第11話
魔王城での生活が始まって、二週間が経った。
俺は、割り当てられた個室の鏡の前に、ただぼんやりと立っている。
そこに映っているのは、俺であって、俺ではない、何かの出来損ないだった。
光を頑なに拒絶するような、不吉な白銀の髪。
あの地獄で、俺の心が完全に折れた証。
絶望の色そのものだ。
感情という名の光を失った、氷のように冷たい青い左目。
そして、その隣で。
まるで生きているかのように、どろりとした憎悪の渦を巻く、赤黒い右目。
こいつは時折、俺の意志とは関係なく、ドクン、と不気味に脈打つ。
そのたびに、頭蓋骨の内側に直接、復讐の誓いを囁かれているような気分になる。
そっと、指で自分の頬に触れてみる。
ひんやりとした肌の下に、うっすらと浮かび上がる青い紋様。
全身を呪いのように駆け巡る、人工の魔法回路だ。
「……これが、俺か」
呟いた声は、まるで他人のもののように、乾いて、ひび割れていた。
鏡の中の男は、答えない。
ただ、その非対称な瞳で、俺の魂の奥底をじっと覗き込んでいる。
お前は誰だ、と。
お前は何のために、まだ呼吸をしているんだ、と。
答えは、とっくに出ている。
俺は鏡から目を逸らし、部屋を出た。
◇
石造りの冷たい廊下は、どこまでも静かだ。
ヴァルハイム王国の、悪趣味なほどに華美な装飾とは違う。
ここは、全てが実用性のために作られている。
巨大な石材を寸分の狂いもなく組み上げた壁、魔力の光を宿した鉱石が放つ、頼りないが安定した照明。
全てが、永い年月と、数多の戦いを経てきた、本物の城の風格を漂わせていた。
廊下の警備に立つ、牛頭の魔族が、俺の姿を認めてフンと鼻を鳴らす。
その巨躯は俺の三倍はありそうだ。
敵意はない。だが、好意もない。
ただ、異物を見る目だ。
すれ違う、闇色の肌をしたエルフの集団は、俺に一瞥をくれると、ひそひそと何かを囁きながら足早に去っていく。
俺には理解できない魔族の言葉。
だが、その視線に含まれた感情は、痛いほど伝わってきた。
恐怖、軽蔑、侮蔑。そして、ほんのわずかな、期待。
俺は、誰とも視線を合わせない。
合わせる必要がない。
俺はこいつらの仲間じゃない。
ただ、利害が一致しているだけ。
俺が復讐を遂げるために、魔王軍の力を利用する。
魔王軍は、俺のその力を、王国を打倒するために利用する。
それだけの、ドライな関係だ。
だだっ広い食堂に着くと、様々な種族の魔族たちが、思い思いに食事を取っていた。
屈強なオークたちが骨付き肉に齧り付き、リザードマンたちが奇妙な液体の入った盃を呷っている。
その喧騒の中で、俺の存在は、やはり浮いていた。
俺がトレーに黒パンと塩辛いスープだけを乗せると、周囲の視線が一斉に突き刺さる。
俺はそれを背中で受け流し、壁際の、一番隅の席に腰を下ろした。
これが、俺の新しい定位置。
味なんて、分かりはしない。
舌が、脳が、美味いとか不味いとか、そういう信号を発することをやめてしまったみたいだ。
ただ、生命を維持するためだけに、固形物を咀嚼し、液体で喉に流し込む。
その、色のない作業の最中。
ふわり、と夜に咲く花のような、冷たく甘い香りがした。
「少しは慣れた?」
声の主は、エリシア・ノクス。
漆黒のドレスを纏った、この城で唯一俺を「風間レン」として扱う魔女だ。
彼女は俺の向かいの席に、音もなく優雅に腰を下ろす。
その所作一つで、周囲の魔族たちのざわめきが、ほんの少しだけ静かになるのが分かった。
「慣れるも何も、俺には帰る場所なんてどこにもないからな」
スープを一口すすり、事実だけを口にする。
日本での、陽翔の隣という名の、歪んだ居場所は、あの裏切りの瞬間に燃え尽きた。
そして、この異世界で与えられたのは、「素質なし」というゴミの烙印だけ。
どこにも、俺の帰る場所なんてない。
エリシアは、俺の言葉に何も言わず、ただその美しい紫紅色の瞳で、俺の顔をじっと見つめている。
その瞳に、憐憫の色はない。
それが、今の俺には、何よりも心地よかった。
「ここが貴方の居場所よ」
やがて、彼女は静かにそう告げた。
まるで、世界の真理を語るかのように。
その言葉に、俺の中の何かが、カチンと冷たい音を立てた。
居場所? こいつは、何を言っているんだ。
「居場所じゃない」
俺は、スプーンを置き、エリシアの目を真っ直ぐに見据えて、冷たく訂正する。
「ここは、復讐のための、拠点だ」
同情も、安らぎも、仲間意識も、今の俺には反吐が出る。
この身に宿る唯一の熱は、憎悪。
この城は、その憎悪を遂げるための、ただの道具置き場に過ぎない。
俺は、俺自身の意志で、そう決めたんだ。
俺の、氷のような拒絶の言葉を聞いて。
エリシアは、気を悪くした様子も見せず、ふっと、ほんのわずかに、その唇の端を綻ばせた。
それは、三日月のように妖しく、そして、どこか満足げな笑みだった。
「ええ、そうね。最高の拠点だわ。私たちの、ね」
その言葉が、俺の空っぽの心に、奇妙なほど、しっくりと響いた。
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