第25話

 エリシアとの、あの月夜の会話から、三日後のことだった。


 俺の心の中には、まだ、彼女の言葉が、温かい、そして、少しだけ痛みを伴う、小さな棘のように、突き刺さったままだった。

 俺が、本当に、求めているもの。

 その、答えの出ない問いから逃げるように、俺は、任務に没頭していた。


 今、俺とエリシアがいるのは、境界都市メルクリア。


 かつては、人間と魔族の交易で栄えた、大陸で最も美しいと謳われた街。

 今は、見る影もない。


 両国の、長きにわたる戦争の爪痕が、街の全てを、醜く、深く、えぐり取っている。


 半壊した建物が、まるで、天に助けを求める、亡者の腕のように、空に向かって伸びている。

 中央広場の、女神像が掲げていたはずの水瓶は、無残に砕け散り、そこからは、水ではなく、乾いた風の、ひゅう、という、すすり泣くような音だけが聞こえてくる。


 空気は、埃と、死と、忘れ去られた人々の、悲しみの匂いがした。

 ここは、戦争という、巨大な愚行の、墓場だ。


 俺たちは、この街の、ヴァルハイム王国軍の動向を探るための、偵察任務に来ていた。

 身を隠すための、瓦礫は、いくらでもあった。


 俺は、崩れかけた建物の二階から、眼下の、廃墟と化した中央広場を、静かに見下ろしていた。

 隣には、エリシアが、音もなく、佇んでいる。


 その、時だった。


 広場の向こうから、カツン、と、石畳を打つ、硬質な音がした。

 一人だ。

 この、死の街に、たった一人で、悠然と、歩いてくる、男の姿。


 その姿を、俺の右眼が、捉えた瞬間。

 俺の、時が、止まった。


 夕暮れの、茜色の光を浴びて、きらきらと輝く髪。

 純白の金属に、金の装飾が施された、神々しいまでの、『光輝の鎧』。

 腰に下げられた、刀身そのものが光を放つ聖剣。

 

 その、完璧なまでの、『勇者』の姿。


 間違えるはずが、ない。

 俺の、人生を。魂を。未来を。


 この、復讐という名の、地獄に、突き落とした、張本人。


 俺の、たった一人の、親友だった、男。


「……よう、と」


 俺の喉から、掠れた、自分でも、信じられないほど、弱々しい声が漏れた。

 男――日向陽翔が、広場の中央で、足を止める。


 そして、まるで、最初から、俺がここにいることに、気づいていたかのように、ゆっくりと、こちらを、見上げた。

 

 その、澄んだ、緑の瞳が、俺の姿を、正確に、捉える。


「……レン」


 陽翔の唇が、震えながら、俺の名前を、紡いだ。


「生きて……いたのか」


 その声には、驚きと、安堵と、そして、どうしようもないほどの、深い、深い、罪悪感の色が、滲んでいた。

 その顔を見た瞬間、俺の心の中で、全ての感情が、濁流となって、逆巻いた。


 殺せ。

 頭の奥で、声が響く。

 右眼の奥が、灼けつくように、熱を持つ。


 そうだ。こいつは、俺の、復讐リストの、一番上に、刻まれた名前。

 こいつを殺すために、俺は、あの地獄を、生き抜いたんじゃないか。


 なのに。

 なのに、なんだ。

 

 こいつの顔を見たら、あの日の、他愛ない会話が、馬鹿みたいに笑い合った、消し去ったはずの記憶が、鮮やかに、蘇ってくる。


「ああ」


 俺は、絞り出すように、答えた。


「お前を、殺すためにな」


 その声が、自分でも、情けないほどに、震えていることに、気づいた。

 憎悪と、殺意と、そして、どうしても、消し去ることのできない、友情の、残骸。


 それらが、俺の中で、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、俺を、内側から、引き裂こうとする。


「レン、違うんだ! 聞いてくれ! 俺は……!」


 陽翔が、何かを、必死に、叫んでいる。

 だが、その言葉は、もう、俺の耳には届かない。


 カッ!と、俺の右眼が、激しく、明滅した。

 感情の、制御できない嵐に、呼応するように。


 俺の意志とは、関係なく、身体中の魔法回路が、一斉に、赤黒い光を放ち始める。


 バチチッ!と、黒と赤の魔力が、火花となって、俺の身体の周りで、弾けた。

『災厄の甲冑』が、俺を、喰らおうとしている。


「レン!?」


 隣で、エリシアが、緊張した声を上げる。

 彼女の、白い手が、いつでも『月光の癒し』を詠唱できるように、淡い光を帯びているのが、視界の端に映った。


 やめろ。やめろ。やめろ。

 まだだ。まだ、今じゃない。


 俺の復讐は、もっと、完璧な、舞台で。

 こいつが、最も、栄光に満ちた瞬間に、その全てを、叩き落とすんじゃなかったのか。


 なのに、身体が、言うことを、聞かない。

 憎しみが、心が、俺の理性を、追い越していく。


「お前を……殺すために、生きてきた。だけど……」


 言葉が、続かない。

 だけど、なんだ?


 お前の顔を見たら、分からなくなった、とでも言うのか。

 今更、情でも湧いてきたとでも、言うのか。


 違う。断じて、違う。


 俺と、陽翔。

 復讐者と、勇者。


 その間には、修復不可能なほどの、深い、深い、絶望の河が、横たわっている。

 俺たちは、もう、決して、あの頃の、ただの親友には、戻れない。


 避けられない、戦いの予感だけが、廃墟の街の、冷たい空気の中で、重く、重く、立ち込めていた。

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対魔王軍兵器に改造された俺が魔王軍と共に世界を蹂躙する 暁ノ鳥 @toritake_1

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