第17話
魔王城に戻ってからも、俺の頭は、昨日の奇妙な空虚感から抜け出せずにいた。
自室のベッドに寝転がり、石造りの冷たい天井を、ただぼんやりと見つめる。
リストの一番上の名前は、昨夜、インクで黒く塗りつぶした。
その瞬間は、確かに、ほんの少しだけ、胸がすくような気がした。
だが、それだけだ。
一晩経った今、俺の心に残っているのは、あの男の恐怖に歪んだ顔でも、命乞いをする声でもない。
ただ、どうしようもない、ガランとした空っぽの感覚だけ。
「復讐って、こんなものなのか?」
自問自答を繰り返す。
何かが違う。何かが、足りない。
あれだけ焦がれ、あれだけ渇望した、復讐の味。
それは、想像していたよりも、ずっと、ずっと薄っぺらで、味気ないものだった。
そうだ。きっと、やり方が悪かったんだ。
あっさり殺しすぎた。
もっと、時間をかけて、じっくりと、絶望の味を教えてやるべきだった。
手足を、一本ずつ、ゆっくりと引き千切り、自分の犯した罪を、その身に刻みつけてから、息の根を止めるべきだったんだ。
そうすれば、きっと――。
「……もっと苦しませてから殺すべきだったかもしれないな」
俺の口から、無意識に、そんな独り言が漏れた。
その、自分でもぞっとするほど冷たい声に、部屋の隅の影が、ぴくりと動いた。
いつからそこにいたのか。
エリシアが、壁に寄りかかるようにして、腕を組み、俺を見ていた。
その紫紅色の瞳には、俺の心の澱を、全て見透かしているかのような、深い光が宿っている。
「復讐に完璧を求めても、満足は得られないわよ」
エリシアの声は、静かだった。
だが、その言葉は、俺の言い訳を、根底から否定していた。
「どんなに残酷な方法を取っても、どんなに時間をかけて苦しめても、貴方の心の穴は、決して埋まらない。むしろ、やればやるほど、その穴は大きく、深くなっていく。復讐とは、そういう呪いなのよ」
俺は、ベッドから身を起こし、エリシアに食ってかかった。
「じゃあ、俺は、何のために生きてるんだ!? これ以外に、俺に、何があるって言うんだよ!」
そうだ。復讐が、俺を生かしている。
あの地獄の実験室で、心が砕け散った俺を、かろうじて繋ぎとめている、唯一の楔なんだ。
これを否定されたら、俺は、本当に、空っぽの抜け殻になってしまう。
俺の、悲鳴にも似た叫び。
それを、エリシアは、静かに、ただ静かに受け止めていた。
やがて、彼女は、ふっと、遠い目をする。
まるで、自分の遠い過去を、その瞳に映しているかのように。
「……私も、同じことを考えていた時期があるわ」
ぽつりと、彼女は、自分のことを語り始めた。
「私は、人間と魔族の混血として生まれた。どちらの世界でも、私は異物だった。そして、ヴァルハイム王国の『大粛清』で、母を、目の前で殺された」
彼女の声は、淡々としていた。
だが、その奥に、凍りついたまま溶けることのない、巨大な悲しみの塊が横たわっているのが、俺には分かった。
「それからの私は、復讐のためだけに生きたわ。母を殺した騎士たちを、その計画を許可した貴族たちを、一人、また一人と、この手で葬ってきた。でも、最後のターゲットを殺した時、私が感じたのは、貴方と同じ……どうしようもない、空虚感だけだった」
エリシアは、俺の前に歩み寄ると、その冷たい指先で、俺の頬に触れた。
その感触に、俺の身体が、びくりと震える。
「でも、貴方には、まだ、復讐以外の可能性が残っているはずよ」
彼女の紫紅色の瞳が、俺を、真っ直ぐに見つめる。
その瞳の奥に、俺は、一筋の、光のようなものを見た気がした。
可能性? なんだ、それは。
俺には、分からない。分かりたくも、ない。
その光に目を向けたら、俺が、俺でなくなってしまう。
この、復讐者としての俺が、崩れてしまう。
それが、何よりも、怖かった。
「俺には、復讐しかない」
俺は、彼女の視線から逃れるように、顔を背ける。
そして、まるで自分に言い聞かせるように、頑なに、そう繰り返した。
「俺には、復讐しか、ないんだ」
俺の、子供のような拒絶の言葉。
それを聞いたエリシアは、深いため息を一つだけつくと、そっと、俺の頬から手を離した。
その手が離れた瞬間、俺の心に、ほんの少しだけ、寂しさがよぎったことに、俺は気づかないふりをした。
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