【短編】夏灯りの残影

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【短編】夏灯りの残影


 最寄り駅のホームに降り立った瞬間、記憶の底から蘇る、あの甘い匂いがした。焦げたソースと、熱気を帯びた綿菓子の甘さ。そして、遠くから響く太鼓の腹に響く音が、胸の奥をじんわりと締め付ける。十年ぶりだろうか、夏祭りの日に故郷へ帰るのは。俺はもう大学生になり、東京の喧騒に慣れきったはずなのに、この町の空気だけは、あの頃と何も変わっていないように感じられた。


 駅舎を出ると、夕暮れの空が茜色に染まり始めていた。商店街のアーケードには、色とりどりの提灯が吊るされ、風に揺れている。昼間は閑散としていた道も、日が傾くにつれて浴衣姿の人々が増え始め、屋台の準備に追われる店主たちの声が響く。賑やかで、熱気が満ちていて、まるで俺だけが、この活気から切り離された存在であるかのように感じられた。


 祭りのメイン会場である広場へ向かう道は、既に人でごった返していた。射的や輪投げ、金魚すくいの屋台からは、威勢のいい呼び声が飛び交い、子供たちの歓声が響き渡る。その熱気に、自然と足が向かう。


「金魚すくい、いかがっすかー! ポイは何度でも交換できますよー!」


 威勢のいい声が聞こえてきて、ふと、足が止まった。見慣れた屋台の、変わらない提灯の明かり。そこには、俺と、じいちゃんの思い出があった。毎年、祭りに来ると、じいちゃんは必ずこの金魚すくいの屋台に連れてきてくれた。


「ほれ、健太。ようく見て、狙いを定めんだぞ。金魚はなぁ、まっすぐ泳がねぇんだ。人生も一緒だ。だが、それでも諦めずに追いかけるのが、男ってもんだ」


 いつもそう言って、不器用な手でポイを握りしめ、目を凝らしていたじいちゃん。俺がすくえずにポイを破ってしまうと、「お、惜しかったなぁ! また次、次!」と、惜しげもなく新しいポイを渡してくれた。結局、じいちゃんがすくってくれた金魚ばかりだったけれど、あの時の、小さな袋の中で泳ぐ金魚の輝きと、じいちゃんの温かい手のひらは、今でも鮮明に覚えている。俺は一人、屋台の前に立ち尽くしたまま、人波に押されそうになった。


 広場の中央には、盆踊りの櫓が組まれ、その周りを老若男女が楽しげに踊っている。ふと、見慣れた狐のお面が目に入った。真っ赤な顔に、鋭い目元。懐かしい気持ちで露店に近づくと、隣にはうさぎや猫など、様々な動物のお面が並んでいた。


「健太、あんたはこの狐のお面が一番似合うよ。賢そうで、でもちょっと寂しそうな顔が、あんたそっくりだ」


 昔、ばあちゃんがそう言って、少し笑いながら買ってくれた狐のお面。あの時、照れくさくてすぐに外してしまったけれど、ばあちゃんの優しい眼差しと、少しカサカサした手の感触を思い出す。ばあちゃんは、いつも手作りの弁当を持たせてくれて、俺が風邪を引いた時には、誰よりも心配して看病してくれた。温かくて、少しお節介なばあちゃんの笑顔が、目の前のお面と重なって見えた。


 人混みを避けるように、俺は広場の裏手にある細い路地へと足を踏み入れた。ここも、昔と変わらない。草木が生い茂り、昼間でも薄暗い、小さな抜け道。


「ここなら誰にも見つかんねぇよな! 健太、秘密な?」


 親友のタケルが、ニカッと笑ってそう言った声を覚えている。毎年、祭りで人混みに疲れると、俺たちは二人でこの抜け道を通って、広場の外れにある神社の裏手へ行った。そこで、冷たいサイダーを飲んで、汗だくになりながら、他愛もない夢を語り合った。タケルは、いつだって俺の一歩先を行くような、明るくて行動力のある奴だった。



 やがて、祭りの喧騒が最高潮に達した頃、ドーン、という鈍い音が響き渡った。そして、夜空に大きな花が咲く。赤、青、緑、金色…色とりどりの光が、一瞬にして夜空を彩り、そして儚く消えていく。


「うわぁ…きっれー!」


 隣で、タケルが興奮した声を上げた。

「すげぇな、これ! 来年も絶対見ような!」


 毎年、花火が上がると、俺とタケルは、じいちゃんとばあちゃんの隣で、同じように空を見上げていた。じいちゃんは「今年はデカいのが上がったな!」と豪快に笑い、ばあちゃんは「あんまり上ばかり見てると、首が痛くなるよ」と優しく声をかけてくれた。あの時の、四人で寄り添い、花火を見上げた温かい記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。隣にいるはずの彼らの温もりを、俺は確かに感じていた。


 一瞬の輝きと共に、花火は消えていく。まるで、あの頃の思い出のようだと、俺は思った。形としては残らないけれど、確かに心の中に焼き付いている。


 ドーン、ドーン、と花火の音が続く。その音と光の中で、俺はふと、心に灯る小さな光を感じた。寂しさはまだある。だけど、じいちゃんも、ばあちゃんも、タケルも、決して完全に消え去ったわけじゃない。彼らがくれた温かさ、楽しかった記憶、そして教えてくれたことの全てが、確かに俺の中に息づいている。この胸の奥で、消えることのない光として、俺を支え続けてくれている。


 花火の光が、まるで俺の心の内側を照らしているようだった。彼らがくれた思い出は、悲しみだけのものじゃない。それは、俺を強くし、優しくする力を持っている。そして、この祭りのように、毎年形を変えながらも、ずっと続いていく。


 夜空に最後の花火が大輪の華を咲かせ、そしてゆっくりと消えていった。祭りの賑わいは、徐々に静けさへと変わっていく。人々が家路につき、屋台の明かりも一つ、また一つと消えていく。


 俺は、高台から静かにその光景を見下ろしていた。来年も、再来年も、この祭りはきっとここにあるだろう。そして、俺もまた、この場所へ帰ってくるだろう。その時、俺はきっと、もっと強くなって、もっと優しい人間になっているはずだ。


 彼らが教えてくれたこと。それが、今の俺を形作っている。そして、これからの俺を、未来へと導いてくれる。祭りの灯火が消え、夜の帳が降りる中、俺の心には、確かな希望の光が灯っていた。


 家路につく道すがら、振り返る。祭りの残像が、まだ目に焼き付いているようだった。夏の夜空に、確かに彼らの声が、笑い声が、響いていた。そして、その記憶は、これからもずっと、俺の心の中で生き続けるだろう。










 あの祭りの夜から、わずか数週間後のことだった。


 この地域を、観測史上最大規模の大地震が襲った。


 家々は音を立てて崩れ落ち、道路は寸断され、町は一瞬にして廃墟と化した。あの賑やかな商店街のアーケードも、金魚すくいの屋台も、狐のお面が並んでいた露店も、全てが瓦礫の下に埋もれた。盆踊りの櫓が立っていた広場は、泥と土砂にまみれ、かつての面影はどこにもない。


 そして、俺の愛するじいちゃんも、ばあちゃんも、この町で命を落とした。タケルの家族も、遠く離れた地で暮らしていた。でも、この震災によって連絡が途絶え、安否は確認できなかった。あの祭りで出会った人々も、笑顔を交わした屋台の店主も、もうどこにもいない。かつての温かい記憶は、冷たい現実によって、激しく揺さぶられ、粉々に砕け散ったかのようだった。


 俺は、幸いにも地震発生時には猫と机の下にいたため、無事だった。しかし、助かったという安堵よりも、言いようのない絶望と、深い喪失感が俺の心を支配した。なぜ、もっと話を、笑顔を、分かち合わなかったのだろう。後悔と自責の念が、俺の心を蝕んだ。


 数年が経った。


 あの町は、今も復興の途上にある。瓦礫は撤去され、新しい道路が整備され、真新しい建物が少しずつ建ち始めている。しかし、そこには、かつての活気も、祭りの賑わいも、温かい人々の笑顔もない。ただ、無機質なコンクリートと、まだ真新しいアスファルトが広がっているだけだ。


 俺は、年に一度、夏祭りの時期になると、この町を訪れるようになった。もう、あの太鼓の音は聞こえない。屋台の匂いも、提灯の明かりもない。それでも、俺は、変わり果てたこの場所に立ち尽くし、目を閉じる。


 すると、鮮やかに蘇ってくるのだ。


 じいちゃんが金魚すくいのポイを握る不器用な手。ばあちゃんが笑いながら差し出してくれた狐のお面。タケルと二人、秘密の抜け道を駆け抜けた足音。そして、夜空いっぱいに咲き誇った、あの花火の光と音。


 それらは、現実にはもう存在しない。しかし、俺の心の中では、あの夏祭りの一日が、永遠に生き続けている。彼らの声が、笑顔が、温もりが、今も確かに俺の胸の奥で響いている。


 この場所は、もう二度と、あの頃の賑わいを取り戻すことはないだろう。だが、俺は知っている。


 失われたものは、決して消え去るわけではない。


 形を変え、心を突き刺す痛みに変わることもあるけれど、それでも、その記憶は、俺という人間を形成する大切な一部なのだ。そして、その痛みを抱えながらも、俺は生きていかなければならない。彼らが教えてくれたように、「諦めずに追いかけるのが、男ってもんだ」と。


 俺は、変わり果てた町を見下ろす高台に、静かに目を閉じて立った。そこには、花火は上がらない。人々の喧騒もない。ただ、潮風が静かに頬を撫でていくだけだ。


 それでも、俺の心の中には、あの夏祭りの残像が、鮮やかに、そして永遠に灯り続けている。それは、失われたものへの鎮魂歌であり、同時に、未来へと歩むための、ささやかな希望の光だった。

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