或る日のための、

或 るい

或る日のための、

空の色が、心をすり潰して水に溶かしたみたいだ、と時々思う。

色のない、味もない水。それを毎朝、喉の奥に流し込んで一日を始める。そうしなければ、この身体は動いてくれない気がした。通学路の敷石は律儀に数を揃えて並んでいるのに、私の足取りはいつも、どこか一つを踏み外しているような覚束なさで揺れていた。まるで、厚い霧の中を手探りで歩いているみたいに、世界の輪郭がずっとぼやけていた。


家に温かいという記憶はない。それは温度の話ではなく、もっと心の芯に関わることだった。「おかえり」という声が響かない玄関。夕食の匂いがしないダイニング。そこは生活の場所というより、ただ眠るためだけに割り当てられた、冷たいコンクリートの箱。私は物心ついた頃から、自分という存在を薄く、薄く引き延ばす術を覚えていった。気配を殺し、感情に分厚いガラスの蓋をし、誰の視界にも映らない透明な膜になる。そうすれば、予期せぬ言葉のナイフが飛んでくることもない。世界は私を傷つけないと、幼いながらに悟っていた。


日常の片隅に、埃のように落ちているささやかな光を見つけては、それを大事にポケットにしまう。道端に咲く小さな花の健気さ。自販機のルーレットが当たった偶然。そんな、誰のものでもない幸福の欠片にしがみついていれば、なんとか呼吸はできた。そうやって、やり過ごしてきた。


なぎさに会うまでは、ずっと。


彼女は、まるでこの世のすべての光を盗んで、その身に纏ってしまったかのような人だった。

隣のクラスの、いつも窓際の席で、陽だまりを独り占めするように本を読んでいたなぎさ。病気で休みがちだったけれど、彼女が教室にいる日は、淀んでいた空気さえもきらきらと輝く粒子になって、ゆっくりと舞っているように見えた。


運命なんて信じていなかったけれど、あの日、図書室で起きたことはそう呼ぶしかないのかもしれない。古びた本の匂いが満ちる静寂の中、同じ一冊に、ほとんど同時に手を伸ばした。彼女の細い指先が、私のそれに、ふわりと触れた。


その瞬間、私の中に張り巡らされていた氷の壁に、パチリ、と小さな亀裂が入る音がした。


「ごめん」

彼女の声は、春の小川のせせらぎみたいに澄んでいた。

「あ、いえ……あの、どうぞ」

言葉が、錆びついたブリキの人形みたいにぎこちなく口からこぼれる。


すると彼女は、悪戯が成功した子供のように、くすりと笑った。その笑顔だけで、窓から差し込む午後の光が、彼女の周りにだけ集まってくるように見えた。


「じゃあ、半分こしよっか。君が読み終わったら、私に貸して」


その日からだ。私の灰色一色だった世界に、滲むようにして淡い色彩が灯り始めたのは。

なぎさと交わす他愛ない言葉は、乾ききった砂漠に染み渡る清水のようだった。彼女が語る物語は、私が知らなかった世界の扉を次々と開けていく。放課後、夕暮れのグラウンドを二人で眺めたこと。雨宿りした軒先で、アスファルトを叩く雨音をBGMに、どうでもいいことで笑い合ったこと。彼女が貸してくれた本のページの、古くて甘いインクの匂い。


それら全てが、今まで見過ごしてきた世界の一部だったなんて信じられなかった。なぎさというレンズを通すと、ありふれた風景が、まるで宝石を散りばめたみたいに輝いて見えた。誰かの手のひらが、こんなにも心強いこと。並んで歩く影が二つになるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなること。私は、生まれて初めて「幸せ」の輪郭に触れた気がした。


「君はね、もっと欲張っていいんだよ」


いつだったか、海を見下ろす丘のベンチで、彼女は言った。潮風に揺れる私の髪を、その細い指先でそっと梳いてくれた。その感触がひどく優しくて、堪えきれずに俯いた私に、彼女は続ける。


「自分のために怒って、自分のために泣いて、自分のために笑うの。君の世界の真ん中には、君がいなきゃだめなんだよ」


でも、と私は思う。そのやり方が、どうしても分からなかった。私の世界の真ん中には、いつだってあなたがいたから。私の幸せは、あなたが隣で笑ってくれていること、ただそれだけだったから。


神様がいるのなら、きっとひどく意地悪なのだろう。なぎさに与えられた時間が、砂時計の最後の数粒みたいに残り僅かだと知ったのは、空に鱗雲がどこまでも広がっていた、秋の日のことだった。

彼女は、残酷な事実を告げる時でさえ、穏やかに、本当に困ったように微笑んでいた。その笑顔が、私の心を鋭利なガラスの破片のように、ずたずたに切り裂いていく。


やがて、なぎさはいなくなった。

世界から、また色が消えた。

いや、以前よりもっと深く、もっと救いのないモノクロームに沈んだ。一度鮮やかな色彩を知ってしまった目は、もう元の灰色には戻れない。失われた色の強烈な残像が、瞼の裏で陽炎のようにちらついて、私を絶えず苛むだけだった。


なぎさのいない世界で、どうやって息をすればいい?

彼女は最期に、ほとんど吐息のような声で、私の耳元に言葉を残していった。


「私の分まで、幸せになってね」


それは、温かい祝福であると同時に、冷たい鉄の枷だった。

あなたがいないこの世界で、私が幸せになる? どうやって? そんなこと、できるはずがない。それは、たった一人のあなたに対する、許されない裏切りじゃないか。


息をするのも苦しくて、何もかもを投げ出して、あの冷たい箱にさえ帰りたくなくて、夜の街をあてもなく彷徨った日もあった。でも、そのたびに、なぎさの顔が浮かぶのだ。私の幸せだけを、純粋に願ってくれた彼女の、あの儚い笑顔が。


だから、私は夢を見ることにした。

私みたいな子や、なぎさみたいな子が、もう二度と現れない世界。理不尽な痛みに、たった一人で耐えなくていい社会。誰かが誰かの幸せを、当たり前に願える優しい場所。


その夢のためなら、私は生きられる。私の幸せのためではなく、まだ見ぬ誰かの幸せのためなら、この足で立てる。そう信じることで、かろうじて自分という存在の輪郭を保っていた。スマートフォンの画面をなぞり、時々開くSNSのアカウント。「或るい」という名前。それは、なぎさではない「ある人」の物語であり、私ではない誰かのための祈り。そう自分に言い聞かせ、お守りのように、ただそれを眺めていた。


今日も、海沿いの道を一人で歩く。

潮風が頬を打ち、なぎさが好きだった金木犀の甘い香りをどこかへ攫っていく。冷え切った手すりに両腕を乗せ、鉛色の波間をぼんやりと見つめる。寄せては返し、白い飛沫を上げて消えていく波音が、まるで世界の巨大な溜息のようだ。


私の幸せは、どこにあるんだろう。

分からない。今も、きっとこの先も。


でも、それでいいのかもしれない。なぎさがくれた温かい記憶のかけらを、この胸の奥深くで大切に抱きしめて、誰かのための未来を紡いでいく。それが、今の私にできる、唯一の償いであり、祈りなのだから。


不意に、風が強く、強く吹いた。

思わず目を閉じると、瞼の裏に、なぎさとの日々が陽炎のように揺らめいた。図書室の陽だまり。雨宿りの軒先。丘の上のベンチ。私の名を呼ぶ、彼女の澄んだ声。


幻だ。分かっている。

それでも、あまりにも鮮やかに、耳の奥で、あの声が響いた気がした。


――大丈夫だよ、るい。


ハッとして、ゆっくりと目を開ける。

そこには誰もいない。ただ、静かな潮騒が、今しがた私の名前を呼んだ声の余韻を攫うように、遠くへと響いていくだけ。


けれど、その瞬間。

ほんの一瞬だけ、世界を覆っていた分厚い霧が、ふわりと晴れた気がした。鉛色だった海が、夕陽の最後の光を反射して、金色にきらめいているのが見えた。

救われたわけじゃない。何も解決してはいない。

でも、冷え切っていた胸の奥に、小さな、小さな灯りがともったような。

そんな、気がした。

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