第7話

 あれから、どれほどの時が経ったのか。

 もはや、どうでもよかった。


 俺は、地下研究施設のさらに下層、第二手術室と呼ばれる場所にいた。

 最初の実験室よりもさらに狭く、空気が淀んでいる。

 壁一面に、意味の分からない魔法陣や解剖図がびっしりと貼り付けられ、部屋の中央には、拘束具付きの歯科治療椅子のような、禍々しい形状の台座が一つだけ置かれていた。


 俺はその椅子に、首まで完全に固定されて座らされている。

 数週間にわたる断続的な苦痛と、最低限の栄養しか与えられない劣悪な環境は、俺の身体から抵抗する力を、そして精神から生きる気力さえも、綺麗さっぱり奪い去っていた。


 今の俺は、ただ呼吸をしているだけの、肉の塊だ。


 そこへ、ヴェルナーが、まるで恋人に会いに来たかのような浮ついた足取りで入室してきた。

 その手には、黒檀のような木で作られた、豪奢な小箱が大事そうに抱えられている。


「待たせたね、我が愛しの被験体No.288」


 ヴェルナーの血走った目は、いつも以上に狂的な熱を帯びている。

 彼は俺の前に立つと、うっとりとした表情で宣言した。


「いよいよ計画の最終段階だ。君という凡庸な器に、神の欠片を埋め込み、新たな生命として昇華させる、奇跡の瞬間だよ」


 パカリ、と小箱が開けられる。

 その中に鎮座していたものを目にした瞬間、俺の身体の、死んだはずの細胞が、本能的な恐怖に絶叫を上げた。


 それは、ビー玉ほどの大きさの、赤黒い宝玉だった。

 

 ただの宝石ではない。

 それは、まるで生きているかのように、ゆっくりと、心臓のように脈動していた。


 内部では、深紅と漆黒の光が、憎悪と絶望を練り上げたかのように、どろりと渦を巻いている。

 見ているだけで、正気を削り取られるような、冒涜的な存在感。


「美しいだろう? これこそが、伝説に謳われる『七つの災厄の眼』が一つ、『災厄の赤眼』だ。神が世界を創造した際にこぼれ落ちた、涙の化石だとも、怒りの欠片だとも言われている。これを君の右眼に移植し、君は人を超えた存在となるのだ!」


 右眼に、移植する?


 ヴェルナーの言葉の意味を理解した瞬間、俺の脳内で何かが焼き切れた。


 椅子に備え付けられていた、複数のアームを持つ機械が、ウィーン、と起動音を立てて動き出す。

 その先端には、ドリルやメス、そして肉を抉るためであろう鉤爪のような、おぞましい医療器具が取り付けられている。


 それが、俺の右目に向かって、ゆっくりと迫ってくる。


「や……やめろ……やめろおおおおおおおっ!!!」


 死んでいたはずの身体に、最後の生命力が燃え上がる。


 俺は、獣のように咆哮し、全身の筋肉を総動員して拘束具に抵抗した。

 ガクン、ガクンと椅子が揺れる。

 革のベルトが、肉に食い込んで軋む。


 だが、そんな俺の最後の抵抗を、ヴェルナーは鼻で笑った。


「おやおや、今更になって生命力が湧いてきたのかね? 素晴らしい! 実に素晴らしい!」


 ヴェルナーが杖を軽く振るうと、俺の身体に不可視の圧力がのしかかった。

 魔法による強制的な拘束。

 指一本、まぶた一枚すら、俺の意志では動かせなくなる。


 俺にできるのは、ただ、目の前に迫る死と冒涜を、見つめていることだけだった。


 器具のアームが、俺の右目の瞼を無理やりこじ開ける。

 そして、鋭利な先端が、眼球の縁に、ひたりと触れた。


 その瞬間の、氷を突き刺されたかのような鋭い冷たさと、それに続く、筆舌に尽くしがたい激痛。


「――――――――ッッッ!!!」


 声にならない絶叫が、俺の内で爆ぜた。


 視神経が、焼き切れる。

 引きちぎられる。ぶちぶちと、何かが断裂する、聞きたくもない音が、頭蓋骨の内側で反響する。


 視界の右半分が、閃光と共に永遠の闇に閉ざされる。

 生暖かい液体が眼窩から溢れ出し、頬を伝っていくのが分かった。


 そして、虚無。

 そこにあるべきものが、なくなったという、絶対的な喪失感。


 だが、地獄はまだ終わらない。


 抉り出された空虚な眼窩に、ヴェルナーは歓喜の歌でも歌うかのように、あの赤黒い宝玉を、押し込んできた。


 熱い。痛い。気持ち悪い。

 

 異物が、聖域を犯し、神経の断端と無理やり癒着していく。

 そのたびに、脳を直接かき混ぜられるような、冒涜的な感覚が全身を駆け巡った。


 やがて、施術が終わる。

 ヴェルナーは、満足げに俺の拘束を解いた。


 俺は、もはや叫ばなかった。泣きもしなかった。

 ただ、ゆっくりと顔を上げた。


 右目の視界が、開く。


 そこから見える世界は、もはや俺の知る世界ではなかった。

 全てが、血のような深紅のフィルターを通して見える。

 

 ヴェルナーの白衣も、研究室の壁も、なにもかもが赤く、そしてその輪郭からは、生命力や魔力のようなものが、オーラとなって揺らめいているのが見えた。


 痛みは、ある。

 だが、そんなものは、もうどうでもよかった。


 この瞬間、俺の中で、風間レンという人間の心は、完全に砕け散って、消滅した。


 恐怖も、悲しみも、絶望さえも、あの激痛が全て焼き尽くしてしまった。

 後に残ったのは、空っぽになった心の器に、灼熱の鉄のように注ぎ込まれた、ただ一つの感情。


 国王アルキメデスへの、憎悪。

 科学者ヴェルナーへの、憎悪。

 

 そして、俺を見捨てた親友、日向陽翔への、底なしの、純粋な憎悪。


 俺は、新しい右目で、ヴェルナーの姿を捉えた。

 その魂が、恐怖に揺らめくのが見えた。


 俺は、静かに、誓った。

 お前たちを、殺す。

 

 この世界で俺から全てを奪った、お前たち全員を、この手で、跡形もなく、残らず、殺す。


 それが、俺がこれから為すべき、唯一のことだった。

 

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