし、かといって大袈裟な祝辞などを贈るのも、友の気取ったことを嫌う性格を考えると気が進まない。
言葉ではなく何かを贈ろうか。
でもそれもありきたりだ。
……内に抱えた秘密を明かそうか。
いや、でもそれも違う。
イズレンに対して秘密を持っている。
それが真の友情を損なっているとはメリクは思わなかった。
そしてイズレンもまた、友の秘密を暴いて友情の証にするような性格はしていなかった。
メリクはもう一度、止まったままの羽根ペンを動かそうとした。
そこへガリ、とペン先が乾いた感覚で紙に引っかかると、彼は溜め息をついてもうそれを投げ出してしまった。
気分転換に机の側の本棚にあった本をぺらぺらと捲る。
本を立ち読みしているとき、ふとそこに並べられた一冊の本に目がいった。
導かれるように手を取る。
一冊の古い魔術書。
それは幼い頃サンゴール王城の書庫から持ち出したものだった。
ラキアの修道院に預けられる時に、持って行きたいのなら持って行けとリュティスの許しを得て持ち出した。
メリクはそれを手に取り捲った。
手に馴染んだ感覚で開いたページに古い呪言が書かれている。
「【闇の寄る辺に影は無し……その知は闇に生まれて光放つもの】」
その呪言に重ねて思い出す、唯一の人を想った。
第二王子リュティス。
闇の宿星に生まれ、しかしその鮮烈な生き様はいつもメリクの心を光のように照らして来た。
リュティスが闇で異能の光を放つ者だとしたら。
イズレンというあの男は光で、光ゆえに温かく眩しいのだった。
メリクは闇の宿星で闇であるが故に影を飲み込む。
正反対の性格ではあったが、秘密を抱え込む自分に心を開き、イズレンはいつだって友情を示してくれた。
本を棚に戻して別の本を取ってみる。
冒頭に賢者ラムセス・バトーと炎の紋章を繋ぐ逸話が示されていた。
サンゴール宮廷魔術師団の【炎の紋章】は、サンゴール宮廷魔術師の名を国内外に知らしめた賢者ラムセスの印を、そのまま彼に敬意を示して、宮廷魔術師団の紋章にしたのである。
なお、ラムセスが【炎の紋章】を愛用した理由には二説あり、彼の第一座の魔法とされた『炎』を司る【
もう一説はラムセスの生家とされている、サンゴール最北の街エルヴァレーの豪族ウィルナート一族の家紋をそのまま使用したという説だ。
賢者ラムセスは時のサンゴール王に仕え、その時代ではまだ邪法の認識の域を出ていなかった魔術の力で、王と王妃を導いた。
彼は後に、今でも不死者に対しての最も有効な一手とされる【
国ではなく故郷の家族と気の合う一握りの友人達だけは守りたい。
……そう言った友のことをメリクは思い出した。
彼らの血脈の特徴なのかもしれない。
彼らは地位や名誉ではなく自らの心を重んじる。
心に打ち立てる信条こそ彼らの信仰そのものなのだ。
サンゴール王都に自分の守るべきものはないと言ってのけたイズレンならば、彼はその心に従うべきだ。
彼は自分の心に従い生きればいい。
メリク自身は自分の心に従うと、必ず悪しき運命を手繰り寄せてしまう宿命だが、イズレンは自分の心を見つめていれば、誰かを必ず守れる人なのだ。
情熱を失わせる大地への従属は、彼らの魂を殺してしまう。
言葉を連ねるのではない。
ただ黙って旅立ちを祈るのがその友情に報いることだ、とメリクは思った。
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