第19話
二度目の復讐から、二日後のことだった。
俺の心は、前回を遥かに上回る、強烈な虚無感に支配されていた。
やればやるほど、渇きは癒えるどころか、むしろ酷くなっていく。
復讐という名の麻薬は、もはや俺の魂を癒すどころか、内側から、より深刻に蝕み始めていた。
そんな俺の様子を、エリシアはずっと、黙って見ていた。
そして、その日。
彼女は「貴方に見せたいものがある」とだけ言って、俺を城の医療施設へと連れて行った。
◇
魔王城の医療施設は、俺がいた、あの地獄のような実験室とはまるで違っていた。
清潔で、静かで、空気中には、消毒液のツンとした匂いではなく、心を落ち着かせる、不思議な薬草の香りが清涼に漂っている。
壁には、魔力を帯びた水晶が埋め込まれ、柔らかな緑色の光で、室内を優しく照らしていた。
ここは、治癒と再生のための空間。今の俺には、あまりに不釣り合いな場所だ。
「こっちよ」
エリシアに促されるまま、俺は施設の最奥の部屋へと足を踏み入れた。
そこに、彼女はいた。
広い部屋の中央に置かれた、一つのベッド。
その上に、一人の少女が、ただ、ぽつんと、世界から切り離されたかのように座っていた。
歳の頃は、俺より少し下だろうか。
陽の光を知らないかのような、色素の薄い栗色の長い髪。人形のように大きな青い瞳。
だが、その瞳には、光がなかった。
まるで、磨き上げられたガラス玉のように、何も映さず、何の感情も宿していない。
彼女の身体のあちこちには、痛々しい包帯が巻かれ、そして、両手は、肘から先が、魔法の光を宿した、精巧な銀色の義手に置き換えられている。
その、あまりに痛々しい姿に、俺は思わず息を呑んだ。
「彼女の名は、リーゼ・シュトラウス。貴方より前に、王国の『人間兵器計画』の被験者となった子よ」
エリシアの声は、いつになく、沈んでいた。
「この子を保護した時には、既に……心は、壊れてしまっていたの」
心が、壊れている。
その言葉が、やけに重く、俺の胸にのしかかる。
俺がその意味を咀嚼するより早く、少女――リーゼが、ゆっくりと顔を上げた。
その、虚ろな青い瞳が、俺の姿を、正確に捉えた。
俺の、絶望の色をした白銀の髪を。
俺の、全身に呪いのように走る魔法回路を。
そして、俺の、右眼に宿る赤黒い渦を。
「……お兄ちゃんも、実験されたの?」
その声は、まるで、風が葦の葉を揺らす音のように、か細く、感情の起伏が、一切なかった。
お兄ちゃん、と呼ばれたことに、俺の心臓が、どきりと、大きく跳ねた。
いつ以来だろうか。そんな、温かい響きを持つ言葉を、かけられたのは。
だが、その言葉を発した本人の声は、氷のように冷たい。
そのギャップが、俺の心を奇妙にざわつかせた。
「痛かった? 怖かった?」
リーゼは、こてん、と、無垢な子供のように小首を傾げる。
だが、その仕草は、感情が欠落しているがゆえに、ひどく、不気味に見えた。
彼女は、俺に共感しているわけじゃない。
心配しているわけでもない。
ただ、自分が経験した項目と、俺の経験を、照らし合わせているだけだ。
まるで、壊れた機械が、目の前の物体をスキャンして、データベースと照合しているかのように。
その、あまりに無機質な問い。
その、あまりに虚ろな瞳。
その姿が、復讐という名の、見えないレールの上を、ただひたすらに走り続ける、俺自身の、未来の姿に、重なって見えた。
――俺も、こうなるのか?
ぞわり、と。背筋を、氷の指でなぞられたような、強烈な悪寒が走る。
憎しみの炎で、魂の全てを焼き尽くした果てに。
ヴェルナーを殺し、国王を殺し、そして、陽翔を殺し、全ての復讐を終えた後に、俺を待っているのは、この、感情を失った、空っぽの抜け殻としての生なのか?
怖い、と思った。
心の底から。
あの実験の痛みでも、死の恐怖でもない、まったく別の、もっと根源的な恐怖。
自分が、自分でなくなってしまう、という恐怖。
こんな、生きた屍になるくらいなら、いっそ、今ここで、死んだ方がマシだとさえ思った。
だが。
その恐怖と、同じくらい、強く、確信している自分もいた。
右眼の奥が、どくん、と熱く脈打つ。
脳裏に、あいつらの顔が、次々と浮かび上がっては、憎悪の炎で燃え上がっていく。
――それでも、復讐は、止められない。
そうだ。この道が、地獄へ続いていると分かっていても。
その先に待つのが、この少女のような、絶対的な虚無だと、はっきりと示されても。
俺の右眼に宿る憎悪の炎は、あまりに強く、この生まれたての恐怖さえも、新たな燃料にして、さらに、さらに激しく燃え上がっていく。
この復讐を成し遂げずに死ぬことの方が、よっぽど、怖い。
俺の、内なる葛藤を見透かしたかのように。
リーゼが、ふわり、と笑った。
それは、笑顔ではなかった。
ただ、顔の筋肉が、笑みの形に動いただけの、完璧に、無感情な、微笑。
「同じだね、お兄ちゃん」
その言葉は、呪いの宣告のように、俺の心に、深く、深く突き刺さった。
同じ。そうだ、俺たちは、同じだ。
王国に全てを奪われ、憎しみによってかろうじて生命活動を維持している、壊れた人間。
その瞬間、俺は、はっきりと理解してしまった。
俺が、これから支払うことになる、復讐の代償。
それは、金でも、地位でも、ましてや、命でもない。
俺の、人間としての、心そのものなのだと。
そして。
その、あまりに巨大で、取り返しのつかない代償を。
俺は、支払う覚悟が、とっくにできていることに、自分でも、驚いていた。
俺は、何も答えられなかった。
ただ、目の前の、俺の未来の姿かもしれない少女を、見つめ返すことしかできなかった。
彼女の、虚ろな青い瞳の中に、俺は、自分の魂が、ゆっくりと、静かに、死んでいく様を、はっきりと見ていた。
もう、後戻りはできない。
俺は、俺自身の意志で、人間であることを、やめるのだ。
その、暗い決意だけが、俺の空っぽの心の中で、確かな熱を持っていた。
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